バルトの真実 6
大神殿の地下二階にイリスは居た。薄暗く、湿ってはいるが室内は清潔に保たれ、個別の部屋が与えられ、三度の食事は温かく美味しかった。
同年代の少女が居て、一緒に本を読んだり歌を歌ったり、初めての事に時間がたつのを忘れるくらいに楽しい。ここに来てから何日経ったのだっけ、イリスは指を折って数え始めた―――。
「そろそろ王都に着くわ」
カルラが囁いたのは、馬車の窓を開けなくなってから数日経った頃だった。しばらくして車輪の音が土を踏む音から、石畳を踏む音に変わり、街の喧騒が聞こえてきた。窓の隙間から外を見やったカルラがほっと息をつく。
「橋よ」
その瞬間、イリスは心がふわりと軽くなったのを感じた。家族と離れる不安、知らない場所で生活する不安、そういったものが瞬時に消えて、安息がもたらされた、と感じた。
ゆっくりと停車した馬車の中で夕飯を取り、夜更けを待ち、石造りの荘厳な建物の裏口から入る。細くはあるが、やはり石で作った階段を下った。もうこの階段を上がることはないのだろうか、ふとした疑問は直ぐに消えてしまい、用意されていた部屋であっという間に眠りに落ちた。そんなに疲れていなかったけど……不思議に思いながら、イリスは指を一本折る。
翌日、先祖返りの仲間に紹介された。イリスと同じ年頃からそれよりも小さい子供が四人と、年老いた先祖返り一人がそこでは暮らしていた。彼らは全員、善良そうであった。笑顔を常に絶やさない。その笑顔を少し薄気味悪いと思った気がする。何故そう思ったのだろう。イリスは実はもっと多くの先祖返りが居ると思っていたのでカルラに質問すると、みんな押し黙ってしまったので、聞いてはいけないことを聞いたのだな、と思った。
「ユリウスが亡くなりましたね」
自己紹介も終わり、同年代の少女と話をしていると、一番年配の先祖返りの老人がカルラに言うのが聞こえた。
「わかるのね」
カルラは小声で返す。
「わかりますとも。百五十年も生きていれば……こうやって送るのは初めてではない」
老人は言ったきり口を閉ざした。ユリウスが何者か、何故亡くなったのか、イリスには聞かずともわかるような気がした。昼間は部屋を案内してもらったり、忙しくて忘れていたが、夜ベッドに潜り込むと、恐怖に襲われた。怖い。恐怖に苛まれて布団を頭まで引き寄せた……でも……今は何がそんなに怖かったのか思い出せない。イリスは二本目の指を折った。
更に翌日、朝食を食べ終わると、カルラが呼びに来た。年老いた先祖返りも一緒だった。
「母様に会いに行きましょう」
「母様?」
老人は頷き、長い廊下を歩き出す。廊下には兵士が佇んでいた。
「グンタ!」
イリスは喜んで駆け寄った。
「元気かい、イリス」
「元気よ! グンタはお仕事?」
「そう、ここを守ってる」
カルラとグンタは目で頷きあって笑顔を交わす。イリスはそんな二人をニヤニヤと見つめて笑った。
「イリス、行くわよ」
笑いを含むカルラの言葉に、はーい、と返事をしてしばらく歩くと、突き当たりに向かい合った二つの扉があった。老人はその右側の扉を開ける。
目の前に広がった光景にイリスは息を呑んだ。広い地下洞穴の中で、竜が眠っている。そこからやさしい歌が響いていた。ここに来てから微かに聞こえていたのはこれだったんだ、イリスは竜を見上げる。
「イリス?」
カルラの心配そうな声が響いた。気がつくと、イリスの両目からはこんこんと涙が溢れだしていた。
「……わからない、わからないの。でもとても……」
イリスは言葉を捜す。だが、肝心の胸にあふれ出た思いは、いつの間にか跡形もなく消え去ってしまっている。
「王都を守る母なる守護竜です。母様を守るため、私達は身を惜しんではなりません」
老人は呟いた。
「もちろんです」
イリスはごく自然にそう答えた。カルラが驚いた顔でイリスを振り返る。何故そんな顔をしているのだろう。あたしは大丈夫よ、そう思いながらイリスはカルラに向かって微笑んだ。
イリスはもう一本指を折りかけて、ふ、と止まった。そうだ、思い出した。あの気持ち。あの気持ちの名前は……
―――会いたい
誰に? イリスはぼんやりと考えた。あれはあたしの気持ち? 母様の気持ち? 母様は誰に会いたいの?
「イリスー」
少女の声が響いた。
「ここよ」
イリスは返事をする。
「本の続きが来たの。一緒に読もう」
「本当? わかった!」
返事をして、イリスは立ち上がる。今、何を考えていたっけ。まあ、いいや。イリスは駆け出した。
◆
「イリス」
夕飯を食べ終わると、カルラがイリスを呼びに来た。
「片付けはいいからちょっと来てくれる?」
「わかった」
イリスはカルラのあとについていく。
「ご苦労様、グンタ」
一言交わして通り過ぎるカルラをグンタの目が追いかけて、イリスはまたもくすくすと笑った。
廊下の突き当たり、母様に会いに行った扉とは逆の扉をカルラは開ける。裏口から降りてきたのとは別の階段があった。遥か上まで階段は続いていて、先が見えない。階段を少しだけ上がると、カルラはしゃがみこんだ。イリスが不審に思っていると、カルラは手招きして石レンガが数個外れて出来た壁の穴を指差す。イリスは屈んで覗き込んだ。
「……シシィ」
穴の向こうに居たのはシシィだった。
「シシィ、どこも痛くない?」
「……痛くないわ、イリス」
「よかった」
イリスの目から、涙がぽとりと落ちる。
「フィデリオは?」
「元気ですよ、イリス。シシィがどいてくれそうに無いんで顔が見せられませんが」
いつも通りのフィデリオの声に、うふふ、とイリスは笑う。
「帰り方はわかるわね? この階段は、これより上がっちゃダメよ。上から人の気配がしたら、すぐに戻って」
カルラは言うと、ランプを一つ置いて階段を下っていく。
「これ、どうなってるの?」
イリスは上を見上げる。
「地下に開いた穴の中に部屋と階段を作ってるのね。ここの天井が大神殿の床になってるんだと思うわ。こっち側は穴の中の建物の外側、と言う感じ。神殿が小高いのは、この建物に土を被せて隠して、その上に建てたからみたいね」
ふーん、とイリスはあたりを見回す。きっと、母様を守る為に建物を建てて、その上に土を盛って隠して、神殿を建てたのだろう。そんな風に母様を大切に思ったのは誰? イリスは束の間考え込んだ。
「イリス」
「なに?」
シシィはしばらくの間黙り込む。イリスはじっと壁の穴の向こうのシシィを覗き込む。
「イリスが居なくて寂しい」
シシィの弱気な声に、イリスは驚きに目を見開いた。
「イリスと一緒に居たい」
シシィは小さな穴に指を差し入れる。イリスも必死に指を伸ばして、二人の指先はほんの少し触れた。
「本当?」
イリスは小さな声で呟く。シシィが自分を好いてくれているのは知っている。それには感謝しきれないほど感謝している。でも、自分を邪魔だと思うことはなかったのだろうか。まさか、必要としてくれていたのだろうか。
「寂しくて寂しくて、毎日泣いてるの。こんな弱くちゃ、嫌われちゃうね」
「嫌わないよ!」
イリスはぶんぶんと頭を振った。驚いた事に、シシィの目から涙が一筋頬を伝った。シシィが居なくて寂しいといっている、側に居て欲しいといっている。それだけでイリスは舞い上がりそうなほどに嬉しかった。
「ごめんね」
ぽつり、とイリスは呟く。
「あたし、化け物だから、一緒に居られなくて、ごめんね。泣かせちゃって、ごめんね。シシィが寂しいのに、そう思ってくれて嬉しいって思って、ごめんね」
シシィが泣いてるところ、初めて見た、と思いながらイリスは必死に思いを伝える。
「謝らないで、イリス。絶対迎えに来る。いい方法を考えて、絶対ここから出してあげる」
シシィはパン!と自分の頬を打つと、そういって強い瞳でイリスを見つめた。もう泣いていない。シシィはすごいな、自分を安心させるように微笑んでいるシシィを見てイリスは思った。ずっと、思っていたことを今、言おう。イリスは小さく決心した。
「いいの、シシィ、危ない事しないで……その代わりね、シシィにずっとお願いしたい事があったの」
イリスは切り出した。
「なあに?」
「あのね、嫌ならいいから、嫌なら言ってね」
「慎重ねえ、なあに?」
優しいシシィの声に、イリスは少し黙り込む。嫌だといわれたら、きっとすごく悲しい。でも、ここなら、悲しくても我慢できる気がする。
「お母さんって呼んじゃダメかな」
シシィの目が見開かれて、言葉を失ったように黙り込んだ。
―――ダメだった
イリスは悲鳴を上げそうな自分の心を押さえ込む。
―――ダメだった。あたし、調子にのりすぎた
「あのね、お母さんになって欲しいんじゃないの。ただね、お母さんって呼んでみたかったの。変な事言ってごめんね。もういいからね、気にしないで」
イリスはやっとのことで言うと、壁の穴から後ずさる。どくどくと心臓が痛かった。
「イリス」
「……なに?」
やっと聞こえたシシィの声にイリスはびくりとして聞き返した。
「あたしもずっとお願いがあったの」
「……なに?」
イリスはもう一度壁の穴に近づいてシシィの目を見ようと覗き込む。シシィはまた泣いていた。しまった、傷つけてしまった。イリスは縮み上がるような思いで次の言葉を待つ。
「あたしの事、お母さんって呼ぶだけじゃなくて、お母さんだと思ってくれないかな。ずっと、イリスのお母さんになりたかったの」
イリスは言葉を理解するように、数回ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「……本当? シシィ」
やっと言葉を搾り出したイリスの目から、涙が溢れ出す。
「違うでしょ」
「本当? ……お母さん」
「もう一回」
「お母さん」
シシィはそっと目を閉じる。その目から涙が溢れては零れる。
「お母さん、お母さん、お母さん」
堪えていた感情があふれ出して、イリスは声を出して泣いた。
「なあに? イリス、なあに?」
「お母さん、あたし、うちに帰りたい」
しゃくりあげながら、イリスは言った。
「ここにいるとわかんなくなっちゃうの。怖いの」
「何が怖いの?」
イリスはここに来てからの事を洗いざらいシシィに話して聞かせた。
「でね、その子は言ったの。羨ましかった、って。自分で自分を殺しちゃった友達を見て、羨ましかったっていったの。もっと怖かったのはね、あたしも思ったの」
イリスは言葉を切る。
「あたしも、その話を聞いてるときに、死ねるなんて羨ましいって思ったの」
シシィはもっとイリスに触れようというように、必死で指を伸ばす。指先が先程よりしっかりと触れ合って、シシィの温もりが伝わった。
「必ず助けるわ、イリス」
「いいの。こうやって会いにきてくれればあたしは大丈夫」
イリスは、はっとして答える。ダメだ。シシィはどんな危険を冒しても自分を助けに来る。今はそれが痛いほどにわかった。だからこそ、そんなことはさせられない。余計な事を話してしまった。イリスはぽろぽろと涙を零しながらしゃくりあげる。
「お母さんに何かあったらって考えるのはもっと怖いから」
「イリス、あたしはだあれ?」
「……お母さん」
シシィはニッと笑った。
「そう。お母さんは強いのよ」
「強くないよ!」
イリスは叫ぶ。わかってない、わかってない、死んじゃうのに、死んじゃったのに、ままは死んじゃったのに―――
「ままは強くないよ! 死んじゃったよ!」
「イリス? イリス!」
イリスの髪が緑色に変化する。どうして! と叫ぶシシィの声を遠くに聞きながら、イリスは次第に心の中に聞こえている歌声が大きくなり、心が落ち着いていくのがわかった。イリスの心の中から感情がどんどん消えていく。何が悲しかったのだっけ、何が怖かったのだっけ……イリスは呆然と壁の穴を見つめる。
「……もう、大丈夫」
やがてイリスはぽつりと呟いた。
「本当? 本当に大丈夫なの?」
シシィの言葉にこくん、と頷く。
「あたし、もう戻らなくちゃ。会えて嬉しかった。また来てね、シシィ」
イリスは立ち上がるとランプを持つ。呼び止めるシシィの声が聞こえたが、そのまま階段を降りた。激情が過ぎ去ったあとの虚脱感に襲われたまま、だが、その感情が何だったかすら、もう思い出せない。
―――きっとどうでもいいことだわ
イリスは扉を開いて中に入った。




