竜の住む国 5
イリスは細い息をするカルラを抱きしめたまま、恐怖と不安と戦っていた。弱気になる心を叱咤して、竜の眠りの歌を必死に歌う。喉がカラカラだった。シシィは無事だろうか、先祖がえりたちは? 街は? 恐ろしい想像を必死に打ち消す。
「……助けて、リヒト、助けて」
もう何度目かの、来るはずのない人への助けを求める。シシィは何も言っていなかったが、リヒトに何かあったのだろうと、イリスはうすうす感づいていた。何も無ければ話題に出るはずだし、ゼノは密会にも来てくれたはずだ。リヒトに何かあって、ゼノが居ないと考えればつじつまが合ってしまう。
ティレンで何でも屋をしていた時も、リヒトが帰ってこない夜が何度かあった。いつだって、恐ろしくて聞く事ができなかった。リヒトに何かあったのならば、ここでこんなに耐える必要があるのだろうか、イリスは歌うのをやめてしまった。
――リヒトの居ない世界なんて
壊れてしまってもいい、と思いかけてイリスは首を振る。でも、もう駄目だ、もう無理だ、もう歌も出てこない。
「イリス」
突然響いた思いがけない声に、イリスは半分まで緑色になりかけた髪を揺らして頭を起こす。
――夢?
目の前にリヒトが立っている。一年会わなかっただけで、大きくなってしまったと思ったのに、たった一ヶ月ほどで、また大きくなったような気がする。髪が伸びてるせいかもしれないな、とイリスはリヒトをぼんやり見つめた。
「イリス?」
リヒトは怪訝な顔で、もう一度、名を呼ぶ。その声は今度こそしっかりと耳に響いて、イリスを現実に引き戻した。そして、イリスは皺だらけになっている自分の顔に気がついた。
「……み……ないで……」
イリスは手で顔を隠すと、ゆっくりと階段を後ずさり始めた。こんな顔は見られたくない。それ以上に、乾いた血がこびり付いていることを知られたくない。
そんなイリスの気持ちをよそに、持っていた板切れと剣を離し、リヒトはどんどん階段を降りてくる。イリスはいよいよ立ち上がって逃げた。
「こないで! お願い! 見ないで!」
だが、リヒトはおかまいなしにどんどん距離を詰める。イリスは扉から出ようと慌てて取っ手を掴む。だが、扉が開く前に、後ろからリヒトに抱き竦められた。
「なんで逃げるの」
少し怒ったような声にイリスはびくりと身を震わせる。そして、いやいやをするように頭を振った。顔を手で覆い、体を丸めてリヒトを拒絶しようとする。
「俺、心配でおかしくなりそうだったのに」
「やだ……や……」
イリスは身を捻るが、リヒトの力に適うはずもなく、身動き一つできない。そうしていると、何か温かいものがイリスの髪の間に落ちた。
「良かった……イリスが無事で……」
囁きとともにリヒトの腕に更に力が入り、イリスは苦しいほどだった。ぽつん、とまた温かいものが落ちてくる。
「泣いてるの?」
イリスは驚いて思わず聞く。
「……泣いてない」
むすっとした声でリヒトは答えた。だが、イリスの頭には温かいものがぽとりぽとりと落ち続ける。
リヒト、あたしね……イリスは言いかけた言葉を飲み込む。あたしは自分が生きるために人を殺してしまったよ……そう言ったらリヒトはきっと、それで良かったと言うだろう。あの時のように、イリスは化け物じゃない、悪くない、と何度でも何度でも言ってくれるだろう。でも、何故かイリスはその言葉を求めてはいけない気がした。やがて、鼻をすする音が聞こえて、リヒトが顔を上げた。
「いけね、急ぐんだ。この竜はイリスが呼んだんじゃなかったの?」
リヒトはいきなり腕を放す。急に支えがなくなり、心もとなくなった体に、イリスは恐怖さえ覚える。
「……ちがうよ。向こうに先祖返りが五人居るの」
「五人……暴走してるんだな?」
「うん……」
リヒトはしばらく黙る。この状況をなんとかしようとしているのだろうか? それなら、あたしはリヒトを手伝いたい。泣いてばかり、守られてばかりは嫌だ、イリスは思い切って振り返り、リヒトを見つめる。皺だらけの顔を、隠すことなくさらけ出した。
「一度、上に行こう。歩ける?」
「うん」
当たり前に聞かれて、戸惑いながら頷くイリスに、リヒトはにっこりと微笑んだ。
――笑った
イリスはふわりと心が満たされたのを感じた。母様の歌を聞いたときみたいだけど……何か違う。いつの間にか、髪も目も顔も元通りになっていた。 リヒトはカルラを軽々と抱えあげると、イリスの手を引いて階段を登る。手からぬくもりがじんわりと伝わってくる。
「リヒト」
「ん?」
「リヒト」
「何?」
この気持ちの名前はなんていうのだろう。どう伝えればいいんだろう。イリスは言葉に詰まる。リヒトはそっとイリスを振り返って微笑む。
「これが終わったらさ」
「うん」
「また一緒に暮らそう」
イリスの手を握るリヒトの手に力が入った。イリスも負けずに握り返す。
――あたし、生きてよかった
「うん、また、一緒に暮らそう」
イリスは歩き始めたリヒトの後姿を見上げる。伝えたい思いは、全て伝わっている。
◆
それから二人は黙々と階段を登った。一番上まであがって閂を開けると、書斎のような部屋に出た。
――イヌル
見覚えの灰色の髪の神殿兵が倒れている。おそらくもう死んでいるだろう。リヒトはイリスの手を引いて足早に部屋を出る。大階段を見つけて、再び屋上に出た。
「テュラン様、街は?」
その場に居た兵士の一人にカルラを預けると、リヒトはテュランに駆け寄って尋ねる。
「中心街にはほぼ被害は無かったんだが……」
テュランは遠くを見つめた。つられてリヒトも首を回す。神殿を囲むように円状に数箇所、火の手が上がっているのが見えた。
「避難は間に合わなかったかもしれない」
苦々しげに呟くと、テュランは額を押さえてよろめいた。リヒトはそっと支えて、用意してあった椅子にテュランを腰掛けさせた。山の稜線が鈍く光って、夜は少しづつ明けようとしていた。体力の無いテュランには限界が近いように見えた。
「先祖返りたちをなんとかここまで連れてきます」
テュランは何かを言いかけて、迷うようにリヒトを見つめる。
「……竜玉を強く打てば、しばらく気を失うらしい。兵士を何人か連れていきなさい」
やっと、という様子で搾り出したテュランの言葉に頷くと、リヒトはイリスの手を握って、クストのところに連れて行った。
「イリス、ここで待って。クスト、イリスだ」
「ああ、任せろ」
クストは薄目を開けて、そっと頷いた。イリスは何か言いたげに口を開いたが、慌てて自分の手で蓋をする。リヒトは、そんなイリスの頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「必ず戻るから」
いってらっしゃい、イリスの小さな囁きが、喧騒の間に消えそうに漂う。
「行って来ます」
リヒトは振り返って大声で叫ぶと、振り返らずに走り去った。
◆
兵士を伴ってイリスを見つけた階段を再び下りリヒトは扉を開ける。薄暗い廊下に目を凝らすと、向かいの部屋でカイゼほどもある大きな竜が、眉間に槍を突き立てられて事切れているのが見えた。リヒトは唇を噛むと、思いを振り切って長い廊下を進んだ。間もなく、知った匂いが鼻をつく。
―――コカの葉を焚いている
リヒトは首に巻いていた布を口と鼻に巻きつけ、低い姿勢で前に進んだ。兵士達も同じようにして、一列に長い廊下を進んでいくと、扉が見えた。リヒトはその扉に付いた小窓から中を覗き込む。充満した煙で中はよく見えない。待つように兵士達に手で指示をすると、コカの葉の煙と、家具が燃えた煙に目を細めながらそっと閂を抜いて、扉を開け、するりと室内に滑り込んだ。
「リヒト」
囁くような声が飛んだ。
―――シシィの声
リヒトは必死に目を凝らす。ぼんやりと輪郭が見えてきたのはフィデリオだった。完全に竜化して、部屋の隅でシシィを背中に庇っている。
「シシィ、どうなって」
聞き返したリヒトの目が、二人に近づく暴走した先祖返りの姿を捉える。子供のようだった。
「こっちへ」
シシィの腕をひっぱり、扉の外に押しやる。ゴゴウ! と耳元で音がして、目の前を真っ赤な炎が舐めていった。リヒトを庇ったフィデリオの服はほぼ燃え落ちていた。子供はくるりと向きを変えると、部屋の奥へと進んでいく。リヒトはほっと息をついてフィデリオから離れた。その象牙のような肌には火傷の跡一つ無い。だが――
「フィデリオ、腕……」
リヒトは呆然と肘から先の無いフィデリオの腕を見つめた。
「大丈夫です。油断しないで。探して攻撃してくるわけではないらしい。目に入らないように」
フィデリオの囁きに、リヒトは頷く。
「三人はゼノが気絶させたはずよ。でももう起きたかも。ミレスとラビがコカの煙を吸いすぎて……一旦上に戻ったわ」
シシィは小窓からリヒトに状況を説明する。
「わかった」
リヒトは近づいてきた先祖返りの横に素早く回ると、勢いをつけて後ろ手に回した剣の柄を竜玉に叩き込む。ぐったりと倒れかかる子供を抱きとめると、そのままフィデリオの腕を引いて、扉の外へ非難した。扉を閉めて、荒い息を整える。
「イリスを見なかった?」
「屋上に避難させた。クストとテュラン様と一緒だから」
リヒトはシシィに答えると、一人の兵士に向き直る。
「この子を屋上へお願いします。傷つけないように起こさないように気をつけてください」
「はっ! かしこまりました」
「えっ、あの、お願いします」
兵士の一人に子供を託すと、兵士は敬礼をして子供を抱き取った。新兵のリヒトが王子だったことは兵士中に広まっている。それを知らぬリヒトは慌てて敬礼を返した。こちらも慌てた様子でまた敬礼を返す兵士に、シシィが早く行け、と怒鳴った。
「シシィも行って、イリスが待ってる。フィデリオも」
「わかった」
リヒトの言葉に首を横に振りそうなフィデリオの腕を引いて、シシィは歩き出した。リヒトは再び部屋の中を見つめる。扉がわずかの間でも開いたことで、部屋の煙はいくらか少なくなっていた。
「あそこに一人倒れてる。その奥にも一人……行ってくるので待機しててください」
リヒトは言うと、そっと扉を開けて再び部屋の中に入り、他の先祖返りに見つかることなく二人の子供を抱きかかえて戻った。その子供も屋上へと運ぶよう、兵士に託す。
「あと二人か」
リヒトは頭を振った。コカの葉の煙を吸い込みすぎている……目の前がぼんやり霞んだかともうと、ぐにゃりと歪んで思わずしゃがみこんだ。荒い息をついたせいで、また煙を吸い込んでしまう。
「リヒト様、一旦引いて呼吸を整えましょう」
リヒトの背に手を当てた兵士が言った瞬間、ゴゴウ! という音が鳴った。立っていた兵士は扉の小窓から吹き出した炎を顔にまともに浴び、悲鳴を上げて転がった。年老いた先祖返りがのっそりと扉から出てきて、蹲る兵士に気づかぬようにリヒトに近づく。
「違う、こっちだ。こっちに来い……化け物!」
倒れた兵士がそれに気づき、焼け爛れた顔で先祖返りを睨みつけて叫んだ。
「ああああああ」
先祖返りは不気味な声を上げてゆっくりと兵士の方に向き直る。リヒトは駆け出して、先祖返りに体当たりをして突き飛ばし、兵士の腕を取った。
「なっ」
兵士をひっぱり起こして走り出そうとした瞬間、足に激痛が走る。倒れた先祖返りが足首に噛み付いていた。耳まで裂けた口は、リヒトの足首を丸々と咥え込み、人の顎とは思えない力で締め上げる。リヒトは、兵士を引き起こし、廊下の先に押しやると剣を抜き去った。
「ごめん」
リヒトは先祖返りの頬を剣で突き刺した。中腰で力が入らなかったものの、剣は口の中まで貫通し、剣を捻ってこじ開けた口からリヒトは足を抜く。
「リヒト様!」
「大丈……」
兵士の声に、答えようとしたリヒトの後ろから影が伸びた。リヒトは慌てて振り返る。先祖返りの少女が、大きく口を開いていた。




