王都ハウシュタット 3
「フィ……ああ」
シシィはチッと舌打ちすると、食器棚からグラスを取り出す。いつも影のように側に居る彼女の恋人は、今回の旅には同行していない。
「俺が」
ハルはすかさず立ち上がって、シシィの手からグラスを受け取る。シシィは頷いてテーブルに腰をおろした。ゼノも離れた革張りの椅子から、テーブルへと移動する。蒸留酒を並々と注いだ四つのグラスを盆に載せたハルが、最後に腰を下ろした。
「まず、ハル。あたしをこれからはシシィと呼んでね。それが本名なの」
「シシィ……わかった」
何のことかわからないまま、ハルは頷く。
「何からどう話したらいいか……」
シシィはそっと目を閉じる。
「十三年前、あたしたち……あたしとゼノとフィデリオは、グロセンハングでアルスという武官を助けたことがあるの。リヒトはもう知ってるわね」
リヒトは頷く。ハルは興味を持った様子で身を乗り出した。
「その時からの長い話をするわ」
シシィの長い話を、リヒトとハルは一言も挟まずに聞き続けた。アルスと側室ミレスが共にザイレ島の出身で、婚約していたこと。ミレスが王に見初められ無理やりに側妃にされたこと。アルスがミレスを追って王都に渡り、身分を隠して御前試合に出て神殿兵に配属されたこと。飢饉が続く中、第二王子が国を滅ぼすというお告げがあったこと。ミレスの息子であるリヒトが生贄に捧げられる儀式の寸前、アルスがリヒトを連れ去ったこと。
「……んじゃあ、リヒトって」
掠れた声でハルが呟く。
「そう、この国の正当な王子様よ」
しん、とした空気が流れる。本人以外、全員の視線がリヒトに集まっていた。
「飢饉は……」
リヒトは呟いた。
「次の年が大豊作でね。王子様が犠牲になってくれたおかげだといって、あなたの名前の神殿が建ったわよ」
シシィは皮肉を込めた口調で言う。
「あなたは生贄になっていないのに、次の年は豊作だった。わかる? 未来なんて、いつだって揺れ動いてるの。そんなお告げはでたらめなのよ。緋の一族が言うんだから間違いないわ」
シシィは言うと、彼女が緋の一族である証拠の、真っ赤な髪をかきむしった。
「過去は全て過去のこと。さて、大事なのはこれからよ、リヒト。いい?」
ぼうっとしていたリヒトが、慌ててシシィの目を見つめ直す。
「リヒトは間違いなく生贄になったと思われているの。国王にすら、ね。生きているのを知っているのは、リヒトの母親であるミレスとその侍従、儀式の場に居た大神官長と、生き残った神官たちの数名。儀式を警備していた神殿の兵士達。それもきっと五年前に死んだと思っている可能性が高いわ」
リヒトは頷く。ハルは気忙しげにリヒトとシシィを交互に見つめた。
「五年前……リヒトが商団に……」
「そう、五年前にアルスは死んだ。リヒトはあたしにも内緒の方法で上手く逃げ延びてマキノに拾われたのだけど、むこうは死んだと思われているだろう、ってこと」
シシィは少し口の端をあげてリヒトを見る。この子にはまだ私に秘密にしていることがある……リヒトは心苦しそうに俯く。シシィは気にしていないフリをして先を続けた。
「王妃は大神官長の姪でね。大神官は何があっても自分の姪の子、つまり王太子テュランを次期国王にしたいのよ。お告げというのも、その辺の事情だと思う。だから、あなたはどうしても生贄になって死んでいないと困るのよ」
「そんなこと……だったんだ」
リヒトは目を伏せる。
「そう。あなたは汚い権力争いに巻き込まれて、命を落としてなきゃいけないの。それなのに王宮に入ったと知られたら」
「そんなことでアルスは……」
シシィの言葉を遮るリヒトの呟きを聞いて、シシィの顔に苦痛の色が走る。リヒトは賢い子だ。父アルスの死の原因が、権力者の欲望のせいとはいえ、やはり自分だったということに、すぐに気付くだろうとは思っていた。それは、できることなら一生伝えたくない事だった。シシィはぐっと奥歯を噛み締めてから口を開く。
「そう。そんなことで、人は人を殺すの。あなたはそういう世界に、足を踏み入れようとしているのよ」
シシィはグラスを取り、蒸留酒を乾いた喉に流し込む。充分だと思える間をおいて
「王子ではないリヒトとして生きるには、王宮に近づかないほうがいい。兵士になるのをやめる気は?」
とリヒトの目をまっすぐに見て尋ねた。
「……変わらない」
掠れてはいるが強い声でリヒトは言う。
「復讐のため? それとも王子として何不自由なく贅沢に生きたくなった?」
二つ目はありえない、と思いながらシシィは重ねて尋ねる。リヒトはふわりと微笑んだ。
「復讐なんてくだらないことを考えない人間に、二人目の母親に育てられたし」
シシィの目が大きく見開かれる。イリスに比べ、いつでも遠慮がちなリヒトに、自分は暖かな居場所を与えられていないのではないか、と悩んだことも少なくない。リヒトにわがままを言わせてみせる! と息巻いていたくせに「兵士になりたい」という初めてのわがままを理由も聞かずに一刀両断にして、飛び出させてしまったことをとても後悔していた。ふふ、と隣でゼノが笑いをかみ殺す。
「王子になる気もないよ」
「じゃあなんで」
シシィの顔が赤いのは酒のせいだけではないようだ。
「前に言ったとおりだよ。父さんの見た世界が見たい。それから、この国のいろいろなことが知りたいんだ」
リヒトは力を抜いて、まっすぐにシシィを見返す。シシィに嘘は通用しない。緋の一族の能力がシシィの脳裏に、太陽の下で笑っているイリスの映像を浮かび上がらせる。リヒトはイリスのために、イリスが表で笑って暮らせる場所を作れる男になりたいのだ、と一瞬で理解した。王宮の武官であれば、平民出身の人間にとって最高の出世に間違いない。安定した収入が約束されるし、名前を偽って隠れ暮らす必要もない。
「イリスが会いたがってたわ」
と、シシィは少々意地悪な笑みを浮かべる。リヒトは表情を変えないままグラスの酒を一気に飲み干す。徐々に顔が赤くなっていくのは酒のせいではないようだ。これだから嫌なんだよ、という心の声もシシィには筒抜けである。
「よし、それじゃあ、バレないためと、バレた時のための作戦会議を始めるわよ」
やり手の何でも屋フリッケの顔に戻ったシシィが、パン! と手を打って言う。
話し合いは、夜中まで続いた。なあ、イリスって誰よ? なあ? なあってば! うるさい! という会話を交わす二人の若者を見送って、シシィはため息を付いた。
「……あたし、アルスの時の失敗を繰り返さなかったのよね」
頼りない声で後ろに立つゼノにささやく。ゼノはシシィの頭を抱き寄せた。大きな腕が華奢なシシィを包み込む。
「リヒトは大丈夫だ。どうやら二人目のお母さんの育て方が良かったらしいじゃないか」
「やめてよ、じゃあゼノはおじいちゃん?」
シシィはおどけた声で言って、目を閉じてもたれかかる。
「こんな時は、本当に未来が見えたらいいのにと思うわ」
呟きが星の少ない夜に流れた。
◆
「俺さ、昨日、今夜は眠れそうにないって思ってさ」
翌日、ハウシュタットの宿屋での朝食の席で、ハルは声を落とした。心なしか元気がないように見える。
「うん……」
ブロトーに噛付いたまま、リヒトは申し訳なさそうに目を伏せた。あんな話を聞かされたら誰でも驚くだろう。ましてや自分の将来を揺るがしかねないことなのだ。ハルは再び深いため息を付く。
「思ったのに……超、速攻で寝たよね……」
一瞬、間をおいてリヒトはブロトーを吹き出す。ゲホゲホと咳き込み、慌てて水を飲んだ。
「自分でもびっくりしたわ。リヒトが、まさか、俺はこれから……くあーーーー」
くあー、同時にと目を閉じて、口を開いて、かくんと首を折ってみせる。
「やめろよ、本っ当、おまえって」
あはははは、と周りが顔をしかめているのも気にせずに、二人で笑い転げる。
「前にリヒトさ、俺と代わってやるって言ったの覚えてる?」
笑いが収まったハルが少し真剣な表情で呟く。
「ああ」
「俺がくだらない嫉妬してさ」
「いや」
リヒトは顔を伏せる。剣の腕を見込まれやりがいのある仕事に回されるリヒトに、お前ばかりずるい、とハルが食ってかかったのだ。そのハルにリヒトは「代わってくれ」といったのだ。俺は一人だから危ないこともやらされるのだ、と。お前の母も兄も弟も妹もくれるなら、いつでも代わってやるよ、と。シシィの家に住み始めて間もない頃、リヒトがまだ借り物の家に住んでいるような居心地の悪さを抱えていた頃だった。ハルはくくく、と笑う。
「おまえ散々俺に向かって怒鳴ってさ、最後に、ああでもだめだ、ハルの親友枠はお前に譲れない、って。超意味不明」
代わってるんだから、ハルはつまりお前ってことだろ? おかしいんだよ、と言いながら、ハルは笑う。リヒトも、だな、と笑った。
「まあ、そういうことだよ。俺はお前の親友枠を誰にも譲りたくないんだ。お前がどこのどなた様だろうとさ」
というと、ハルはテナ茶のカップを持つ。
「ま、そんだけ」
いつものへろりとした笑いを浮かべたハルを見て、リヒトはありがとう、という言葉を飲み込んだ。意味もなく窓の外を見つめて瞬きを繰り返す。御前試合八日目、第六戦の朝が穏やかに過ぎていった。




