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竜の住む国  作者: タカノケイ
第一章 少年の運命
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少年の運命 3

 リヒトは山の北側の裾を回り、東に向かって歩いていた。

 南を回った方が斜面がなだらかで歩きやすいのだが、少しでもラーゴに近づくことを避けたのだ。


 暗闇と疲れに足を取られる寸前まで歩くと、大きな木が朽ちたあとの洞を見つけた。ブーツで落ち葉を集め、麻袋の上部に丸めて括られていた布を広げて座り込む。この暗さであれば煙が見つかることは無いだろう。洞は枯れた木の根に囲まれ、折れた幹が倒れてかかっており、余程近づかなくては炎も見えないに違いない。


 火をつけよう、袋から手探りで火きり棒を取り出し、枯れた木の皮をはがして枯れ草を集め、火をおこし始めた。が、昨日の雨の湿り気がまだいくらか残っている落ち葉にはいくらやっても火がつかなかった。

 火がなければ、夜行性の肉食獣に狙われる可能性がある。起きたまま足だけ休めて朝まで過ごそう、と思いながら、父の分だったブロトーの焼けた外側だけを食べた。


 山は深深とした静寂に満ちている。星だけが夜空に輝き、獣も鳥も遠慮するかのように何の音も立てない。明日は晴れるだろう、距離を稼がなくては…と考えながら、リヒトはいつのまにか深い眠りに落ちていった。



  ◆



 翌朝、夜通し馬を駆け続けたイヌルが、西の街道を南から北へと進んでいたツヴァイに追いついた。

 報告を聞いたツヴァイは眉を寄せる。


「洞窟に入っていない? 埋葬のために一旦戻ったのか?」


 ス……と目が細まる。埋葬? 一晩で子供が穴を掘れるだろうか。


「アルスの考えそうなことだ。戻って探すぞ」


 ツヴァイはラーゴに戻りながら舌打ちをする。

 床下の穴にまったく気が付かず、洞窟への誘導に引っ掛かってしまった。劣等感のようなものが湧き上がる。それだけの才能を持ちながらあいつは……逸れた思考を子供の捜索へと戻すため、ツヴァイは軽く頭を振った。

 いや、そもそも子供が一人でどれだけ逃げられるというのだ。見つけるのは死体でもかまわない。その場合、ただすこし面倒が増えただけに過ぎない、と気を取り直す。

 万が一大きな町に入り込まれたら、絶対に見つけられない……という思いも一瞬、頭を掠めた。本名のリヒトという名で呼ばれていたこと、十歳という年齢、黒髪、ということ以外、何も知らないのだ。

 


   ◆



 リヒトはアルスの夢を見ていた。荒れた大きな手がリヒトの頬を撫でている。がさついているはずの手は、しかしとても柔らかく何より暖かだった。

 笑っているアルスの顔が明るく輝いている。それはいつしか目が開けられないほどの眩しさになり、必死に目を開こうとするが眩しくて眩しくて―――


「……とさん……」


 ふ、と目が覚めた。木漏れ日が優しくリヒトの顔を照らしていた。


「わ!」


 一瞬のうちに覚醒する。山の中で無防備に眠るとは……足のほうから全身に肌が粟立つ。慌てて袋を確認するが荒らされた形跡はなかった。

 食べ物が入っているのに、と不思議に思ったが、何もなかったことに安堵する気持ちの方が大きかった。ぐっすり眠ったことにより体力も戻っている。日の高さからすると昼近くになってしまったらしい。距離を稼がなくては、とリヒトは立ち上がる。敷布を丸めて袋に縛り付け、沢で皮袋に汲んでおいた水を飲むと、早足に歩き出した。


 歩き出してすぐにシアブラの群生を見つけた。茹でても揚げてもおいしい春の山菜だが生では食べられない。迷った末にそのまま歩き続ける。睡眠で戻った体力も空腹であっという間に尽きた。


 生のブロトーを食べるべきか、と迷い始めた頃、ソルベルの低木を見つけた。親指の爪ほどの大きさの赤い実が鈴なりになっている。リヒトは走って木に近づくと、両手を真っ赤にして夢中で食べた。

 ソルベルの実は生でも食べられるが、ジャムにしても非常においしく日持ちする。体にも良いされている上に、北向きの深い山中でしか実らないため、滅多に食べられない高級品だ。山を歩けば、たまに木は見かけるものの、実は採りつくされた後ということが多かった。

 食べきれない実も摘んで、マントのフードに入れてこぼれないように紐で縛って歩き出す。


 父が殺されたのにお腹は空くんだな、満腹になった代わりに空虚な思いが頭を埋めて巡り始める。気がつくと回りに警戒もせずに、足元だけを見てぼんやりと歩いていた。はっと気がついて慌てて振り返る。それでも足跡は残さずに歩いたらしい。

 はあっと一息ついて前に向き直った瞬間、リヒトは硬直したように動けなくなった。


 目の前に居たのは……竜だった。


 体を覆っている竜鱗と言われる深緑色のウロコが午後の光に反射している。後ろ足に比べて小さい前足の間に顔をうずめて眠っているようだ。上を向いた鼻孔から寝息が漏れている。穏やかな表情に見えたが、口は大きく裂け、その隙間からは牙が覗き、肩の付け根から蝙蝠のような翼が生えていていた。


 バルト国には昔から竜が住んでいる。教会の教えでは人は竜から生まれたとされており、竜は国の守り神になっている。一方で、本物の竜は人を襲う悪魔でもあった。山で出会ってしまったら助かる可能性はとても低い。食べるためや縄張り争いではなく襲うところが、他の動物とは違っていた。もちろんリヒトも小さいころから、アルスに竜の危険性を叩き込まれている。


 どくどくどくどく、音が聞こえるのではないかと思うほど激しく心臓がなっていた。起きる前に引き返さなくては、という気持ちと裏腹に足が動かない。

 それは圧倒的な恐怖だった。お話として聞き続けた竜への畏怖だけではない。対峙しただけでわかる、絶望的なまでの生き物としての力の差に打ち据えられたのだ。


 やっということを聞いた右足は一歩下がろうとして、枯れた小枝を踏んだ。


 ―――パキンッ


 音のない森にそれは思った以上に大きな音で響いた。リヒトが息を飲むのと同時に竜が目を開いた。


  ああ、僕はここで終わるんだ―――


 何の抵抗もなくリヒトは思った。それほど逃れようのない絶対的な死の感覚だった。

 一方で、まったく存在を感じない鳥や獣、誰にも採られていない山菜や果実、竜の棲む山だと気が付かなかったなんて、おとうさんに怒られるな、などとぼんやりと思った。

 そして、そうなって初めて、竜がとても美しいことに気がついた。深緑色の鱗に光が七色に反射している。両眼の縦に長い瞳孔は、深く、赤い。


「きれい……」


 思わずつぶやいた。竜の目に不思議そうな感情が浮かぶ。ゆっくりと頭をもたげると、左の前足をリヒトのほうへ一歩出して、ぐぐうと頭を近づける。それだけで十歩ほどあった距離がなくなった。


「怖くない、か」


 低く心地のいい声がどこからともなく響いた。音、だったのかもしれない。


「はい」

「どうして」


 どうして、という問いにリヒトは一瞬とまどう。どうしてだろう…死んでもいいとは思っていない。すべきこともある、だからここまで歩いてきたのだ。でも本当はもしかしたら、そして唐突に気づいた。


「言葉が話せるんですか!?」


 竜は少しあごを引き、目を見開いてリヒトを凝視すると、ふっと笑った。


「面白いな、名は?」

「リヒトです」

「よい名だ、リヒト、すこし話していけ」


 竜は言いながら目を閉じ、かがんで前足の間に頭を乗せる。触れられそうな場所に竜が居る。体の表面は爬虫類のような質感なのに触れたらぬくもりを感じそうだと思った。人ではない生き物が話している…不思議な感覚だったが、恐怖や嫌悪は感じなかった。


「食べる前にですか?」


 まっすぐに竜を見てたずねる。竜は片目を開けて口の端をあげると、くっくっくと笑った。


「本当に面白い。座れ、お前の話でいい」


 竜に促され、リヒトは竜の前に膝を抱えて座った。どうして言われるままに話しているのだろう、と思いながらポツリポツリと父との生活について話し出す。


 夏の狩りのこと、食べられる野草のこと、好きな料理のこと、冬の星のこと。だが、聞かせられるような話はあまりなかった。父から聞いた話ならたくさんあるが、自分が見てもいないものを見たように話すことは憚られた。


「……それで、多分そろそろ移動するんだろうと思っていました」


 言葉を切ると、もう何も出てこなくなってしまった。困って黙り込み、竜をちらりと見る。眠ってしまったのかと思っていた竜は目を開けた。


「久しぶりに楽しい時間だった。言葉も随分思い出した。だが、そろそろ父の元に帰さなくてはな」


 竜の声のあまりの優しさにハッとして俯いていた顔をあげる。そこには声以上に優しく自分を見ている竜の目があった。

 父の元に帰す。


 この瞬間、リヒトは急に回りの音と色が鮮明になったように感じた。


「父は……」


 リヒトは口ごもった。父は殺された。父はいなくなってしまった。


「帰るところはありません」


 何かがふつり、と音を立てて切れた。恐ろしさ、後悔、絶望、そして怒り…しかし、リヒトはまだアルスの死を悲しんでいなかったのだ。リヒトの目に涙の粒が浮かぶ。


「父はもういません」


 今はじめて、自分が一人になってしまったことを痛切に思い知った。涙は次から次へとあふれて止まらなくなり、涙は押し殺していた感情を目覚めさせた。しっかりはしていても、まだ十歳の子供だった。


「お、とうさん、は」


 もう居ない。二度と会えない。


「おとうさん」


 恋しくてたまらない父を呼ぶ。もちろん返事はない。


「おとうさあぁぁぁあん」


 堪え切れずに叫ぶ。心が切り裂かれるような声だった。


「おとうさあぁぁぁあん! おとうさあぁぁぁあん! 」


 何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、父を呼んだ。


 竜は困った風もなく、涙を振り絞って泣き叫ぶリヒトを眺めていた。

 日のあたらない場所の空気は冷気を帯び始め、夕日は山を真っ赤に染めはじる。

 その夕日よりも赤い頬をして、汗だくで泣いているリヒトの体を竜はその長い尾でくるりと包んだ。

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