アヘルデ領主城の惨劇 5
「ここ……どこ……」
イリスは目覚めて、目だけで周りを見回す。
「おはよう、気分はどう?」
シシィと同じ真っ赤な髪を、あごのあたりですっきりと切りそろえた少女が、目覚めたイリスに声を掛ける。その手にはコカの葉が握られていて、テーブルの上には炭を入れた陶器が置いてあった。
「おは……」
イリスは慌てて口をつぐむ。知らない人と、知らない所に居る時は、何も言わない事。必ず迎えに行くから、おとなしく待つ事。シシィの教えを頭の中で繰り返す。シシィがきっと迎えに……イリスは毛布の端をぎゅっと握った。あたし、シシィに何をした? あたし、フィデリオに何をした? あたし、何を……
「落ち着いて、大丈夫よ。あたしはカルラ、あなたの味方よ」
カルラはイリスの冷たい手をそっと握った。指先から温かさが伝わり、イリスはカルラの目を見つめた。……シシィと同じ目だ、そっと視線を外す。
「カルラさん……あの……」
それ以上何もいえず、ガタガタと震えるイリスの髪をカルラはそっと撫でる。
「大丈夫よ、皆無事だから。怪我を治療してる人も居るけどね」
「本当?」
「ええ、本当」
翳りのない顔でカルラは微笑んだ、。だが、やはり胸のうちに気づかれている、用心しなくちゃ、とイリスは毛布の下で拳を握った。
「おうちは燃えちゃったけど。あなたは誰とおうちに居たの?」
「……」
イリスは口をつぐむ。これは必要ないな、という風に手に持っていたコカの葉をぽい、とテーブルに置くと、カルラはそっとイリスを抱き起して、背中を擦った。イリスは不自然にならぬよう俯いてカルラに見られないよう目を伏せる。
「怖かったね。でももう大丈夫。あたしは、竜化を止めることができるの」
「……知ってるの?」
イリスは一瞬躊躇する。
「……あたしの竜の事」
「ええ。誰よりもね。わたしはハウシュタット神殿の巫女なのよ」
イリスは思わず顔を上げる。カルラは、なあに?というように首を曲げて、真っ赤な髪がさらさらと揺れた。シシィと同じ虹彩まで真っ黒な瞳が優しく笑っている。イリスは心を許し始めてしまっている自分に気がついた。
「あなたのご家族は竜化の止め方を知らなかったのね。今までよく無事だったわ。ねえ、名前を教えてくれる?」
「……あたし……イリス」
可愛い名前ね、とカルラは微笑んで、イリスに温めたミルクの入ったカップを手渡す。イリスはゆっくりと温かいミルクを飲んだ。ほう、と一息つく。冷え切った体が温まり、人心地がだんだん戻ってきた。
「ねえ、イリス、私と一緒に神殿に行きましょう」
再びイリスの手をとって、カルラはなんでもないことのように告げた。だが、イリスの肩は神経質そうにぴくりと震えた。神殿、生贄、頭の中に恐ろしい言葉が次々と並ぶ。
「……ああ、生贄は嘘なのよ?」
「嘘?」
カルラは優しく頷く。
「火を吐いたり出来るから、皆、先祖返りを怖がるでしょう? 止める方法があるって言っても信じない人も居る。だからそういうことになってるの。本当は神殿でみんな仲良く暮らしてるわ」
明るい調子で言った後、カルラはふっと考え込むフリをする。
「ごめんね、おうちに帰りたいわよね。……でも、竜化を止める方法は誰にも教えちゃいけないのよ。また今度のようなことが起きるのは嫌じゃない?」
こくん、とイリスは頷いた。
「皆あなたを歓迎するわ。とても可愛いもの」
わたしもあなたと暮らせたら嬉しいわイリス、と、カルラはイリスの頬を撫でる。
「……どうして、止める方法を教えちゃダメなの?」
カルラは困ったように黙り込んだ。聞いてはいけないことを聞いたのか、とイリスは思い、「答えなくていい」と言おうとした瞬間、カルラは口を開いた。
「……竜の力を悪い事に使おうとする人が居るからよ」
イリスは、少しづつ意味を理解する。この恐ろしい力を誰かを襲うために利用される……イリスは傷ついた気持ちを隠すことが出来なかった。
「辛いわね。でも、よく考えてね」
イリスはじっと自分の手を見つめた。コンコン、とノックが聞こえてカルラは席を立つ。中を覗き込もうとする宿の女中からイリスを隠して、湯気の立つ粥の入った鉄鍋と木の椀の乗った盆を受け取った。
木の椀に半分ほど粥を取り分けて匙とともにイリスに手渡す。
「あたし、カルラと一緒に行ってもいいのかな」
ゆっくりと、粥を二口ほど食べ、イリスは囁くように言った。
「もちろんよ、おうちの方に報告しなくちゃね」
カルラの言葉にイリスは小さく首を振った。
「あたしの家族はね……居ないんだ。だから大丈夫なの」
「……そう」
かける言葉もないようにカルラはイリスを見つめる。そんなカルラの気持ちに気が付いたイリスは、バツが悪そうにそっと微笑みを作った。
「あのね、とてもおいしいんだけど、おなかがあんまり空いてないの」
「わかったわ。少し眠りましょうか」
そっと頷くイリスから椀を受け取ると、カルラは水差しからコップに水を注いで枕元に置く。椀や鍋をのせた盆を持つと、部屋を出る。
ドアが閉まる瞬間、すすり泣く声が聞こえ、カルラは痛そうに顔を歪めた。
「どうして……」
誰に言うともなく呟くと、暗い廊下を歩き出した。
◆
イリスの部屋をでたカルラは、そのまままっすぐ、大神官レーゲンの部屋に向かう。
「で、聞き出せたかね?」
部屋ではレーゲン大神官と、ツヴァイがカルラが戻るのを待っていた。扉が閉まるのも待ちきれず、レーゲンが問いかける。
「いいえ。でも一緒に神殿に行くそうです」
二人の目を見ることを避けて、カルラは目を伏せたまま答える。
「では、何か見えたかね?」
「……いいえ、すみません」
レーゲンは、はあ、と大袈裟にため息をつく。
「緋の一族と、今まで特別に扱ってきたが……仕方ない、戻りなさい」
含みのある声でレーゲンが言うと、カルラは顔をあげずに部屋を立ち去った。
「結局何もわからず、か。リヒトの生死も定かではないし。あの娘も何者かわからん。私はなんて部下に恵まれないのだろう。そう思わんかね?」
「申し訳ありま……」
ツヴァイの言葉を最後まで聞かずに、レーゲンは手に持っていたグラスに入った酒をツヴァイに浴びせる。
「そんな言葉ばかり聞きたくないんだよ! さっさとリヒトの首を持ってこい!!」
普段の温厚そうな声や口ぶりからは想像もつかない声で怒鳴ると、グラスも投げつける。避けずに受けたツヴァイの胸に当たったグラスは床に落ち、派手な音を立てて割れた。
「かしこまりました」
ツヴァイは全く表情を崩さずに一礼すると、ゆっくりを部屋を出て行った。
◆
ラビから、食事をしているイリスを見たという女中の話を聞いて、ひとまず安心していたシシィの元に、マキノが戻ってきた。ティレンを経ってからほんの数日だったが、服の汚れからキノの惨状が思い浮かんだ。
「居ない?」
マキノのために用意した夕食を取り分けていたシシィの手が止まる。ゼノがリヒトを連れて戻らないのは、怪我人の救助を優先し、更にはティレンに張り巡らされているであろうリヒトへの捜索網が緩むのを待ってのことだろう、と思っていたのだ。
「とにかく、キノで動いているのは知り合いを探しに来た人だけ。兵士も混じっていたけど。生き残ったという人はほとんど居なかった。皆必死で知り合いを探してるんだけど……遺体が……誰だかわかる人の方が少ないのよ……」
マキノは言葉を切る。恐ろしい光景が目の前に浮かんだように言葉を切る。
「誰かがご丁寧にキノの門を閉めて出て行ったらしい。門の前に立ち往生した何十人もの人々に向かって、竜が火を吐いたんだね。あたしが到着した時には、男か女かもわからない大勢の遺体からまだ煙が上がってたよ。死体があったわけじゃないが、あれじゃ」
マキノの目から、キノの惨状が直接シシィに届く。シシィは平静を装って、肉と湯で野菜を盛った皿をマキノの前に置こうとしたが、手が震えて皿を取り落とす。テーブルに触る前に離された食器がカシャンと音を立てた。
「……とにかく、レーゲンと王太子が出発したらすぐに私たちも出ましょう。明日から準備して……」
動揺を隠すように、シシィは口早にこれからについてマキノに説明する。その時、隠れ家の地下通路の床がコツコツコツ、と三回鳴ったあと、間を空けてまた三回鳴った。びくりとシシィは体を震わせた。
「ああ、ラビだわ」
ほっとしたようにマキノに告げて、迎えに行く。隠し通路に人が入ったことにも気がつかなかったなんて……シシィは自分の不甲斐なさに頭を振りながら、床板を持ち上げた。
「誰?」
思わず厳しい声が出て、不審に思ったマキノも部屋から出て来た。
「俺~」
ラビは警戒している二人に向かってにやりと笑う。呆れて次の句が告げない二人に向かって、肩を貸している死んだようにぐったりとした男を押し上げた。
「ちょ、手伝ってよ」
仕方ない、という顔でマキノは男に手を貸して、床の上に引き上げた。よっと声をあげると、ラビはまだ階段のない地下通路から床の上に這い上がる。
「で、こちらはどちら様?」
男をソファに座らせるラビにシシィは問いかけた。怪我人とはいえ、許可もなく隠れ家に連れてくるとは……そんなに考えがないとは思わなかったけれど、と半ば呆れた顔でラビを見つめる
「リヒトと一緒にキノに向かった神兵の生き残りだってさー」
お隣の奥さんの実家の方だってさ、というような口調で告げるラビに、シシィとマキノは一瞬、理解が遅れる。やがて驚きに目を瞠った。
「名前はグンタ。リヒトとハルの同期。な?」
グンタは疲れ果てた顔で少し頷く。いまにも襟首を掴みそうなシシィを片手で制してラビは続ける。
「俺が聞いた話をするから、とにかく今は休ませてやってよ。それが本当か嘘かは明日シシィが判断すればいいでしょ」
既にシシィの目は男の疲れた様子が演技ではない事、殺意がない事を見抜いている。仕方なさそうに首をすくめると、料理を取り分けてグンタの座るソファに運んだ。
「酷い顔だわ。すこしでも食べてから休みなさい」
グンタは頷くと、フォークを動かし始める。二口、三口、と口に運ぶと、嗚咽を漏らし始めた。泣きながら食べるグンタを誰もが黙って見守る。全て食べ終え、少しの酒を飲んで横になると、グンタはあっという間に眠りに落ちてしまった。
「今回の竜の暴動は、仕組まれた事だったんだ……」
ラビはグンタに聞いた話を思い出しながら語った。想像もしていなかった事実に、シシィは青ざめる。
「この国に攻め込んだ軍に竜が襲い掛かったのは、神が起した奇跡じゃなかったのね」
シシィは吐き出すように言うと、酒の入ったグラスを一気に飲み干す。
バルトは豊かな国である。だが、領地を広がるため繰り広げられている争いに一度も巻き込まれたことは無い。何故なら彼らがバルトに入る唯一の手段である船から降り、陣を構えるか構えないかのうちに、どこからともなく現われた竜の群れが彼らに襲い掛かったからだ。屈強を誇る隣国の兵士たちも、バルト国だけは三日と自由に歩けないのだった。「竜に守られた国バルト」の名は近隣諸国に知れ渡り、ここ数十年は上陸を試みようとするものすら無かった。
全ては先祖返りたちの犠牲の上に成り立っていた平和だったのだ。そんなことは許されない、と叫ぶほどシシィは子供ではない。戦争が起こればもっと悲惨なことになるのもわかっている。それでも堪えようが無いほど不快だった。
「気がついた時、グンタは馬に挟まってたってわけ。だから竜に襲われなかったんだ」
ラビの話が一通り終わり、居間は静寂に包まれた。ラビは一息ふう、と息を吐くと酒を一口含み、ごくり、と音を立てて飲み下した。
「……で、ここからは、まあ、グンタの夢かもだし? ちょっと信じられない話なんだけどさ……」
ラビは言いにくそうにチラリとシシィを見た。言いなさい、とシシィは頷く。ラビは言いにくそうに頭を掻いた。
「リヒトとでかいおっさん、まあゼノだと思うんだけど……二人が、竜の足につかまって空を飛んでったってさ」
「は?」
マキノは険しい顔でラビに詰め寄る。
「だから、俺もおかしいと思うよ。でも、あのゼノだしさ」
ラビは慌てて弁解する。マキノも考え込むように手をあごに当てて目を閉じた。
「クストかしら」
ぽつり、とシシィは漏らす。
「クスト?」
不思議そうに聞き返す二人に、シシィはリヒトが出会った竜の話を始めた。




