少女の宿命 8
その後、細心の注意を払って進んだシシィとアルスがリステルに到着したのは、グロセンハングを出てから半月後のことだった。イリスの一件について、アルスはそのあと何一つ質問をしなかった。シシィも話す気はなかったので、しばらく気まずい沈黙が流れたが、かわいらしい二人の子供のおかげでその後は和やかな旅路だった。
「フィー!」
馬上から、フィデリオを発見したイリスが叫んだ。老人のような姿で街並みをゆっくり歩くフィデリオを、人ごみの中からいち早く見つけ出したのだ。人々の目が陶器の人形のようなイリスの顔に集まる。
フィデリオは恐らく、旅の間ずっと老人の姿で通していたのだろう。竜化を途中で留めた姿は、普通の老人とは違う不気味さがあり人目は惹きが、誰かに興味をもたれたり声を掛けられることはない。元の姿であればそうはいかない。美しいということも充分に人目を惹き、その上で面倒事に巻き込まれることを彼はよく知っている。
「イリス、顔色がいいね」
馬から乗りだし落ちるばかりのイリスをフィデリオは抱きおろして囁いた。顔も声も違うのに、イリスは全く気にする風もなく抱きついている。
「遅くなったね」
「いえいえ、私も今しがた着いたところでごぜえます」
フィデリオはシシィに向かってゆっくりとお辞儀をすると、イリスを抱いたままシシィの馬の轡をとって歩き出した。人々には主人のために先駆けて宿の手配をした使用人に見えるだろう。
「え……とフィデリオ?」
目を丸くするアルスに、シシィは微笑んで耳打ちする。
「変装の名人なのよ」
フィデリオが加わった一行は、そのまま何事もなく、半月ほどでティレンに辿り着いた。
◆
「繁華街の中心の道をまっすぐ突き当りまで進むと、飲み屋の並ぶ細い小道に続きます。入ってすぐの路地を右に曲がると占い小屋がありますので、夕刻になったらいらしてください」
フィデリオに告げられて、アルスは街外れの人目似つかない場所に一人取り残された。騎兵が探しているのは二十代の男と二歳の子供の組み合わせだ。今までもアルスだけが別行動でここまで来た。
ティレンに入る少し前に着替えたシシィは「怪しい」の一言に尽きる出で立ちになった。色とりどりの布を包帯のように幾重にも頭にぐるぐると巻きつけ長く垂らす。布キレの間からは僅かに外が見えるだけだが、その瞼にもごってりと色をのせた。瞳孔のない瞳から人々の視線を逸らすためだった。体にはふわりと胸から大きく広がるスカートを身に付け、その中にイリスをすっぽりと隠す。リヒトは背中の曲がったフィデリオが胸に抱いて、だらりと垂れ下がるマントで隠した。
そんな奇妙な一行がティレンの町に現れても、振り返るのは子供くらいのものであった。由緒正しき商業都市のグロセンハングとは違い、東の穏やかな海に面した港町ティレンは変わったものでも受け入れる大らかな風土がある。沖合いに浮かんでいる、同国とは言え独自の文化を持つザイレ島はもちろん、他国の商業船なども行き来していることが大きく影響しているのだろう。
シシィは裏路地にある一軒の小屋に到着すると、あたりを見回して、イリスとともにそっと馬から下りた。馬を馬棒に繋ぎ鍵を開けて中に入る。シシィとフィデリオにはこういった隠れ家を大都市を中心にいくつか持っていた。いつの日か追われることを想定し、また旅に暮らすゼノの安息地として何年もかけて準備したものだった。資金はゼノが調達したものだったが、どこから出たものか、どうやって手に入れたものか、シシィとフィデリオにはさっぱりわからなかった。
「また一からだね」
布の山を脱いでシシィは笑った。占い稼業というのは固定客が出来るまでが難しい。緋の一族であることを明かせば簡単なのだろうが、危険に巻き込まれる可能性が高まる。だが、信用さえ出来てしまえば、占うと同時に情報を集め、あるいは操作して、生きやすい環境をつくるには持って来いの職業だった。
「いえ、今回は家はあるところからですから、三くらいからですよ」
フィデリオは微笑んで奥の部屋へと進み物置を開ける。敷物を持ち上げ床板を外すとそこには地下に降りる階段があった。喜んで声を出しかけたイリスはフィデリオの手でそっと口を塞がれたが、それでも笑っている。
「先に行って休んでいてください。ここを片付けながらアルスを待ちます」
「ああ、悪いね」
シシィはリヒトを抱き、イリスの手を取ると階段を下りていった。地下道を通り、一軒の民家へと到着した。
「前のおうちと似てるねえ」
イリスは台所から二階からを走り回って確認している。窓には分厚いカーテンがかかってるが、前の隠れ家でもカーテンを開けることは許されていなかったのでカーテンを開けることはない。本当に物分りの良い子だ……かわいそうなくらいに、とシシィは分をわきまえてはしゃぐイリスを見つめ、振り切るように首を振った。
「イリス! ご飯を作るから手伝って」
「はあい」
「あーい」
シシィの声に答えたイリスを真似て、リヒトまで高々と手を上げる。
「リヒトには無理だよぅ」
くつくつと笑うとイリスは得意げに袖をまくり、シシィが洗いはじめた皿を噴き始めた。やることは山ほどあった。家具に掛けてあるクロスを剥がしてテーブルを拭き、床を掃き清める。窓を開け放ちたいが……
「イリス、終わったらリヒトを二階で寝かしつけてくれる?」
振り返らずに言ったシシィに、少しの間を空けて、はーい、と元気に答えるとイリスはリヒトの手を引いて二階へと階段を上がっていった。このまま隠して閉じ込めて生活させるのか……一ヶ月ほど前にも悩みぬいた考えが頭を占め始めてシシィは再び軽く首を振る。間もなくゼノも到着するだろうし、考える時間はまだまだある。窓と玄関を開けて、埃を掃き出していると、まもなくアルスが台所へと現れた。
「すごいな。この地下道、二人で掘ったの?」
「まさか」
シシィは久々に大笑いした。古くから発達している都市にはこういった地下通路や隠し部屋があるものなのだ。人の手を渡るうちに、今住んでいるものたちですらその存在を知らずにいるような。それをシシィの目で探し出して購入したのだった。
「地下が見える?」
「うーん、見えるのとは違うんだけど。あの小屋とこの家は繋がってるって感じるんだ」
「繋がり……」
アルスは首を捻る。シシィが得意とするのは、そういった繋がりを視る事だった。名前とその人の繋がり。道とそこにやってくるものの繋がり。それらが繋がっているのかいないのか、繋がりの深さが見えるのだ、とゼノに説明したことがあった。しかし自分でもそれが適切な説明になっているとは思っていなかった。なんとなくわかる、という感覚は説明できないものなのだろう。
しばらくすると食料を買い込んだフィデリオが玄関から鍵を開けて帰ってきた。老人の姿から、ゆっくりといつものフィデリオに戻る。アルスは目を瞠ってその変化を見ていたが、何も言わなかった。
その日の遅い夕飯はとても楽しいものとなった。料理自慢のフィデリオが新鮮な食材で作った沢山の料理と、到着祝いと奮発した質のいい蒸留酒で大人たちはすっかり満ち足りた気持ちになった。子供たちもおなかいっぱいに食べて、体をお湯で清めてさっぱりするとあっという間に夢の国の住人をなった。シシィはグラスの酒をぐい、と飲み干す。
「ゼノが戻るまでに占いの店は出せるようにしたいね」
「そうですね、今回は名前はどうしましょうか」
フィデリオがゆっくりと受ける。揺れるランプの明かりの中、思い思いの場所に座り込み、グラスを傾ける。背もたれに寄りかかっていたアルスがそっと体を起こした。手にしたグラスをまっすぐに見つめている。
「ゼノが戻ったら、リヒトを連れてここを出ようと思っている」
自然な口調でアルスは告げた。シシィは思わず眉をぴくりと上げた。フィデリオも閉じかけていた目を開く。
「もう迷惑とかそういう次元ではないと思っていたけど」
思わずけんか腰になる口調を抑えることができずに、シシィはアルスをまっすぐに見た。アルスは答えずに少し微笑んだ。
「ここを出たら危険なことはわかってるよね?」
シシィは同意を得るようにフィデリオを見つめる。フィデリオはシシィに頷いてからグラスを置いてアルスに向き直る。
「あなたが追われているなら、リヒトを連れて行く理由がない。追われているのはリヒトなのですね?」
はっと顔を上げるアルスを手を上げて制してフィデリオは続ける。
「しかし、追っ手にリヒトを判別させるのもあなたです。あなたが連れている子供こそがリヒトである、と。二人の関係も知らずに冷たい言い方かもしれませんが、リヒトの安全を思うならあなたはリヒトと離れるべきだ」
沈黙が降りる。アルスはグラスの中で揺れる透明な液を眺め続けていた。
「それでもやはり、行きます。リヒトには外の世界で生きることを学ばせたいのです」
アルスは敬語に戻りきっぱりと言い切った。
「世界を見せたいなら、成長してからゼノにでも託せばいいわ。世界を見るのにあれほどうってつけの男はいないもの」
シシィも折れない。どう考えても二歳の子供には危険すぎるし過酷過ぎる生き方になる。それを見過ごす事はできない。
「それでもこれは私の使命なのです」
バン! とシシィはテーブルを叩いて立ち上がった。
「あんたの使命だか信念やらでリヒトは死ぬの?」
「絶対に死なせません」
「約束も出来ない、いい加減なことを言うな!」
パシャ! っと音がして、シシィのグラスの中にあった酒がアルスの顔を滴り落ちる。
「すみません」
頭を下げるアルスにフィデリオが手布を差し出す。アルスは拭くこともせず顔からポタポタと酒を落として頭を下げ続けていた。
「あんたの人生の矜持だか目的だかのためにリヒトが危険な目にあう。それを止める権利はあたしにはないってわけね」
シシィは髪の色もあいまって言葉通り燃えるような表情でアルスを睨みつける。
「俺の大切な人の子供なんだ。守れなかった大切な人の」
呻くように細く漏れたアルスの声は泣いているように聞こえ、シシィは毒気を抜かれて椅子に座り込む。
「……リヒトは代わりってわけ? 攫って来たの?」
「決して自分の為にしたことではありません。私はリヒトを強い男に育てなくてはならないのです」
顔を上げたアルスは泣いてはいなかった。まっすぐにシシィを見つめる。
「だからそれはここにいても……」
言いかけるシシィに、フィデリオが酒を注ぎなおしたグラスを手渡し、肩に手をかけて言葉を制した。
「いつまで続けても答えは出ないでしょう。ゼノが戻るまでこの話はお預けにしませんか」
「今話すことではなかった。すまない。もう休みます」
一礼すると、アルスはリヒトを抱いて部屋を出た。あとに残されたシシィの頭をフィデリオはそっと抱き寄せ、短い髪に唇を落とす。シシィは小刻みに震えている自分に驚いた。
「あの子が死んでしまうわ」
「先が視えるんですか?」
シシィは首を振る。フィデリオにやさしく見つめられ、ふう、とため息をついた。
「わかってるわ。リヒトはあの子じゃない」
あの時、あのまま屋敷に幽閉されていたなら、ひどい目にあったにせよ、娘はとりあえずまだ生きていただろう。広い世界を見せたい、自由に生きさせたい、そう思って逃げた結果は最愛の娘の死であった。守り抜く力もないくせに無謀な真似をして娘を殺してしまった。棘のように刺さって抜けない後悔はいまだにシシィを苦しめている。
「もう大丈夫。ありがとう」
シシィはフィデリオの視線を避けて、両手でフィデリオの胸を押しやる。
「それは、まだ大丈夫じゃないという意味です」
フィデリオは腕に力を込めて更に強くシシィを抱きしめ、シシィはその胸に頭を預けて目を閉じた。