竜の住む国 3
「ここは駄目か」
ハンネスがため息交じりに呟いた。結局、斧は見つからずに剣で書棚を壊していたのだが、厚い一枚板で出来た背板には、人が通るに充分な隙間は開けられそうに無かった。
「テュラン様、別の道を探しましょう」
振り返ったハンネスにテュランが頷こうとしたのと同時に、ドン! という衝撃音が響き、建物全体がぐらぐらと大きく揺れた。
「何っ」
部屋に居た者たちが堪らず座り込む程の揺れだった。間髪おかずにバリバリという音がして、部屋の窓板が壊された。その隙間から見えたのは――大きな爪だった。
「あれは……」
「竜だ! 竜だああああ!」
衝撃に倒れた人々が、それが何か判断する前に、どこからか叫び声が聞こえた。
「どうして神殿に竜が!?」
テュランは困惑しながら立ち上がる。その間にも、どん! どん! という激しい音が続く。
「とりあえず、安全な場所に逃げましょう」
窓を突き破った爪からテュランとオルドヌを庇い、ハンネスは廊下へと繋がる扉を開ける。恐ろしいほどに大きな爪はその間も獲物を探すように右へ左へと動いていた。
廊下の窓からも外壁に貼りついているのであろう竜の爪が見えた。時折、太い腕を窓から差し入れて中を探っている。テュランたちはそれらを避けながら、外に出るべく大階段へ向かった。その間も各階に散ってレーゲンを捜索していたはずの兵士達の悲鳴と怒号が響く。ゴゴウ、という音とともに外が明るくなることもあった。火を吹いているのだ。
どこかで火事も発生しているらしい。テュランは濃くなっていく煙に咳き込んで倒れそうになり、ハンネスに支えられてようやく大階段の上までたどり着いた。
「王様、お逃げください!」
王弟テオルトの怒声が響き、階下から、テオルトとミレス、ハルが駆け上がってくるのが見えた。テュランはその背後を見て息をのんだ。三人は子馬ほどの大きさの竜に追われているのだ。
「テオルト! ミレス! こちらに早く!」
叫ぶオルドヌの言葉も届かぬうちに、竜がテオルトの上着の裾に噛み付き、首を回して壁に叩き付けた。それに巻き込まれ、ハルも一緒に壁にぶつかり倒れる。
「テオルト!」
「ハル!」
オルドヌの声と、気配を感じて振り返ったミレスの声が重なった。
竜は長い首を振り回してテオルトを何度も壁や手すりに叩き付けると、飽きた様に投げ出した。そして立ち竦んでいるミレスを値踏みするように、首を上下した。
「ミレス!」
オルドヌは大声で叫んで、前に立つハンネスを押しのける。
「王様! いけません!」
咄嗟のことに体勢を崩しながらハンネスが伸ばした手は、オルドヌの上衣に一歩届かず空を掻いた。オルドヌは一足飛びに大階段を駆け下り、そのあとをハンネスが追う。
「父上!」
テュランも続こうとしたが、立ち止まり振り返ったハンネスに押さえつけられた。その目の前で、ミレスを背中に庇ったオルドヌの横っ腹を、竜が咥え込んだ。
「逃げろ、ミレス」
竜に噛まれたまま、オルドヌは体を捻ってミレスを階段の上へと突き飛ばした。ボキボキという嫌な音が響いた。ハンネスはテュランを離し、倒れるミレスの腕を掴んでひっぱりあげて抱えると、テュランも抱きかかえて階段を登った。
「離せハンネス!」
テュランはもがく。
「ミレス様をお任せします」
テュランにミレスを押し付けて叫ぶと、ハンネスは身をひるがえして階段を降りる。降下の勢いをつけたまま正確に竜玉に剣を突き刺し、思い切りねじる。
――ガアアアア!
悲鳴を上げて開いた竜の口から、オルドヌを引っ張り出し、喚く竜の頭を蹴りつけた。竜はもんどりうって階段を転げ落ちていった。
「王様!」
オルドヌの前に膝まづいたハンネスが、傷を見て大きく息を飲むのがわかった。
「テオルトは……」
オルドヌが苦しそうに呟く。ハンネスは階段を数段降りて、倒れているテオルトの首元に手をあて、オルドヌに向かって首を振った。
「ああ」
オルドヌは、苦しそうに両手で顔を覆った。ハンネスはオルドヌを抱えあげると、ゆっくりと階段を登ってきて、そっと廊下の床に横たえた。
「父上!」
横たわる父に覆いかぶさりテュランは叫んだ。オルドヌの腹は食い破られ、臓腑が覗いている。とても助かりそうにない。
―――何故、こんなことになった? どこから、こうなった?
テュランはがっくりと膝をついて頭を垂れた。どうしようもなく非力な自分が恨めしかった。
「すみません、父上、すみません」
「……何に謝っている、テュラン。そんな場合ではない、今からお前が王なのだぞ」
はっとして、テュランは顔を上げた。このような姿なっても威厳を貼り付けた父王の顔は崩れる事は無い。こうありたい、そう思うのに、テュランは湧き上がる涙を堪えることが出来なかった。
「……この危機を乗り越えてみよ、お前なら出来る」
オルドヌはテュランを見て、無理やり口角を引き上げた微笑みのようなものを浮かべた。その口元はぶるぶると震えている。
父に笑いかけてもらったのは何年ぶりだろうか。認められたいと願い、もがき続けた日々が、テュランの中で鮮やかに色を変えた。私には出来ません……以前の自分なら間違いなくそう答えただろう。テュランはごしごしと目元を擦る。
「お任せください。父上の体が治るまで、私がバルトを守ります」
オルドヌは頷き、震える手を伸ばして、テュランの髪を撫ぜた。その瞳にこもる見間違いようのない愛情に、テュランは堪え切れずに声を上げて泣く。不器用な父のこのわずかな愛に、どうして気がつかなかったのか。手に入れようとしていたものは、もうすでに持っていたのだ。これからの自分を見ていてもらいたい、神よ、どうか……叶わぬ願いをテュランは心の中で繰り返し願った。
「……王様」
棒立ちのまま、事の成り行きを見守っていたミレスが、崩れるようにオルドヌの横に跪いた。
「……ミレス……そなたはもう、自由だ……すまなかった」
オルドヌは苦しそうに胸を上下させて、切れ切れに伝える。ミレスは大きな瞳から涙をこぼして首を横に振った。ミレスの涙を拭こうとしたのか、少し持ち上げられたオルドヌの手が力なく倒れる。その手を握って、ミレスは愛おしそうに頬に当てた。ごくりとつばを飲み込み、意を決したような目でオルドヌを見つめる。
「私は嘘をつきました。あなたを愛した事など一度もないと、そう嘘をつきました。いけないと気持ちに蓋をしていたのに、あなたを愛してしまったのです。幸せを感じた日が確かにありました」
オルドヌの痛みに歪んだ顔にゆっくりと安堵の表情が広がった。
「……そう……か」
やがて、オルドヌは大きく息をつきはじめた。心臓と肺が強いのだろう、なかなか事切れぬことが出来ない事が、逆に痛々しかった。
「……名を呼んであげて下さい」
聞こえていますから。いつの間にかハルを抱えて戻ったハンネスが、静かな声でそう告げた。厚い胸板の上下が段々と遅く小さくなる。
「父上……父上!」
「王様……オルドヌ様!」
愛する妻と、息子に抱きしめられ、名を呼ばれ、バルト国王オルドヌは静かに逝った。
◆
「テュラン様」
遠慮がちなハンネスの声にテュランは顔を上げた。大階段の下のホールにある扉が燃え落ち、新たな竜が首を入れていた。壁がもう少し崩れれば入れるだろう。我に返ったテュランの耳に、神殿中で叫んでいる兵士の悲痛な声が届く。その中には繰り返し何度も自分の名を呼ぶ知った声もあった。
――逃げずに私を探しているのか
テュランは涙を拭くと、すっと立ち上がった。
「各々、自らの命一つ持って生き延びよ! 生きて王宮に戻れ!」
ごうごうと唸る火と、竜の雄たけびの中で、その声は神殿中に凛と響いた。ハンネスはテュランを見て満足げに頷いた。
「私たちも、逃げましょう」
オルドヌの遺体を手近な部屋に運び入れる。こんなところに王を置いていくことは身を切られるようにつらかったが、テュランには生き延びてしなくてはならないことがある。
ハンネスがハルを抱え、テュランがミレスの手を引き、降りすはずだった大階段を登る。階段の突き当たりの扉を開くと、屋上のはずだ。外階段を使えば降りることが出来るだろう。
階段を登り切り、扉を開ける。屋上には竜は居ないが隠れる場所がない。一旦扉を閉め、乱れた息を整える。ハルはぐったりとしたまま目を覚まさず、ミレスは心配そうにその頭を撫でた。
「外階段を確認してきます」
ハンネスは言うと扉を開けて走り去った。
「何故……こんなことに」
思わずテュランは呟く。レーゲンを追い詰めたことがこのような結果を生むなど、誰に想像出来ただろうか。だが、テュランは自分を責めずには居られなかった。
「私が、余計な事をしたばかりに父上が……」
俯き、ぽたぽたと涙を零すテュランの手をミレスがぎゅっと握った。
「テュラン様のせいではありません」
だが、そう言うミレスの双眸からも涙があふれた。
――カツン、カツン
階段の下から響く音に気づいて、テュランはそっと頭を出して下を覗き込んだ。オルドヌの命を奪ったのと同じくらいの大きさの竜が、階下をうろついている。
テュランはそっと頭を引いて、静かにするようにミレスに指示をすると、ゆっくりと剣を抜き、震える手で構えた。ハンネスはまだ戻らない。自分がやらなくてはいけない。
のしり、のしり、と階段を登ってくる音が近づいてくる。やがて、踊り場に馬ほどの大きさの頭が覗いた。
「は!」
気合と共に、その竜の頭に向かってテュランは剣を振り下ろした。剣は竜の頭部を二つに分け、頭から血が吹き出した。竜は悲鳴を上げることもなく、ゆっくりと仰け反り、階段を転げて落ちた。
はあはあ、と荒い息を吐いてテュランは剣をおろした。汗が顔を滴り落ちる。
「テュラン様!」
ミレスの叫びにテュランが顔を上げると、いつの間に階段を登ったのか、別の竜がテュランに向かって鋭い爪を振り上げていた。
――避けられない
そう思って首を竦めた瞬間、竜の腕は体から切り離された。ミレスがハルの剣を抜いて斬りつけたのだ、とテュランが気づいたのは、ミレスの追撃に竜の首と体が切り離されたあとだった。
「油断をして、すみませ……」
「まだです」
ミレスの声にその視線の先を見ると、更に二匹の竜が階段の下から登って来ていた。一人一匹ずつ仕留める、ミレスと頷きあい、テュランは汗に滑る剣をしっかりと握り直した。だが、竜は剣の届く距離まで近づかず、口をゆっくりと開ける。
「火を!?」
ミレスは横たわるハルに覆いかぶさった。この状態で火を吐かれたら逃げ場は無い。テュランはミレスの前に立ち塞がる。
―――怖い
テュランは目を閉じた。同時にバタン、と扉が開く音がして、ギャアア! という断末魔の声が響いた。目を開けると、ハンネスが二匹目の竜を仕留めて、階下に蹴り落としているところだった。
「テュラン様、最後の時まで目を閉じてはいけません。勝機を見落とします」
ハンネスはこんな時であるのに、稽古の時のような口調で言った。テュランは荒い息をつきながら頷いた。飛び込んでいって斬りつけるべきだったのだ。テュランはあっさりと命を諦めた自分を恥じた。
「すまない、ありがとう」
テュランに微笑みかけたハンネスが眉を寄せた。ハンネスの視線をテュランは追う。今までの竜より二周りも大きな竜が階段いっぱいの体で窮屈そうにゆっくりと階段を登ってきていた。分厚い鱗は剣を通すのだろうかと思わせるほどだった。
「外に出ましょう」
ハンネスは静かな声で言って、剣を構えて竜と対峙する。テュランはハルを抱え、ミレスは竜を刺激しないようゆっくりと扉を開ける。三人が屋上に出た時には、ハンネスと竜の距離はもう爪が届きそうなほどになっていた。
「ハンネスも早く」
テュランの声に、ハンネスはさっと身を翻して屋上に出てきた。テュランは急いで扉を閉める。しばらくして、どん! どん! と竜が扉を開けようと体当たりしているような音が響いてきた。
頑丈な木の扉に亀裂が入り、テュランは身を竦ませる。
「あの体では扉が壊れても出られないでしょう。外階段はだめでした。焼け落ちています。他に降りられそうな場所もない。なんとか隠れてこいつが居なくなるまでやり過ごさなくては」
ハンネスは扉を指さしてから、きょろきょろとあたりを見回す。テュランも同じように見回すが、隠れられるような場所は無い。竜は空を飛んでくるのだ。屋上に人が居たら、迷わず降りてくるだろう。
「あれを使いましょう、目で見て追っているのではないかもしれませんが」
ハンネスは国旗と神殿の旗を指差す。包まって隠れれば、匂いも気づかれないかもしれない。三人は周りを気にしながら、そろそろと旗台に近づいて、大急ぎで旗を降ろした。旗は紐は強力に結ばれており、なかなか解けない。業を煮やしたハンネスが短剣を取り出した。
「う……」
扉の前に残してきたハルがうめき声を上げながら起きた気配がして、ミレスが振り返る。
「あー、ちょっと、これはやべえかも」
間抜けな声に、テュランも振り向くと、今まで見た竜とは桁違いに大きな竜が、ハル目がけて空中から舞い降りようとしていた。
「ハル!」
ミレスが絶叫して駆け出す。どおん、と建物全体が揺れるような衝撃でその竜は屋上に降り立ち、その揺れに足を取られたミレスが倒れた。
「ハル! 起きて! 逃げなさい!」
倒れたままミレスは叫ぶ。その間にハンネスがミレスに駆け寄って、嫌がるミレスを引き戻した。ハルは立とうとするが、足がふらついて座り込んだ。腰を下ろしたまま、後ろに後ずさる。竜はハルに向かってぐぐっと頭を下げる。立ち上がろうとするテュランをハンネスが抑え込む。
「ハンネス、頼む。彼はリヒトの友人なんだ! 守らなければ顔向けができない!」
なんとかハンネスを引き離そうとするが、元よりテュランが力で叶う相手ではない。
「ミレス様、テュラン様、大丈夫みたいすよ」
人の気を知らぬように、ハルはこちらにいつものへろりとした笑顔を向けた。




