動き出す歯車 8
リヒトが港町ティレンの懐かしい隠れ家で過ごしていたのと同時刻。王太子テュランはレーゲン大神官とともに、ティレンで一番の高級宿、オルドヌ王もかつて宿泊したといわれる最上級の部屋にいた。
「私の独断で……王太子様にはご苦労をおかけしております」
レーゲンの言葉に、テュランは小さく「いいえ」と答える。ハウシュタットより北に位置するティレンでは冬が始まろうとしている。夕暮れになり少し冷え込むと、気を利かせた宿の者が暖炉に火を入れていったので、部屋は暑いくらいである。パチンと薪がはぜた。
「お父上はさぞかしお怒りでしたでしょうな……」
レーゲンは額を手のひらで押さえて憂いを含んだ声で弱々しく呟く。しかし、わたしはどうしても……と聞き取れないほどの声で続ける。
「父上はああいう気性ですから、余りお気になさらず。民を思う気持ちは神官長と同じなのですから。上手くいくように祈っているはずです」
そんな伯父の肩にそっと手を載せ、テュランは力強く言った。伯父が心から民衆を思っているのではないことくらいには気がついている。だが、自分の評価を上げるためとはいえ、あの父に逆らうのは並大抵のことではないだろうし、けが人を出すことなく暴動を鎮めることができたらそれが一番なのだ。伯父の株が上がるとか、父の立場が悪くなるとか、それによる自分の扱いの変化であるとか、どうなるかもわからないことを考える事に疲れ果て、テュランはそう答えを出していた。
「それで、人を払ってまでなんのお話なのでしょう。叔父上のために私にできる事であれば、なんでも遠慮せずおっしゃってください」
伯父は指の隙間からテュランの顔をのぞき見た。心を読まれているような気がしてテュランは伯父の肩に乗せた手に少し力を入れる。
「実は……」
さも言いにくそうにレーゲンは続ける。
「王太子様の護衛の新兵について……良くない噂がありましてな」
意外な言葉にテュランは思わず、伯父の肩の上にあった手を引く。同時にレーゲンは、ず、と顔を上げた。
「リヒト、のことですか?」
「ええ。噂の出所については控えさせていただきたいのですが……」
テュランの目を見つめたまま言うと、レーゲンは葡萄酒のグラスに手を伸ばす。神職者でありながら、という思いが一瞬よぎり、それを顔に出さないようすっと視線をそらす。
「不信な動きがあるらしいのです。出身はティレンということでしたので……ついでといってはなんですが、念のため先発したものにここでどのような暮らしをしていたか調べさせていたのです」
「それで?」
何を言い出すのだろう、とテュランは訝しく思った。この一年、ほとんど毎日を一緒に過ごしたリヒトの気性はよくわかっていたし、自分を好いてくれている事もわかっている。名前が同じである事もあって、亡くなった弟が生きて居たらこんな風なのだろうか、と暖かい思いを感じていた。調べても何も無かったに違いない。
「そんな人物はおりませんでした」
「と、いうと?」
「ティレンは大きな町です。無論、皆が皆、知り合いという事はありませんが、誰一人、リヒトを知っているという者を見つけられなかったのです」
レーゲンは不安そうに自分の手を撫で回す。まるで不吉な事を話すときのように。
「そして、こんな噂も。何でも屋のフリッケとその仲間の噂です。その仲間は五人とも五十人とも、フリッケ自身も男であるとも女であるとも、若者であるとも老人であるとも……実態の見えない全て謎の集団なのですが」
一息つくとレーゲンはさも恐ろしい事を話すように、身を乗り出してテュランにささやく。
「町の者達はフリッケを恐れながらも嫌っては居ない。娘を攫って乱暴した領主筋の人物を切ったとか、人買いの組織を潰したなどと言われていて、むしろ敬っている節さえあります。義賊、という事になりますな……その仲間にリヒトと良く似た風貌の少年がいた、というのです」
ゆっくりとレーゲンはテュランの目を覗き込む。長い長い沈黙が訪れた。テュランはレーゲンが何を言いたいのか、まだわからずに話の続きを待つ。たとえそうだとして、それがなんだというのだろう。
「……リヒトはオルドヌ王に似ているとは思いませんか?」
唐突なレーゲンの言葉に、は、とテュランは息を呑む。オルドヌもリヒトも、いわゆる整った顔をしている。それはつまり個性がないということでもあり、皺や髭、年とともに骨ばった頬などのわずかな違いで気づかなかっただけで、そう聞かれれば似ていると答えるしかないくらいには似ている。
「ティレンの弱きを助け、権力に屈しない正体不明の義賊。それに関わっていると思われるオルドヌ王に良く似たリヒト。比較的豊かなアヘルデでの、金品ではなく領主交代を要求する暴動……」
長い長いため息をついて、考え込むように天井を見上げながら、レーゲンはチラリとテュランの瞳を盗むように見た。試されているような居心地の悪さがテュランを包む。
「私には何か繋がっているような気がしてならないのです。もちろん、王様とリヒトは他人の空似です。リヒト王子は国のためにその尊い血を神に捧げたのですから……本当に王子であったなら王様がどれほど喜ぶか」
レーゲンは、どれほど喜ぶか、を大きな声でゆっくりと発音する。そうしながらさも痛々しそうな顔で何も無い空間を見つめた。それは……それはさぞかし喜ぶのだろうな、それは当たり前のことだ、と思いながらテュランは自分の杯に葡萄酒を注ぎ、一口含んだ。
「……しかし、それは絶対にありえない事です。この私が証明できます」
レーゲンは神職者とは思えぬ勢いで、葡萄酒の並々と注がれた杯を一気にあけた。
「もしリヒトが何らかの集団に属し、王子を語るつもりなら。それが王家の転覆を狙うものだとしたら……王太子様にご同行を頂いたのは、ティレンでのリヒトの動きを探る為でもあったのです」
「お待ちください。そもそも、リヒトを疑ったのは何故なのです?」
テュランは伯父に尋ねる。伯父の気持ちが図りかねていた。ただ似ているというだけでそれほど疑うものだろうか。おかしなものたちと繋がっているかもしれない事がわかったのはティレンに来てからなのだし……そこで、テュランは自分が伯父に相談した指輪のことを思い出した。リヒトの指輪を見せたわけでも存在を匂わせたわけでもないのに、なんと知恵が回るのだろう。これでこそ無名の田舎貴族から大神官に抜擢されたのだ。
「そもそもは些細なことです。ある者が偶然、飾り職人の店でリヒトを見かけました。御前試合で活躍したので顔を覚えていたそうです」
やはり指輪か、それにしても飾り職人の店とは? と思いながらテュランは頷く。
「何よりも目に留まったのは、テュラン様の指輪とそっくりな指輪を受け取っていた、と」
テュランは息を詰めてレーゲンを見つめた。あの日、訓練場でリヒトは首飾りには何も入っていなかっただろうと言った。リヒトの態度は信用に値するもので、テュランはリヒトは偶然これを手に入れたのだと確信したのだ。だとすれば、余計な嫌疑がリヒトにかかるであろう指輪の存在を公にする必要は無い折を見て公表すればいい……そう考えて指輪を自身の装飾具の中に隠した。あの指輪は、リヒトが偶然手にしたものではなく作られた偽ものなのだろうか。指輪は今ハウシュタットにあり、確認のしようがない。
「始めは見間違いと笑い飛ばしました。……だが、王太子様は私に指輪の事を聞かれましたな?」
「ええ」
「テュラン様が紛失してしまって、代わりのものを作らせた?……とも考えましたが、私の元に来たときあなたが身に着けていたものは本物でした」
パチパチと火の音だけが室内に大きく響いた。伯父は覗き込むようにテュランを見て口を開いた。
「リヒトを交渉の使者に加えて欲しいのです」
またも、想像していなかった話の流れにテュランは思考を停止する。
「もし、私の考えるような繋がりがあったとして……その本拠地かもしれないティレンで、王太子様のお側にリヒトを置いておきたくないと考えます」
「しかし……」
「しかも、領主城内で反乱軍とリヒトに何らかの接触があれば、私の兵士はそれを絶対に見逃しません。すべて誤解であっても、ただ使者としての仕事をするだけです。反乱軍も神殿の使者を襲ったりは致しませんから危険もありませぬ」
「ですが……」
「何もなければただ行って戻ってくるだけですよ。罪を明白にする事も、潔白を証明する事もどちらも非常に難しい。それまで気をつけるに越したことはないのです。もし私の杞憂が真実であったとしたら、リヒトが真っ先に狙うのは……他でもない、王太子様、あなたなのですよ」
散々テュランの言葉を遮ると、レーゲンは慈しむような視線をテュランに向ける。
「神に仕えるものとして、一人の人間に心を寄せる事はあまり良い事ではありません。しかしテュラン様も、その母のテルミーテ様の事も、こんなにお小さい頃から側で見てまいりました。老人の杞憂だと笑ってくださってもいい。私の心配を減らしてくださいませんか」
こんなに、と手で抱きかかえるような仕草をしながら、目には微かな涙を浮かべてレーゲンは思いつめたようにレーゲンは嘆願した。その言葉が終わるのを待っていたかのようにテュランの言葉を遮ってドアがノックされた。
「何の用かな? 急ぎでなければあとにしなさい」
「すみません。火急にお知らせしたい事が」
「……すみません。入れ」
レーゲンは先の言葉をテュランに、後の言葉をドアをノックしたものに告げる。
「失礼致します」
入ってきたのはイヌルであった。兵士の兜をかぶっており、暗い室内では口元しか見えない。テュランに向かって頭を下げ、言い出しにくそうにレーゲンを見る。
「王太子様に隠し立てすることなど私にはない、かまわないから言いなさい」
「は、ご命令通りリヒトを見張っていたのですが……申し訳ありません。街中で見失いました」
レーゲンは殊更に驚いた顔をして、一兵士という風情のイヌルを見上げる。テュランもまた良く見えないイヌルの顔を見上げた。
「なんと、お前たちは新兵の後を尾けることも出来ぬのか」
「……それが、リヒトは常に後ろを気にしていたため、離れて尾けていたのですが、途中おかしな男達に絡まれまして」
イヌルは言いにくそうに語尾を弱めて話す。テュランは眉をひそめる。つけられている事に気がついてまいたというならわかる。だが、手助けした人物が居た事を不信に思った。
「その男達は?」
「それが、いつの間にか人ごみに紛れ……」
ハア、とレーゲンはため息を付き、テュランを見つめる。
「王太子様。遅くなりましたし、私は少しやる事が残っています。この者に送らせましょう」
「……しかし」
「使者の出発まで、良くお考えになってください。王太子様は私の望む答えを下さると信じていますよ。ああ、逃げられては困りますからこのことはまだ内密にお願いいたしますよ。では、明日の朝また」
レーゲンは微笑むと出口へとテュランを導いた。
――裏切られ、騙されていたというのか。いや、まさかリヒトに限って
まだ聞きたいことがある。伯父に声を掛けようと口を開こうとしたテュランの前で、パタン、と音を立てて扉が閉まった。




