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ラブホテルというのは、やはり秘密ごとを交わす場所だからなのだろうか。どこへいっても薄暗く、そして甘ったるいような空気が流れている。その空気をかき消すかのように、最新型の空気清浄機が静かに作動している。
ピンク色のソファに水田が座っている。相変わらず妖しい笑みを湛えている。何度見ても、雫はこの微笑みに慣れなかった。心の動揺を悟られないように、雫は無意味にベッドをきしませた。
「久しぶりだね。雫」
不意に水田が呟いた。雫は「そうね」とだけ言った。あれから季節は変わり、外には初夏の空気が溢れていて、少し動けばじわりと汗ばむようになった。水田の視線から逃れるように、雫は右手の人差し指のささくれをいじる。水田はしばらくそんな雫を見つめていたが、立ち上がって雫の左横に腰掛けた。
甘い香りがする。水田は香水も何もつけていないのに、いつも甘い香りがした。その香りがいつも女を酔わせるのだろうと、雫は思っていた。そして、その香りが自分の中心を潤わせていく。
「君が好きだよ。雫」
水田は雫の耳元で囁いた。ざわりと肌が粟立つ。水田の顔を見ることはできなかった。だが、横目で水田の輪郭を捉えている。甘い香りが強くなった気がした。
「あの雨の日のことを覚えてる?君が柳君と会った日」
「……」
「あの日、僕はとても嫉妬したよ」
「…あなたもそんな冗談を言うのね」
雫の心臓の鼓動が耳の奥でうるさいくらいに鳴り響く。水田の右手が雫の視界に入った瞬間、雫は上半身を捻らせてその手を掴み、そのまま水田をベッドに押し倒した。
水田が少し驚いた目で雫を見上げていた。雫は息を呑んだ。だがもう後に引くつもりはない。
「ねぇ、何を私に言おうとしてるの?まさか彼女になれとでも言うつもりじゃないでしょうね?」
水田なら、いや、成人男性ならきっといとも簡単に押し返せる筈なのに、水田はむしろ力を抜いていた。驚いた表情は一瞬だけで、あとはまたいつもの妖しい微笑みで、むしろ楽しんでいるようだった。
「もし、そうだとしたら?」
「お断りよ。私はあなたの彼女になんてならない。なりたくない」
「自分で言うといやらしいけど、そんなこと言われたのは初めてだよ。一体なぜ?」
雫の射るような視線と、水田のからかうような視線が入り混じる。雫は水田の手首を掴んでいる両手に力を込めた。
「…あなたはわかってるんでしょう?私があなたから離れられないことを」
水田の表情が、少し変わった。まるで波が引くように、あの妖しい笑みが消えた。
雫は唾を飲み込んだ。
「あなたが思っている通りよ。私はあなたから離れられない。だから決めたのよ。都合のいい、頭が悪い女を演じてあげる。だからあなたも」
「都合のいい男を演じろ、と?」
再び水田の顔に笑みが浮かんだ。それはまるで共犯者のような、暗い、だけど悪魔のように魅力的な微笑みだった。
「君を初めて見たとき、間違いないと思ったよ。今までの女とは間違いなく違う、俺と同じだってね」
「違う。勘違いしないで。あくまで私は演じるのよ。誰にも指示なんてされてない。私自身が決めた」
そう言った瞬間、視界が反転した。さっきまで見下ろしていたはずの水田の顔が、雫の上にあった。
「君は俺から離れられない」
水田は低い声で呟いた。その時、あの大雨の日、玄関先で雫の体を何度も何度も突き上げた水田がとぎれとぎれに呟いたセリフが重なった。そうだ。あの時。水田はそう言ったのだ。「君はもう俺から離れられない」と。
水田は雫の顎を乱暴に掴み上げた。
「ずっと俺を求めるといい。そして、俺は求められる度君に与えてやる。ずっとだ」
この人は。ずっと、待っていたのかもしれない。自分の毒にハマり続ける相手を。
水田はニヤリと笑い、雫の唇に自分の唇をゆっくり重ねた。毒が再び雫の体を、脳を侵していく。
堕ちていくなら、それでもいい。堕ちて、堕ちて、最後に何もなかったとしても。
雫は静かに目を閉じた。目尻から零れた涙は、恐ろしく透明に近いみずいろだった。
Fin.