アヘルデ領主城の惨劇 2
ツヴァイの剣は、直ぐ後ろにいた新兵の腕を縦に切り裂いた。新兵は自分が何をされたのかわからない顔のまま、叫び声を上げて馬から転げ落ちる。
誰もが突然の出来事に身を固くする中、真っ先に動いたのはイヌルだった。馬首を巡らせ、来た道を戻りながらリヒトに向かって剣を抜く。次いで、馬から落ちた新兵が悲鳴をあげ、「何を!」と叫んだグンタの腹にツヴァイが振り上げていた剣の柄を叩き込んだ。グンタは糸が切れた人形が崩れるようにゆっくりと落馬する。
我に返り、リヒトも慌てて剣を抜いたが、勢いのついたイヌルの剣から逃れようもなかった。あっという間に剣を取り落とし、馬からもはじき落とされた。受身はとったが、起き上がる猶予もなくイヌルが馬を降りてリヒトの前に立ち、最後の一太刀を浴びせようと剣を構える。
―――だめだ、避けられない
リヒトは思わず顔を背けて目を閉じる。
「何のつもりだ」
キン、と剣が剣をはじく音、続いてイヌルの声が冷たく響いた。リヒトが、はっと目を開けると、目の前にはゼクスが背を向けて立っていた。その背中を見上げながらゆっくりと後ずさる。
「俺はもう嫌なんだ。アルスの息子は助けると決めてここに来た」
自分自身に言い聞かせるように、ゼクスは呟く。リヒトの首を狙って放たれた剣は、ゼクスの大剣により遮られている。
「リヒト、逃げろ」
「おい、わかってるのか」
目標を逃がそうとしているゼクスに、呆れたような声で問いかけたイヌルの声が止まった。ひゅう、という風切り音とほぼ同時にゼクスの胸に深々と矢が突き刺さる。イヌルが振り返ると、ツヴァイが構えていた弓を下ろすところだった。
「さっさと小僧を始末しろ」
ツヴァイはイヌルに向かってそう声を張ると、左手に弓を持ったまま、腕を押さえて呻き続ける新兵へと向き直り、右手で剣を振り上げる。その背中を見つめたまま、ゼクスの大きな体が、がくんと折れた。
「イ……イヌル、頼む。妻とむ……娘……」
両膝をついた正座のような姿勢でゼクスは口から血の泡を吐く。それだけでは伝えなくては、というようにイヌルを見つめて懇願した。
「た……のム……た……」
「お前を殺したのは反乱軍だ」
イヌルは抑揚の無い声で呟いた。その言葉に安心したように少し微笑むと、ゆっくりとお辞儀をするようにゼクスの体は倒れた。イヌルは少しの間、ゼクスの大きな背中を見つめると、つい、と顔を上げる。
リヒトは既に取り落とした剣を拾い上げて立ち上がっていた。目の前の光景に激しく動揺しているが、そんな自分を叱咤して逃げ延びる道を探す。
しかし、不意を衝かれたのでなくとも、自分の実力が目の前のイヌルに遠く及ばない事は、先程の数合の打ち合いからわかっていた。切りかかってきたイヌルの剣を避けて必死に抵抗を続けるが、さほど打ち合わぬうちに、背中に木が当たり動けなくなった。冷静な表情のまま、素早く振り下ろされたイヌルの剣を両手に剣を持って受ける。どうにか押し返そうと力を込めるがびくとも動かず、リヒトはずるずるとしゃがみこんでいく。
「ああ……あああああ」
その時、林道に不気味な声が響いた。優勢の余裕からかイヌルがそちらに視線を向け、つられてリヒトも首を回した。
そこに居たのは化け物だった。
緑色の髪に、緑色の鱗に覆われた顔……真っ赤な目で憎悪をむき出しにツヴァイを睨みつけた瞬間、ガッ、という音と共に口から炎が噴き出した。ツヴァイは寸でのところで炎を交わし、低い姿勢から地面を蹴って後ろに下がる。右足を短剣で刺し貫かれているにもかかわらず、その化け物はすごい速さでツヴァイに迫った。あの服は、あの新兵が着ていた物ではなかったか? リヒトが自分の目を疑った。その時、
―――どくん、どくん、どくん、どくん
先程から微かに聞こえていた奇妙なリズムが、突然大きな音になったかと思うと、空をすっと黒い影が横切った。
「ツヴァイ! もういい!!」
イヌルの叫びと共に、ツヴァイは化け物の人間であるならば心臓の位置に剣を突き刺す。
「ぎゃあああああ」
化け物は叫び声をあげた。心臓を貫かれているのに即死せず、長い長い悲鳴を上げ続ける。どくん、どくん、というリズムは大きさを増していった。いや、大きくなっているのではない。……数が増えているのだ。
舌打ちをしたイヌルが、組み合っていた剣を外した。押さえ込まれていた力が突然なくなり、万歳をしたような格好になったリヒトに向かい、イヌルが斜めに剣を振り下ろす。首と心臓を守るため、咄嗟に丸まったリヒトの左肩から肘に向かって、剣が走り、ぱっと鮮血が飛び散った。燃えるような痛みに耐え、次の一撃に備えようと右手で剣の柄を握り締める。
―――ヒュイ
再び風切り音が聞こえ、イヌルの肩に深々と矢が食い込んだ。矢勢に押され、イヌルはたたらを踏んで二・三歩下がる。だが、そこはさすがである。矢の飛んできた方向を瞬時に見極め、木の陰になる場所に転がり込んだ。その隙に、リヒトは木の裏側へと身を隠す。
「イヌル、撤退だ」
ツヴァイの檄が飛ぶ。気がつけば、空には何十もの黒い影が舞っていた。イヌルは脂汗を流しながら馬に飛び乗り、後ろも振り返らずに駆け出した。ツヴァイは主人を失いウロウロとしている馬達に狙いを定めて数本の矢を放つ。最後に弓を構えて向かってくるゼノに向かって二本の矢を放った。ゼノも同時に矢を放つ。ゼノは弓を使って一本の矢を弾き飛ばしたが、二本目の矢は馬の足に突き刺さった。ゼノの放った矢は、つ、と避けたツヴァイの頬を掠めて後ろの木に突き刺さる。辺りを見回し、倒れた馬が立ち上がらない事を確認すると、ツヴァイはイヌルの後を追った。
「ゼノ!」
リヒトは思わず叫ぶ。倒れる馬の勢いを利用しながら飛び降りたゼノは、そのままリヒトに走り寄る。
「斬られたのか」
「大丈夫。骨には届いてない」
うむ、と傷を見て頷いたゼノの目が、変わり果てた新兵の姿を捉える。ツヴァイの突き刺した剣を自ら抜いたようで、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「なんということだ」
「ゼノ、あれって」
剣に引き裂かれた服の間から、白い竜玉が覗いている。どくん、どくんと脈打つたびに、傷口から血が吹き出している。
ゴオオオオオ…… ゴオオオ……
領主城の方角からは地鳴りのような音が聞こえ、更に風に乗って人々の怒号や悲鳴が流れてきた。
「まさか、竜が」
呆然とリヒトは呟く。
「助けないと……皆殺されちまう…… ゼノ!」
叫んで、空を見つめているゼノの目を見上げ、リヒトは全てを悟った。ゼノは神ではない。この状況で領主城の人々を助ける事などできない。いや、馬を失った今、自分達さえ助かる見込みは少ないだろう。領主城から聞こえてくる悲鳴はどんどん大きくなっている。
「いくぞ。目を閉じるな、最後の瞬間まで生きる事を諦めるな」
ゼノはリヒトを抱えるようにして、力の抜けているリヒトの右腕を固定すると、猛然と走り出した。しかし、数秒も進まぬうちに頭上を黒い影が覆った。バキバキと枝が折れる音がして、目の前に一匹の竜が降り立つ。
「ゼノ!」
ゴゴウ、と吐き出された炎を避けて、ゼノは竜の横を走り抜ける。だが、行く先に、もう一匹、先ほどの竜より二周りほど小さい竜が降り立った。
一瞬も躊躇せず、残された空間を目指してゼノは走る。何故諦めないのだろう、この状況で助かるはずもないのに……リヒトは険しい顔で走るゼノの横顔を見あげた。ゼノが諦めていないのに自分が諦めるわけには行かない。置いていけ、が聞き入れられない事も痛いほどわかっていた。考えるな、動け、走れ、リヒトは自分に命令し、懸命に足を動かした。しかし、竜の数歩で懸命に稼いだ距離はなくなった。走る先に火を吐かれ、ゼノはマントで自分とリヒトの顔を庇って地面に転がる。燃えるマントを投げ捨てながら、ゼノは倒れたまま起きないリヒトに視線を走らせる。傷そのものは深手ではないとはいえ、血止めもせずに全力で走り、大量の血を失ったリヒトの顔面は蒼白だった。
リヒトを助け起そうとするゼノの背後から、竜が大きく口を開けてゆっくりと近づいていた。
◆
ガチャガチャガチャン!!
何枚もの食器が割れる音が台所から響いた。
「割っちゃった?」
椅子に座ったまま、首だけを台所に向けてシシィは問いかける。
「イリス?」
返事がない……シシィは読みかけの本を置いて、立ち上がり台所へ向かう。
「に、げて……シシィ、にげて」
「どうしたの!」
か細い声が聞こえて、シシィは慌てて台所に駆け込んだ。
「だめ……だめ……もう……」
しゃがみこんだイリスの後姿にシシィははっと息を呑んだ。髪が毛先まで緑色に染まっている。シシィは後ろからイリスを抱きしめ胸の竜玉を押さえ込む。以前それで竜化を止めた事があったのを思い出したのだ。だが、荒れ狂うように高鳴る鼓動は、シシィの小さな手のひらでは抑えようもなかった。
「シ……シ……こわ……いよ」
「大丈夫よ! イリス! しっかりしなさい! イリス!」
「あ……ああ……ああああああ」
長い、うめき声が止んだ。
一瞬の間のあと、ゴゴウ! とイリスの口から炎が吐き出される。同時に小さい体からは思いもよらない力で腕を振りほどかれ、突き飛ばされたシシィは食器棚に激突した。
「シシィ! イリス!」
異変に気がついたフィデリオが駆け込んでくる。声がした方にくるりと首を回すと、ゴゴウ! とイリスが炎を吐く。慌てて顔を覆ったフィデリオの横をイリスは走り去った。
「追いかけて!」
食器棚の下敷きになり起き上がれないまま、シシィは叫んだ。フィデリオはシシィに駆け寄り、食器棚を持ち上げて救い出す。台所はすでに火の海だった。逃げ道を探すフィデリオの顔はいつになく皺が寄り、髪も幾分か緑がかっている。
「何してるの! 追いかけてよ!」
叫び暴れるシシィをフィデリオは軽々と抱えあげる。燃え盛る家から庭先に飛び出し、安全な距離まで走って、そっとシシィをおろした。
「大丈夫ですよ、シシィ」
頭を撫で、通りに目をやったのは、いつものフィデリオである。上がる悲鳴と煙からイリスの向かった方向を見極める。フィデリオは馬を探すと飛び乗って駆け出していった。
◆
竜化しているとはいえ、イリスは体は子供のままである。ティレンの街から、キノの街を結ぶ―――二刻程前にリヒトが通ったばかりの街道に出てすぐにフィデリオの馬はイリスに追いついた。隣を走りながらイリスに声をかける。
「イリス、イリス聞こえる?」
だが、イリスは答えないどころか、目もくれない。緑色の髪は硬質な輝きを放ち、目は異様なほど赤く、口は皺の寄った頬を斜めに切り裂き、耳まで達していた。元のイリスの面影は全くない。
「イリス!」
フィデリオは馬上に引き上げようと、イリスの腕を掴む。間髪居れず、その腕にイリスが噛み付き、服ごと肉を削ぎ取った。思わずのけぞったフィデリオの首に、腕につかまったままのイリスが、口を大きく開けて近づく。
「ギャア!」
喉元に届く瞬間、イリスは悲鳴を上げてフィデリオの腕を離して飛び降りた。
「フィデリオ、よね?」
問いかけたのはマキノだった。町を走る化け物と、それを追うフィデリオを見かけてついてきたのだろう。ギリギリのところでイリスの口とフィデリオの喉の間に剣を滑り込ませたのだった。イリスから目を離さずにフィデリオに問いかける。
「あれは何?」
イリスは完全な化け物と化している。二人をしばらく見つめると、何かに呼ばれたようにくるりと向きを変え、イリスは走り出した。
「待って! イリス!」
フィデリオは叫び、腕を押さえて、足だけで馬を操ろうとする。
「無理しないで。あたしが追うわ。どうすればいい?」
「付いて行ってください。無理はせず、あの子が落ち着いたら、連れ帰ってください」
「了解。……高いわよ?」
マキノはそれ以上尋ねずに、馬の腹を蹴るとイリスの後を追う。それを見届けると、フィデリオはずるずると馬から落ちて、そのまま気を失った。




