アヘルデ領主城の惨劇 3
大きく口を開いた竜の顔を、リヒトはぼんやりと眺めていた。ゼノがリヒトに覆いかぶさる。だが、竜の上顎と下顎の大きさは二人を丸ごと噛み砕けるだろう大きさだった。
「……クスト」
リヒトの口から吐息に似た言葉が零れ、ゼノに届く寸前で竜の牙が止まった。
「グアアアアア」
竜は突然上を向き、苦しそうに大きな雄たけびをあげると、再びゼノとリヒトに迫る。その体は追いついた小さい竜の吐き出す炎から二人の体を守った。
「リ……ヒト……つか……まれ……」
竜は切れ切れに言うと、前足を差し出した。ゼノは躊躇うことなく、リヒトを抱え、その前足にしがみつく。クストは走り出し、激しい揺れが二人を襲った。ゼノは振り落とされまいと丸太のような前足に必死にしがみつく。やがて、ふわりとした浮遊感と共に揺れがなくなると、ゼノは腰に巻いていた縄で二人の体をクストの足に固定した。
「リヒト!」
ゼノの言葉にリヒトの返事はない。青白い顔をゼノの肩に預けたまま、荒い息だけを吐き続ける。上空の空気は冷たく、リヒトの体力をあっという間に奪っていくようだった。
「クスト! すまんがもう少し低く飛んでくれないか」
長年の友人に頼み事をするように、ゼノは今日始めて見た竜に向かって叫ぶ。だが、返事は無かった。ゼノは遥か彼方になった大地に目を向ける。石の城壁の中のあらゆるところで火柱が上がっている。それは壊滅的とも言っていい有様だった。クストは東に向かって飛んでいる。海に出ればザイレ島までしばらく陸地はない。かといって今、何が出来るわけでもない、ゼノは目を閉じて体力の温存に努めた。
しばらくすると、クストはできる限り前足を縮めて、二人を自分の体に密着させた。温かい竜の体に近づいたことで、リヒトの顔にほんの少し生気が戻ったようだった。
「ふう」
クストはため息をひとつ吐き出すと、すうっと高度を下げた。ゼノが目を開けると、目の前には海が広がっており、すぐ近くにザイレ島の島影が見えた。
◆
―――まだそんなに離れていないのに、何故だろう、支配が解けた。
クストは距離を確認しようとわずかに振り返る。
あれが起こった時、クストはいつものようにリヒトに出会ったあの北の山に居た。突然、竜玉に波のような怒りのうねりが走り、どこかで竜が怒っているな、と感じた。それはよくあることだったので、気にも留めず居たが、うねりはどんどん強くなっていった。
イライラと立ち上がった頃には、ただ憎しみだけが心に溢れ、行かなくては、行って壊さなくては、という思いに支配されていた。次に気がついた時には、東に向かって滑空していた。周りには数頭の目をギラつかせた竜が飛んでいる。再び恐ろしいまでの怒りに包まれ、自分で自分が支配できなくなった。
―――クスト?
暗闇の中に波紋のように声が響いた。その声に我に返ると、目の前に、忘れようもないリヒトの面影を宿した少年が倒れている。リヒトを救いたい一心で支配を振り切って飛んでいたのだが、ここにきて突然、楽になったのだ。まだ、あの北の山よりずっとキノに近いというのに。
「あの島に行くか?」
「頼む」
「リヒトは大丈夫か?」
「ああ」
クストの質問にゼノは短く答える。どうやら、ゼノも限界であるらしい。クストは更に高度を下げ、なるべくゆっくりと飛んだが、あっという間に島の上空に達した。
「何か聞こえる」
独り言のように言うと、クストはザイレ島唯一の山であり、活火山でもあるベルク山に向かった。歌声のような、心が安らぐ鼓動のような響きに、引き寄せられるようにクストは飛んだ。
ベルク山は標高が高く、夏でもその頂の雪が解けることはない。クストが向かっている辺りは、夏の間だけ放牧のために上ってきた羊飼いが寝泊りする粗末な小屋しかないような高地だった。やがて、大きな洞の前の開けた空間にクストは降り立った。
―――この中から聞こえる
「誰だい?」
穴の中から、声が響く。穴の中には何も見えないのに、声はやたらと近くから聞こえた。クストは、前足にしがみついている人間たちに衝撃を与えないように注意しながら、ゆっくりと洞の中に頭を差し込んだ。洞は入り口よりもずっと大きく内側に広がっている。
「おやおや、小さい竜が迷い込んだようだね」
声は頭上から聞こえた。見上げると、クストの倍はありそうな大きな竜がこちらを見下ろしていた。岩壁かと思っていたそれは竜の体だったのだ。クストは驚きで声も出ない。
「そうビックリしなさんな。あたしはカイゼ。喋る竜に会うのは初めてかい?」
クストは頷く。
「そうかい。今はすっかり数が減っちまったからね。あんた……」
カイゼは言葉を切る。視線はクストの足元に向いていた。ゼノが、体を結んでいたロープを切り、リヒトを草の上にそっと寝かせるところだった。クストは慌てて薪になる木を拾いにいこうと頭を引く。何故だかカイゼと名乗るこの竜がリヒトに危害を与えるとは思わなかった。
「大事な人かい?」
カイゼが尋ね、クストは振り返ってしっかりと頷いた。微笑むようにして頷き返すと、カイゼは長い尾を振り、先に結び付けられている大きな鈴をガランガランと鳴らした。
クストはあっという間に小山が出来るほどの小枝を集めると、息を吹きかけて火をつけた。ゼノはリヒトの服を脱がせ、傷に皮袋に入っていた酒をかける。
「うう……」
リヒトはうめき声を上げるが目を開けない。ゼノはリヒトの皮袋に入っていた水の匂いを嗅ぐと投げ捨て、ふらつく足で立ち上がった。
「ばあちゃん! 呼んだ?」
突然、草原に幼い声が響いた。クストとゼノが驚いて振り向くと、十になるかならないかのクリクリした目をした少年が立っていた。粗末ではあるが、きちんとした服を着ている。少年はクストを見てあんぐりと口を開けた。
「ば……ばあちゃん、コレ……いつ、産んだの?」
「バカ言ってるんじゃないよ。水を汲んできな。そしたら温かい毛布と薬草と食べ物だ」
少年は血を流して倒れているリヒトに気づき、はっとしたような顔をすると、「わかった!」と叫んで、石の多い坂道をひょいひょいとあっという間に駆け下りていく。
「座ってな。クラインはチビだが、仕事は早い」
「助かる」
ゼノはどうっと腰を下ろすと一気に酒を煽って、そのままごろりと横になった。クストは心配そうにリヒトを覗き込む。
「面白い男だね」
ああ、とクストは頷く。何故この男は俺を信じて足にしがみついたのか、と今更疑問に思った。今もカイゼを全く疑いもせずに信用しているようである。
「……西で何かあったようだね」
カイゼの質問に、クストは切れ切れに目に入った光景を思い出す。
「……どうやら、先祖返りの人間が傷つけられたようだ」
一通りクストの説明を聞いたあと、はあ……とカイゼは深いため息をついた。
「先祖返りねえ……竜も人間も大事な事はみーんな忘れっちまった。あたしもいろいろ忘れちまったが、守歌の奏で方くらいは覚えてるよ」
「それは……」
「ばあちゃん! 持ってきた!」
クストの質問は可愛い声に遮られた。
「飲ませてやりな」
クラインは頷くと、リヒトの口に水を含ませる。リヒトはごくごくとそれを飲み干すと、ようやく薄目を開けた。
「リヒト、大丈夫か」
「……本当に……クスト?」
「ああ、もう大丈夫だ。眠れ」
クストの声にリヒトは微かにうなづく。ありがとう、と口は動いたが声にはならず、苦しそうに再び目を閉じる。クラインは慣れた手つきでリヒトのむき出しの傷に、数年物なのだろう、酒に漬け込みすっかり茶色くなった薬草を惜しげもなくベタベタと貼り付け、布を巻いた。
「おにいちゃん、どこー?」
更に幼い声が聞こえ、毛布の山が移動してきた。小さな女の子が大きな毛布を抱えているため、どうやら前が見えないようだ。クラインは走りよると、妹の手から毛布を受け取る。視界の開けたクラインの妹は、兄にそっくりなクリクリした目を見開いた。
「何これ! ばあちゃんが産んだの? ねえばあちゃん、もう名前付けた?」




