少女の宿命 7
夜も更けた頃になって、ようやくアルスは目を覚ました。
「すみません。すっかり眠入ってしまいました」
既に入浴まで済ませたらしく、二人の子供はすっきりとした顔で一つの布団にぐっすりと眠っている。
「粥を取っておいたわ」
シシィは粗末な丸テーブルの上の鍋をアルスの前に押しやると、グラスに果実酒を注ぐ。安宿の狭い部屋に甘い香りが広がった。アルスは黙って頭を下げると椅子に深く腰掛け、ゆっくりと果実酒を飲み干した。そのまま無言で粥に手をつけ始める。シシィは空になったアルスのグラスに酒を注ぎ足すと、ゆらゆらと揺れるランプの火を眺めながらちびちびと自分のグラスを傾ける。
「その子の名前は?」
アルスが食べ終わるのを見計らって、シシィは尋ねた。
「リヒトです」
「いい名ね。と……夫婦なんだから敬語はなしよ、あなた」
しばし眠っているリヒトを見つめると、いたずらっぽい表情でシシィは微笑む。アルスもふ、っと口角を緩めた。そうして笑うと、恐らく実年齢通りだろう若々しさが溢れた。
「フィデリオに申し訳ないな。イリスは二人の?」
「いいえ……」
シシィはイリスの事情を語った。ただ、イリスが先祖返りであることを伏せて、襲ったのは竜ではなく盗賊に話を変えた。まだそこまで信用することはできなかった。アルスは身じろぎもせずに聞いている。
「治安がそこまで悪化しているのですか……イリスがやっと落ち着いたばかりなのに巻き込んで申し訳ない」
アルスは盗賊までもが自分の責任であるかのように沈痛な面持ちで頭を下げた。
「シシィは緋の一族だね?」
「ええ、そうだけど」
一拍置いてシシィは答え、グラスを一気に空け、音を立ててテーブルに置いた。
「先読みが出来る?」
ふ、とシシィは笑う。出自についての一切を聞かれたくない、という合図を出したし、受け取ったはずなのに質問を続けるアルスの若さに対してだった。
「得手不得手もあるけど、先読みは誰がやってもほとんど当たらない。たとえば顔を見た時に水のイメージが沸いたから、あなたの人生は穏やかなものでしょう、くらいの話。もしかしたら溺れ死ぬのかもだけどね」
そんなものなのか、とアルスは呟く。
「未来は決まっていないって事。だからやりがいがあるんでしょ。さて、もう休もう」
夜具に包まり目をつぶったものの、シシィはなかなか寝付けなかった。助けるのはあたしの勝手、と昼間は言った。でもイリスを巻き込むことは自分の勝手でしていいことだったろうか……。イリスの存在が怖いもの知らずの自分の考え方を変えてしまったようだ。ため息を付くと少し離れて横になっているアルスもまた寝付けぬ様子で寝返りを打った。
◆
翌日、早朝に宿を跡にした二人は、馬車は通れないような細い道を選んで北へと向かった。大陸公道を横切り、そのまま北上する。人気の無い道に入って安心したのかアルスはふう、と肩の力を抜いた。
「何事もなく横断できたね」
呟くアルスにシシィはどうよ? と言うように、つ、と眉をあげてみせた。シシィの目があれば悪意のあるものたちが近づく前に回避することは簡単なことなのだ。
「それにしても本当に泣かない子ね」
シシィはアルスの胸に抱かれたリヒトに、おどけた顔を向ける。リヒトはきゃははと笑い返した。二歳になったばかりだというリヒトは、まだほとんど話さない。イリスもしばらくフィデリオとゼノに会えないことを知り、黙り込んでいるので静かな道行だった。
「シッ」
陽もだいぶ傾いた頃、シシィが左手を上げてアルスを制した。目はまっすぐに前方を見据えている。
「隠れよう」
小声で言うと藪の中へと馬を進める。アルスもそれに続き、細い街道から離れ大木の影に身を潜めた。ややあって話し声と馬の嘶きが聞こえ、七・八組の人馬が姿を現した。その身なりや様子から、あまり細い道ではすれ違いたくない男たちだということがわかる。避けられて良かった……ほっと胸を撫で下ろしたとき
「あえあ?」
空を指差してリヒトが声を上げた。アルスが慌てて口を押さえたが、声は男たちのもとまで届いてしまった。
「子供の声だな」
「誰か居、る、の、か……あそこだ!」
男の声に嬉々とした色が混ざる。獲物発見、といったところだろう。リヒトは普段あまり話さないから、と油断したことを悔やんでも遅い。
「おーい。動かず待ってろ。そうすりゃ何もしねえよー兄ちゃん」
「姉ちゃんには何かするかもだけどなあ」
下卑た声が聞こえる。アルスはリヒトを抱き紐ごとシシィに手渡した。シシィはすばやくリヒトを抱きとり、左右に目を凝らした。アルスはすらり、と剣を抜く。
「あんな連中に遅れを取るとは思わないが、念のため先に逃げてくれ……イリス?」
アルスの不思議そうな声に、逃げるのに最適な方向を見極めていたシシィの目がイリスの上に落ちる。イリスの白に近いプラチナブロンドの髪の根元が緑色がかっていた。
「わかった。先に行く」
慌ててアルスに告げると、イリスの顔をアルスに見せぬよう馬首を左にめぐらせる。しかしイリスの顔が男たちを追うように右を向いていく。慌ててイリスの頭を押さえたシシィの目にイリスの赤い瞳孔が映った。瞬間、シシィの目には森の景色にここではないどこかの風景が重なった。
たくさんの竜。火花を飛び散らせて燃える家屋。悲鳴を上げながら逃げ惑う人々。その中心で怒りを発しながら男にのしかかり、その肉を食いちぎっているのは……
どくん!
シシィは思わず自分の胸を押さえ、その衝撃で一瞬の白昼夢から目覚めた。イリスは馬から落ちんばかりに男たちに向かって身を乗り出している。
「イリス! 危ない!」
シシィが叫んでイリスを抱き留めるのと、空から異様に大きな羽ばたきの音が聞こえたのが同時だった。イリスを除いた全員が空を見上げる。
「に…逃げろ! 逃げろおおおおおお!!」
「竜だああああ」
絶叫する男たちの前に一匹の竜が降り立った。真っ赤な瞳孔に睨まれた男たちが慌てて馬首をめぐらせる。だが竜が大きく息を吸い込みゴゴウ、と火を噴くまで、男たちはその場を一歩も進むことは出来なかった。続いて響く絶叫―――。
あっけにとられて動けないシシィの手綱をアルスが横から掴み、引いて走り出した。シシィは慌ててリヒトとイリスを抱く腕に力をこめる。イリスの胸のあたり、不思議な感触の球体に指先が触れた。――竜玉だ、と気づいたシシィの手のひらの内側で、それはどくん、どくんと律動を続けている。とまれ、とまれ、と念じながらシシィは竜玉を手のひらで押さえつけた。イリスは暴れ続け、シシィはほとんど抱え込むように両手でイリスを抱きしめた。ピシピシと小枝が額や腕にあたる。手綱はアルスに任せたままである。馬達もおびえたように全速力で駆けた。
二人は馬が限界を迎えて膝を折るまで逃げ続け、息を切らし滝のような汗を流している馬を下りて振り返った。遠くで白い煙が筋になって空に立ち上っている。
「山火事になるかしらね」
はあはあと息をつきながらシシィはつぶやく。そんな場合じゃないだろ、と言いたげな顔でアルスはシシィを振り返った。イリスはぐったりとシシィの腕に体を預けていた。髪はすっかり元に戻っている。
「助けてくれる? 腕が限界」
シシィの言葉にあわてたように近づいてきて、アルスはイリスを抱き取った。イリスは青い顔をして目を瞑っていた。
「馬を少し休ませて……先を急ぎましょう」
アルスは頷いて、藪に分け入ってちょうどよい空間を見つけると、イリス草の上に寝かせた。シシィはリヒトを抱いたままぐったりと横に座り込む。そしてようやく、イリスを抑えるのに必死でリヒトに全く気が回っていなかったことに気がついた。だが、今回の騒ぎの主犯とも言えるリヒトは穏やかな寝息を立てて眠っている。
「呆れた。なんて子なの」
シシィに苦笑いを返すと「水の音が近くに聞こえる。馬に飲ませたらすぐに戻るよ」と、アルスは二頭の馬を引いて水場を探しに藪の中へと消えた。
先程見たもの、起こったことについてシシィは落ち着きを取り戻して考えていた。
イリスが竜を呼んだのだ。おそらく恐怖によって。あの複数の男たちがイリスの恐怖を煽ったのだ。イリスの暴走についてはゼノから聞かされていたが、本当に竜が現れるとはシシィは横たわるイリスの髪をなでる。リヒトは竜を見て声をあげたのだ。
シシィは手のひらを見つめる。どくん、どくん、とそこだけ別の生き物のように脈打つ竜玉をシシィは自らの手のひらに直接感じた。共振、という言葉が浮かぶ。共鳴、というのが正しいかもしれない。イリスの怒りの振るえをたまたま近くにいた竜が受け取ったのだろう。
ならば、浮かんだイメージの中の何頭もの竜は……シシィは革の水筒から水を一口飲む。連鎖、だろう。イリスに共鳴した竜の共鳴が他の竜を呼び、その竜がまた……ぶるっとシシィは震えた。助かったのは奇跡に思えた。あれが数頭だったら助からなかっただろう。
では何故今回は一頭だけだったのか? 暴走したイリスの竜玉の動きをシシィの手のひらが抑え込む形になっていたことで理由がつくのだろうか。それともイリスの怒りの大きさに関係があるのか。シシィが思考の波を漂っているとイリスがもそもそと動いて顔を上げて辺りを見回した。
「……アルス……は?」
ぼんやりと呟いてからはっと大きく目を見開いた。イリスは自分の暴走について記憶はないが理解をしていた。ゼノが隠さずに教えたのだ。自分はアルスを傷つけたかもしれない、という恐怖が顔に貼りついている。
「怪我ひとつないよ。馬のために水場を探しにいってる」
シシィは微笑む。ほっとした様子でイリスは、そう、と呟いた。
「……怖いおじさんたちは?」
「イリスがあんまり怖い顔をするから逃げてった」
「やだ!」
イリスは手で顔を覆う。すっと指に隙間が開き、青い瞳がシシィの顔色をうかがった。
「シシィも怖かった?」
「ぜんっぜん。知ってるでしょ? シシィはゼノより強いのよ?」
顔を隠していた手を口に当てると、うふふふ、知ってる、とイリスは笑う。
「イリスね、お姫さまもいいけど占い師にもなりたいの。強くて格好いいでしょう?」
おいで、とシシィはイリスを引き寄せた。ほっとしたように力が抜けるイリスをぎゅうと抱きしめる。少しでも怖がったことが伝わってしまったのだろうか。自分が一番向けられたくなかった――変わったものを恐れる目――でこの子を見てしまったのだろうか。
「イリスはお姫さまの方が似合うよ」
「そうかな」
「そうよ」
「じゃあやっぱりお姫様にする」
顔を上げたイリスがニッと笑う。この子が誰だろうと何だろうと、きっと守ってみせる。シシィは笑顔で頷いた。