少年の運命 9
コンコン、何かの音がする。コンコン、まだだ。コンコン……
ハッとリヒトは目を覚ました。ドアをノックする音だ。
「はい!すみません!」
慌てて返事をして泣いたまま眠ってしまった目を擦る。いつのまにか外はもう暗くなっている。かちゃり、と静かにドアが開いた。
そこにはランプを持った少女が立っていた。リヒトと同い年くらいだろうか。輝くようなプラチナブロンドの髪にランプの赤い炎が映ってさえ深く蒼い瞳。
「夕飯、だから……」
それだけを言うと、リヒトが見とれていることなど気にも留めていないようにふい、と居なくなった。はっとしてブーツを履き、脱いで畳んで置いたはずの服がなくなっているな、と思いながら手探りで部屋を出た。
階段を登りきったあたりにランプが下げてあったので、苦労することなく階段を下りた。地下道から出てきたときの物置の目の前の部屋から明かりが漏れている。
「あの……」
そっと顔を覗かせると四人がけのテーブルの椅子に腰掛けた女が振り返った。燃えるような赤毛を短く刈り込んでいる。年の頃は三十代半ばというところか。
「起きたね、リヒト。ま、好きなとこに座って」
女が言うと、竈の近くにいた少女が凄い勢いで走ってきて、女の隣の椅子の上にカップを置く。
「ええと、ここ以外で」
「はい」
リヒトが女の前の椅子に腰掛けると、少女は安心したように鍋を見ているフィデリオの側に戻っていった。フィデリオが小声で何か話しかけて少女は頷いている。
居てはいけない場所に、勝手に入り込んでしまったようなムズムズした気持ちがリヒトの中に湧き上がった。暖かい湯気に座り心地の良い椅子。あまりにも居心地が良すぎて、ここは自分の現実ではないような気がした。あの狭い小屋の床下の穴の中の方が余程現実味があった―――。
「イリスは人見知りでね。この家は滅多に人が来ないから」
黙っているリヒトに何を感じたのか女が言い訳のように話し始める。
「外に出られないしね」
病気か何かだろうか。そういえば肌が少し白すぎる、とリヒトは思った。
「あの、フリッケさんですか?」
「そうとも言うね。でもここではシシィって呼んで」
リヒトが不思議そうにしていると、シシィと名乗った女はじっとリヒトの目を見る。虹彩のない瞳。
「あ!」
「暗かったのになかなかの観察力だね。そう、占い師バルバラでもある」
「ここがあたしのうちで、これが本当のあたし。占い師はバルバラで、何でも屋がフリッケだよ」
話しながら、フィデリオが置いていった皿に乗った、小さく丸めて焼いたブロトーをぽいっと口に入れる。
「秘密ね。知ってるの、ここに居る四人と一人だけだから」
「は!?」
こともなげに言ってのけるのに驚く。そんな大事なことを、今日始めてあったばかりの自分に話していいのだろうか。
「もう一人はマキノ?」
「違うよ。マキノはバルバラとフリッケが繋がっているということを知っている十数人の一人でしかない」
マキノも知らないことなのに……リヒトは不思議に思ったが、なぜかそれが嘘だとは思わなかった。腰かばんから手紙を取り出し、フリッケへと書いてある手紙を手渡す。シシィはさっと目を通すとリヒトに返してよこした。
「とっときな。その封筒だけで事は足りるから」
そういうと、フリッケは目を閉じて長いため息をついた。
「……アルスは死んだんだね」
その顔と声には見紛うことのない悲しみの色があった。リヒトはそのことに驚き、目を見開いた。見開いた目に涙がこんこんと溜まっていって、長いまつげからぽとりと頬に落ちた。
「……はい」
やっとのことで声に出して伝える。父を知っている人が居た。そしてその死を悲しんでくれる人がここに居た。そのことが言葉にならないくらい嬉しかった。
「アルスはあんたを大事に育てたんだね」
そんなリヒトを見てシシィが微笑む。リヒトの目にまた涙の粒が盛り上がる。
「いろいろ話さなくちゃいけないし、聞かなくちゃいけない。でもその前にメシにしよう」
見計らったように、フィデリオが野菜と鶏肉を煮込んだシチューを木の器に入れて運んでくる。イリスは温めたミルクのカップを慎重に二つ運んできて、一つをリヒトの前に置く。
「ありがとう」
イリスはチラリと見ただけで返事をしない。少しの緊張を孕んだ静かな食事となった。
食後の片付けも終わり、リヒトと少女はテナ茶の、シシィとフィデリオは果実酒の入ったカップを持ち椅子に座る。
「まず、あたしはアルスの古い知り合いだ。あんたが二歳くらいのときに一度会っている。さっきも言ったように三つの名前があって、フリッケはティレンではそれなりの力がある。バルバラも領主筋の人間が相談しに来るくらいには有名。あんたの助けになれると思うよ」
シシィは淡々と説明する。
「で、こっちの二人は先祖返りだ」
リヒトはあやうくカップを取り落としそうになった。
「え?」
「うん、本当は赤ん坊のときに死ぬはずが、生き延びちまってる」
「あ……」
「でもね。フィデリオは十五年、イリスは八年、あたしと一緒に居るが、竜が来た事はない。何も普通の人と変わらないんだよ」
リヒトの言わんことを察したようにシシィは続けた。
「はい」
リヒトはまっすぐシシィの目を見て答える。
「じゃあ、言いたいことだけでいいから、これまでの話を聞かせてくれる?」
◆
リヒトは全てを話した。マキノにもハルにも言えなかった父の最期を。だが、クストに出会ったところで話は止まってしまった。クストは自分を竜の先祖返りと言っていた。竜の名残を残した彼らになら、クストのことを話してもいい気がする。でも、話さないと約束したのだ。話したい気持ちと話したくない気持ちが交錯する。
「で、山を抜けてマキノに出会ったんだね」
そこまででいい、と声を掛けながら、不思議な子供だ、とシシィは感じていた。素直に涙を流すところや、お礼を言うところは生まれ持った性質だろう。しかし、これだけの体験をしながら心に鬱積するものがないはずがないのに、落ち着きすぎている気がする。
ふと見ると、食事中はつまらなそうにしていたイリスも真剣な顔でリヒトの話を聞いていた。イリスもまた、目の前で親を殺された子供だ。本人はショックで何も覚えていないが、何かが心に響くのだろう。これ以上はイリスを刺激するかもしれない。
「これから、リヒトは何がしたい?」
シシィの言葉にまたもやリヒトは一瞬、黙り込む。
「強くなりたいです」
それだけを伏目がちに答える。
―――復讐
たった一人の父を失った時、リヒトにはそれ以外に生きる理由など何もなかった。だが、クストに出会い、マキノに出会い、ハルに出会った。そして今、シシィに。リヒトは揺らぎ始めている自分を恥じている。シシィはそんなリヒトの心の内を敏感に感じ取った。
「復讐のため?」
シシィはリヒトの目をじっと見つめる。リヒトはこっくりと頷いた。
「アルスがそれを望んでいないことは知っているね?」
また頷く。
「一つ、大事なことを言うよ? アルスはあんたのせいで死んだんじゃない」
リヒトはハッと顔を上げる。その顔には違う、と書いてあった。何度も何度も考えて、やはり追われていたのは自分だったと確信していた。父は自分のせいで死んだのだ。
「アルスは八年前、ここにあんたを置いていく事ができた」
リヒトに届くよう、ゆっくりとシシィは話す。
「あんたはこの家で何不自由なく暮らすことができた。友達もできたろう。その権利を奪い、辛い目に合わせたのはアルスだ。あんたはアルスを憎んでもいいくらい」
ガタン!とリヒトは椅子から立ち上がる。フィデリオがリヒトの二の腕にそっと触れた。
「あんたを連れて行ったのはアルスがそうしたかったから。あんたのためじゃない。自分のために連れて行った。」
ゆっくりとシシィは続ける。
「黙れ! お前なんかに何がわかる!!」
リヒトは興奮して両手で机を叩いた。
「真実さ」
今にも掴みかかってきそうなリヒトから目を逸らさずにシシィは続ける。
「それでもアルスはあんたを手離したくなかった、というね」
リヒトは急に力が抜けたように、ペタン、と椅子に座り込む。
「あんたの為に死んだのかもしれないが、あんたのせいで死んだんじゃない。バカにするんじゃないよ。アルスは自分で選んだんだ。納得して死んでいったろうよ」
リヒトの瞳が揺らぐ。やがて決心したように顔を上げた。
「僕は何故追われていたんでしょうか」
「言えない」
じっと考えこんでリヒトは質問を変える。
「父は以前は何を」
「兵士だったよ」
「……兵士」
「ザイレ島の出自だ。アルスの事は知っている限り教えてあげるよ」
シシィは微笑む。頭のいい子だ、と思う。
「そうですね、でも今日はそろそろ休みましょう」
黙って聞いていたフィデリオが口を開いた。湯気を立てていたお茶はすっかり冷めている。
「そうだね。時間はいくらでもある」
シシィが立ち上がったのをきっかけに、リヒトとフィデリオは二階、シシィとイリスは1階の寝室へと入っていった。
リヒトはベッドにもぐりこんでも、なかなか寝付くことができなかった。
一階の部屋ではイリスが夢にうなされていた。小さな唇が覚えていない面影の名を呼ぶ。
「……まま…」