part1
涙は透明なのに、なぜ絵を描くと青色に塗り潰されるのだろう。
水と聞くと哀しい色に感じられるからだろうか。特に涙は。
嬉し涙や悔し涙、色々種類のあるものだけど、私は哀しい涙以外に流した覚えがない。負の感情を涙が吸い取り、外に排出していく。それでいつも解消していた。
「雫、君が欲しいんだ」
耳元で囁かれる甘い言葉。わかってる。これが毒だってことは。
毒だとわかっていても、終わったあとにまた涙が流れることも。
それでも私はこの毒を進んで飲み込む。深く暗く、でも甘美な闇へ自ら堕ちていく。
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「雫」
私は真向かいに座る男の口がそう動いたのをはっきりと見た。一瞬、頭の中がショートしたのがわかった。
「って、可愛い名前だね」
ダウンライトに照らされた男の笑みはとても妖しさを秘めていて、その目は上弦の月のようになった。
雫が勤める会社の忘年会では、他部署との交流を深め、仕事を円滑にできるようにという意向により、まるで合コンのようなノリで席を決める。合コンのようなノリで、ということもあり、席替えする度にきちんと自己紹介もする。
総務部で働いている雫の前に座っているのは、営業部の水田だ。背が高く、優しい面持ちをしており、いつも口角が柔らかく上がっている。
水田は会社内では有名だった。特に女たちの間で。その理由は雫もすぐにわかった。水田には何ともいえない色気があったのだ。
とろりとした甘い蜜のような空気が、いつも水田の周りを囲んでいた。雫はいつもその空気が怖かった。あれは毒だ。甘い綿菓子のように口に含めばすぐに溶けて、もっともっととせがんで欲しくなる。きっと中毒になってしまう。離れられない。
雫は極力水田に近寄らないようにした。幸い水田は女性から人気があったので、総務で水田個人に用事ができても、他の子に頼めばすぐに行ってくれた。
このまま関わらずにいたかった。
だが、今目の前にいるのはその関わらずにいたかった水田だ。
相変わらず甘い毒を纏っている。胸の奥に広がる冷たい水を感じながら、雫は社交辞令的な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「あぁ、やっと口を聞いてくれた」
水田は更に目を細めた。
「君、僕に近寄らないようにしてるよね」
「まさか。水田さんに近寄りたくない女性なんていませんよ」
雫はうまく笑えているか不安だった。胸にたくさんの小さな虫が蠢いているような不快感を、彼に見抜かれていないだろうか。喉が渇いて息苦しさを感じた。雫は烏龍茶を口に含む。
「ねぇ、水田さぁん。あたし酔っちゃったかもぉ」
水田の横に座っていた同じ総務の若い女の子が水田に寄りかかる。深いVカットから見える胸の谷間に、雫は目を奪われた。
「ほんと?じゃあ横になる?」
水田は表情を変えることなく女の子を優しく見つめる。自分から注意がそれたことに安堵し、雫はトイレに立ち上がった。
トイレから出ると、目の前が一瞬暗くなった。見上げると水田が立っていて、雫は一瞬たじろいだ。
「水田さん。ここは女子トイレですよ。男子は…」
「逃げれたと思ってほっとしてる?」
「何の話でしょう?それよりさっきの子、大丈夫ですか?」
「僕、一度狙いをつけたら逃がさないよ?」
全身の毛穴が粟立つ。掌が汗ばんでくる。雫は持っていたハンカチを強く握り締めた。
不意に水田の顔が雫の前に浮かんだ。そして、水田はそっと雫の耳元で囁く。
「雫、君が欲しいんだ」
甘い、毒を含んだ声が、雫の鼓膜を通して脳を侵していく。