動き出す歯車 5
「突然、申し訳ありません」
オルドヌ王が王太子の稽古を見学してから数日後、神殿の大神官室に来客があった。
「おお、テュラン王太子、よくきました」
「ご無沙汰してすみません、大神官長はお変わりないですか」
伯父と甥は、笑顔で握手を交わす。夕日が入った部屋の磨かれた床の上に二人の影が長く伸びた。柔らかな笑顔で挨拶をする甥っ子の訪問の目的を、大神官長レーゲンは図りかねていた。この甥は誰に対してもこのような態度なだけであって。自分に特別に懐いているというわけではないことはわかっている。
「ええ、ええ。王太子様も最近は剣の稽古にご熱心だとか。何よりでございます」
テュランに椅子とお茶とを勧めて、レーゲン自らも向かいの椅子に腰掛ける。ひとしきり、このところの国の情勢などについて議論を交わしてから、テュランはふっと自分の指に嵌めている指輪をレーゲンにかざした。
「ところで、この指輪なんですが」
男性にしては細く白い指に嵌められた指輪を外し、レーゲンに手渡す。
「その指輪は私が生まれた時に、神殿から贈られたと聞いております。この国の王子に贈られるものである、と」
レーゲン大神官は甥っ子の目をじっと覗き込む。これが本題だ、と過酷な派閥争いを勝ち抜き大神官の椅子に座った老練な男の勘が告げた。
「ええ、その通りですが、何か気になることでもおありですか?」
「いや、父上は付けて居ないように思いましたのでなんとなく」
返答が早すぎる、とレーゲンは思った。準備しておいた答えなのだろう……聞きたい理由は他にある。それは自分にとってあまり愉快ではない何かだ、とレーゲンは直感した。恐らくはリヒトが指輪を持っていて、テュランがそれに気づいたのだ。あるいはリヒトが見せたのかもしれない。慎重に対応しなくては、レーゲンの背中に汗が滲んだ。
「即位されたときに、新しい指輪をお贈りしましたので今はそちらを付けていらっしゃるのでしょう。テオルト様は王様が以前に付けていたのと同じものを付けていらっしゃるはずですよ」
「なるほど」
テュランの顔に安堵の表情が浮かぶ。即位したときに神殿がオルドヌに指輪を送ったのは本当だが、実際にはそれを身に付けているところを見たことがない。神殿にたてつくあの忌々しいオルドヌめが……レーゲンは怒りを抑えこむ。こちらの心は読ませずにテュランから情報を得なければならない。
「ですが、王様とテオルト様の指輪は、テュラン様の指輪と全く同じではございませんよ。テュラン様と同じデザインのものは尊くも国の繁栄のため犠牲となられた、リヒト王子の指輪だけでございます」
はっと顔を上げたテュランの表情を見て、レーゲンは確信した。リヒトは、王子である証拠になりうる指輪を持っている……。そして、それにテュランが気がついている……。
リヒトとオルドヌはよくよく見ればどことなく似ている。幼くして亡くなったリヒトの存在を、王宮の人間達は最早忘れてしまって、まさか生きているとは思いも寄らないから気づかないのだ。だが、指輪の存在を示された後ではどうか。そう言われてみれば何故気づかなかったのか、と驚くに違いない。そして、リヒトはミレスにも似ている。とにかく今は自分を信じきっているこの愚鈍な王太子を、何とか丸め込まなくては……とレーゲンは考えた。
「生贄の儀式の夜……神殿に賊が入った……という話を聞いたことは?」
静かな口調で、言うものかどうか迷った様子を演出しながらレーゲンは話す。
「ええ。聞いたことはあります」
「実は……そのときに盗まれてより、リヒト王子の指輪は行方がわかっていないのです」
何かを了解するようにテュランの目が瞬く。かかった、とレーゲンは内心ほくそえんだ。
「神殿の恥でございます。大切な形見でありましたものを……。こんなことはテュラン様にお聞かせするような話でもございませんね。ですが、リヒト様の指輪の件はお父上にもお母上にも、ミレス様にも快いものではありません。その指輪の事をお尋ねしないのが賢明かと、私の口から申し上げました」
心得た、という様子でテュランは頷く。
「このことは話題に出さぬようお気をつけなさいませ」
「……そうですね、そう致します」
素直に了解する甥っ子を見つめ、レーゲンは安心感と同時に「どうしてこうも鈍いのだろう」という失望を感じた。思わず顔に出そうになり、咳払いをして誤魔化す。
「指輪が見つけられればいいのですが……万が一ですが、王やミレス様に似た顔つきの子供を見つけ、指輪をかざして我こそは王子だと乗り込んでくる不貞な輩が出ないとも限りませぬ。神殿の失態でこれ以上王様に迷惑をかけては……」
更には自分の弱い立場もチラつかせレーゲンはテュランの表情を確認する。気の優しい間抜けな甥っ子は、伯父を安心させるようにと思ったのだろう。背中をしっかりと伸ばしてゆっくりと頷く。
「伯父上の尽力で盗みに入った不届き者は見つけだした、と聞いております。あまり憂いを持たぬようにしてください。……すみません、お忙しいのに、突然押しかけて長居を致しました」
気遣った笑顔を伯父に向けると、テュランは立ち上がった。
「王太子様には、いかなるときでも神殿の扉は開いておりますよ。いつでもお気軽にお越しください」
嬉しそうに微笑んだ甥っ子が出て行き、重厚な扉が音を立てずに閉まると、レーゲンは椅子に深く腰を下ろし机の上で両手を組んだ。
「リヒトめ……やはり始末せねばならん。しかし、どうしたものか」
揺れるろうそくの明かりを見つめ、忌々しさに顔を歪めて呟いた。
◆
「おはようございますテュラン様」
「おはよう、リヒト。ところでこれは君のものじゃないかな」
翌朝、剣の練習が始まる前にテュランは懐から革の首飾りを取り出した。リヒトは驚きに目を見開いた。ないことに気がついて昨日は夜更けまで探し歩いた、たった一つのアルスの肩見だった。
「私のものです。なくしたものとばかり……ありがとうございます」
リヒトは感激して深く頭を下げた。
「大事なものだったのか?」
「はい。粗末なものですが、父の形見なんです。形見といえるようなものが、それしかありませんので。昨日も一晩中捜し歩いて……」
テュランは頷いて、リヒトに革の首飾りを渡す。
「中に何か入れられるような形だったから、持ち主を探すために開けて見たがからっぽだった。拾った時に周りには何も無かったと思ったけど何か入っていたかい?」
テュランにしてはおしゃべりだし、探るような言い方に様子にリヒトは思わずその顔を見つめる。ハンネスも気のせいか少し眉を寄せたように見えた。しかし、テュランはいつものように笑っているので気のせいかとおもい、首飾りを確認する。
「……そういえば何か入れられる形ですね。気がつかなかった」
リヒトは解れた箇所から指を入れて中を確認する。
「何も入っていなかったと思いますし、私にはこれで充分なのでお気になさらないでください」
リヒトは顔をあげると、笑顔で答える。今まで「中に何か入っているかもしれない」とは考えたことも無く、首飾りそのものを父の形見とお守りのように思ってるだけなのだから問題ないと思った。父が何か残したのかもしれない、と思うと気づかずに無くしたことは残念な気もしたが、仕方がないと思えた。リヒトは切れた紐を器用に結ぶと自分の首にかけて服の中にしまい込み、上からそっと手を当てた。
「落ち着きます。ありがとうございます」
「そうか、それなら良いんだ」
テュランはわだかまりが解けたように笑う。その笑顔に安心してリヒトも笑顔を返した。
「さあ、おしゃべりはこのくらいにいたしましょう」
ハンネスに促され、二人はいつも通り稽古を始めた。
◆
数日後、側室ミレスがテュラン王太子の稽古の見学にやってきた。いつものような豪華なドレス姿ではなく、こざっぱりとした稽古着を身につけている。どうやら本当に稽古に参加するつもりのようだった。
「本当に、来てしまいました。迷惑じゃないかしら」
「とんでもありません。大歓迎ですよ」
「ありがとう」
笑顔で迎えるテュランに飾りの無い言葉をかけて頭を下げるその姿に、リヒトは微かに動揺した。マキノに似ている。黒く太い髪を無造作に一つに束ね、化粧をしていないミレスは驚くほどマキノに似ていた。ミレスは視線に気がついたようにリヒトを見つめた。
「どうかした?」
「あ、いえ、ティレンの知人に似ていたものですから」
突然、自分に向けられた視線と言葉に心臓が飛び上がりそうになりながらリヒトは答える。
「あ、それ俺も思ったぁ、ミレス様はマキノに似てるんだ……でおりまするな」
ハルが護衛とは思えない口ぶりで話し出し、テュランの存在にはっとしておかしな敬語を使う。側妃に向かっていつもこんな言葉遣いなのだろうか。ハルに呆れて空気がふっと解ける中、ミレスだけが表情を硬くした。
「ハル、マキノと言った?」
「あ、はい」
「その方、年はいくつ?」
「あ、えと、多分、ミレス様よりすこし上かと、えと」
ミレスの矢継ぎ早の質問にしどろもどろになってハルは答え、助けを求めるようにリヒトを見つめた。
「三十七歳のはずです」
「出身は?」
「ザイレ島と聞いております」
ハルの変わりにリヒトが簡潔に答える。ミレスは頷くと思案するような顔になり、やがて何か思いついたように顔をあげる。
「テュラン様、リヒトを少し貸してくださらないかしら」
意外な申し出に、テュランは驚いたようにミレスを見つめる。
「ええ、よろしいですが何故?」
「どうやら、私の古い知人と知り合いのようなのです。ハルにはいつでも話を聞けますから、今はリヒトの話が聞きたいわ」
「ああ、ミレス様もザイレ島の出身でしたね。どうぞお気兼ねなくお話ください」
テュランは納得したように頷く。
「ありがとうございます。代わりに、と言ってはなんですが、ハルをお貸しします」
ミレスが鮮やかな笑顔で言うと、ハルは嫌な顔を隠しもせずにため息をつく。それを見逃さずにミレスはハルを優しく睨み付ける。
「あなたはちょっと鈍り過ぎです。テュラン様に鍛えていただきなさい。リヒト、こちらへ」
ミレスはくるりと優雅に身を翻しながらリヒトを促した。言われるがまま、リヒトはミレスのあとに続き、休憩所に向かう。服が違えば、歩き方までもがマキノに似ている気がした。
「この子は、信用できる子だから気にしなくていいわ、座って」
休憩所の椅子に座り、側に控える侍従を差して言うとミレスはリヒトに椅子をすすめた。
「いえ、このままで」
硬い表情を作ってリヒトは答えた。ミレスの護衛であるハルが離れている以上、ミレスの護衛を勤めなければ、という気持ちもあった。だが、それ以上に、隣に座ってしまえば心が解かれてしまう気がしたのだ。恐らくいつもは優雅な側室を演じていたのだろう。ありのままの姿のミレスは、間違いなく自分の母であるとリヒトに感じさせるのに充分だった。ミレスはすこしガッカリしたような顔をして口を開く。
「マキノは、私の姉なの」
「は……えっ」
リヒトは弾けるようにミレスの目を見つめる。
「姉は意に染まぬ結婚を迫られて家を飛び出したと聞いたわ。元気にしていたかしら」
「はい、とても……」
「あなたの剣はマキノから?」
「はい、教わりました」
「どうりで。似ていると思った」
あまりのことに頭が真っ白になり、どう返答すればいいのか考えが追いつかないリヒトの頭の中に「シシィめ、知っていたくせに教えなかったな」という思いが浮かんだ。
「その前にも誰かに習ったかしら……その、剣を」
ミレスはまっすぐにリヒトの目を覗き込む。剣の型のことを言っているようで、違う、とリヒトは思った。
――ああ、俺が息子だと気がついているんだ
リヒトはそのことを、とても自然に受け入れた。ミレスが今、自分の中にアルスの生涯を見ていることにも。そしてその目を見れば、ミレスは王ではなく、今でもアルスを愛している事も充分すぎるほどにわかった。
――うん、もう、これでいい
リヒトは零れそうになった涙をごまかそうと、居もしない敵を探るように辺りに目を配る。ミレスもまた、そんなリヒトに気が付かないふりをしてくれている。
「父に。とても優しく自慢の父でした」
一瞬、ミレスの瞳が儚げに揺れた。それはすぐに姿を消してミレスはすっとまっすぐに立ち上がる。
「話をしてくれてありがとうリヒト、さて、私たちも体を動かしましょう」
リヒト、の響きに今までと違う色がついているように聞こえたのは気のせいだったのだろうか。リヒトが見つめたその横顔はすでに側室ミレスの顔であった。
――いつか、母と呼べる日がくればいいのに
瞬間、頭に浮かんだ考えを振り切って、リヒトはテュランに向かって手を振りながら戻るミレスに続く。目の端に侍従の娘が袖でそっと涙を拭うのが見えた。
それからというもの、定期的にミレスは稽古に訪れた。だがそれきりリヒトに話しかけることは無かったし、リヒトもテュランの訓練相手という立場を弁えて振舞った。だがまもなく、リヒトはミレスが訓練に参加する日を待ち望むようになっている自分に気がついた。
強くなったでしょう、大きくなったでしょう、見てください母上、と心の中で話しかけながら剣を振る。日々は緩やかに穏やかに過ぎ、リヒトをハルが兵士になってから、一年が経とうとしていた。




