少女の宿命 6
ゼノは草を食んでいる騎兵の馬を一頭、男の元に引いて行った。男はひどく衰弱している様子だったが、目はに強い意思を宿している。
「乗れるかね? ここから少し離れよう」
「すまない。本当に助かりました」
男はゼノに向かってしっかりと頭を下げたが、ふらつきながらやっとのことで馬に乗った。しかし乗ってしまえば、歴戦の騎士のようにしっかりと馬を制御する。
「いや、余計なお世話をした。追われていたようだったが?」
「はい……」
語れない内容なのだろう、男はもごもごと口ごもった。あたりを見渡してシシィとフィデリオに気が付く。警戒した男にゼノが片手を上げて微笑む。
「私の連れだ。心配ない」
男はふうっと息をついて小さく頷いた。
「名前は?」
と問いかけながらシシィが男の目を覗き込む。男は少しの間、逡巡したのち、アルスといいます、と、はっきりとした声で告げた。よく見ればアルスは思った以上に若い青年だった。おそらく二十歳をそんなに越えてはいまい。
「そう。あたしはシシィ。これはフィデリオとイリス。それがゼノ」
シシィは口にかかっていた布を外し、屈託のない笑顔をアルスにむけて言った。
「で、あんたの力になる」
アルスの瞳が見開かれる。しかし、静かに俯いて首を振った。
「これ以上は、本当に迷惑をかけてしまいますから。助けていただいたこと、感謝しています」
アルスは深々と頭を下げた。シシィは値踏みをするような目でアルスを見つめている。
「そう。じゃあ子供をよこしなさい」
打って変わってきつくなったシシィの声にアルスがハッとして顔を上げる。シシィの手の平がアルスに向かって差し出された。
「助けを拒んだあんたが死ぬのは勝手。でも子供は違う。ほら、寄越して」
シシィは更に手を伸ばす。
「……何故、追われている訳も話さない私を助けようと思えるのです?」
男は困惑した顔で問いかける。
「子供を死なせたくないのはあたしの勝手。それにあんたは嘘をついてないしね」
シシィはフードを少し上げて瞳を見せる。男は納得したように頷いた。緋の一族の存在をしっているということは、ある程度の身分のものに違いない、そんな身分の男が子供を抱いてやつれ果てるほ逃げる理由とはなんだというのか。ゼノは黙って成り行きをみつめる。アルスは少し迷ってからまっすぐシシィの目を見返した。
「助けていただけますか?」
「はじめからそのつもり」
シシィが微笑むとマントの下から、もそもそとイリスが顔を出した。
「赤ちゃん!? それ赤ちゃんでしょう!?」
イリスの目が見開かれ、頬がピンク色に輝く。
「イリス、起きてしまいますよ」
フィデリオは困ったような顔を作った。既にいつもの美しいフィデリオである。イリスが慌てて口をふさぐのを見てやんわりと微笑む。そして問いかけるようなシシィの視線を受けて頷いた。
「三手に別れましょう。シシィ、イリス、アルスは川を渡って東に。ティレンの隠れ家に移動しましょう。大陸公道は通らないで。出来ればアヘルデ領側を通って行ってくださいね」
シシィとアルスが頷く。
「私は一旦グロセンハングへ戻って必要な片づけを済ませてから、大陸街道を通ってティレンに向かいます。リステルで落ち合いましょう。十日待っても落ち合えなかったら、先にティレンに向かってください」
シシィはしっかりと頷く。アルスはリステルがどこだかわからない様子だったが、フィデリオはかまわずゼノに向き直って続ける。
「ゼノは街道を目立つように西へ。人形でも抱いてるといいですね。マントをアルスと交換してください。ああ、途中で馬は変えてくださいね」
ゼノに囮になれと言っているのだ。あなたなら逃げ切れるでしょう、という言外にある信頼に向けてもゼノはしっかりと頷いた。
「お人形?」
小声で尋ねるイリスの頭をシシィが撫でる。ゼノは次に会うときはイリスに人形を買ってやろうと思いながら、マントと帽子をアルスに手渡す。アルスは囮であることに気がついたのだろう、一瞬躊躇った顔をしたが、さきほどのゼノの剣技を思い出したのか、黙ってマントを受取り、自分のマントをゼノに手渡した。ゼノはフィデリオを見て肩をすくめる。
「……全く、こう成長されると老人の出番がないな」
「普段からシシィの無理難題を聞き続けさせていただいてますから」
フィデリオはゼノに誇らしげな笑顔を向けた。それは普段は感情があまり表情に出ないこの男には珍しい事である。ゼノは、満足げに頷いた。
「無駄話してる時間はないみたい」
シシィはおどけたようにフィデリオを睨むと、グロセンハングの方向を眺めて言った。ゼノは無言で頷くと馬を返す。
「大丈夫。ゼノは世界一強いの。殺せるとしたら竜くらいなものよ。私たちも行きましょう」
シシィはアルスに向かって言うと、アルスがやってきた方向に馬を進めた。アルスは頷いてそれに従い、フィデリオはグロセンハングへと取って返す。
ゼノは赤ん坊に見立てた布袋をマントの下に抱えると、グロセンハングを避け、道無き草原を北西に大陸公道へと向かった。
◆
「ご老人」
通報を聞いて、グロセンハングから馬を飛ばしてきた数十人の兵士の一人が道を歩く白髪の老人に声を掛ける。
「なんでえごぜえますでしょうか」
強いベルクフ訛の入ったかすれ声で老人は答えた。
「子供を抱いた男、もしくはつばの広い中折れ帽を被った男を見なかったか」
「さあて……見かけませなんだが」
老人はゆっくりとした動作でちらりと左を見やる。兵士はその目の動きを見逃さなかった。
「あそこです!」
兵士は上官を振り返り、小さくなる馬影を指差して叫んだ。
「よし、一班はこのまま追う。二班は大陸公道の要所に先回りしろ。三班は王都に向かえ。渡しも確認せよ、四班は怪我人を頼む」
は! という声が上がると隊列は三手に分かれて駆けていく。二班と呼ばれた兵士たちが立てた土煙がおさまるのを待って、老人はグロセンハングへゆっくりと馬の歩を進めた。
◆
「平気?」
シシィはアルスを振り返り声をかけた。イリスはアルスが抱いている子供が気になって仕方が無いようすで首を伸ばしている。肝心の子供は余程肝が太いのか、この騒ぎにも動じることなくすやすやと眠っている。
「はい」
アルスは答えたが、目には疲労の色が隠せなかった。目立たぬ速度に馬の足を速めて南へと向かう。やがてシシィが小道を左に折れると船着場が見えてきた。運のいいことに船はこちら側に留まっており、船頭は退屈したようにキラキラと輝く川面を眺めている。
「頼めますか」
馬から降りたシシィが声をかけると、慌てたように船頭の男が振り向いた。
「へい。三人さまに馬二頭だね!」
何か言いかけたイリスの口を押さえると、シシィは馬を引いて船へと乗り込み、馬棒に馬を繋いだ。アルスも同じように続く。客が板に腰掛けるのを見て船頭は舟を出した。
「あなた、そんなに心配しないで。お母様は大丈夫よ」
いつもと全く違う口調で話すシシィをイリスはあんぐりと口を開けて見つめた。シシィは笑ってゆっくりイリスに頷く。船頭にわざと聞かせるためだが、イリスは賢い子だから、わからないことには黙っていてくれるだろう。シシィの意に反してイリスはちいさな唇を開いた。
「うん、お父さん。おばあちゃまは大丈夫だよ」
イリスはアルスの膝に手を乗せて言った。シシィは驚きに目を瞠る。イリスの顔が不安そうに変わるのを見て、慌てて笑顔を作って頷いた。アルスも一瞬驚いた顔をしたが、すぐに芝居だと気づいたのだろう。ゆっくりと頷いた。
「ああ、すまない。心配をかけるね」
アルスは年長に聞こえるように低い声で言うと、ため息をつき黙り込んだ。今は話しかけないでくれ、という風情で帽子を深く被る。
「お父様はおつかれね。あなたも休みなさい」
シシィはイリスの体を自分の膝の上に倒し、顔をマントで包んだ。どうやら不幸が起こりそうな家族に遠慮してか船頭は何も尋ねてこない。舟はあっという間に向こう岸についた。
「ありがとう」
船賃を渡すと、さも急いでいるというように二人は街道へと馬を進めた。
◆
赤ん坊が無賃乗車したことには気づかなかった船頭は、三人の客を降ろすと、長い待ち時間を過ごすためにうってつけの石に腰を下ろした。。はーあ、というため息を着き終わる前に向こう岸で鐘が鳴る。
「はいはいはいはい、今行きますよ……」
向こう岸の客には聞こえないだろう返事をすると、そそくさと船に乗り込み向こう岸へと取って返す。岸を見やると兵士が数人、船着場でイラついたように待っている。面倒に巻き込まれるのはごめんだと思いながら、船頭はわざとゆっくり漕いで岸に近づく。業を煮やしていなくなってくれれば良いのだが。
「ここ数刻以内に誰か渡したか」
兵士は待ちきれずに岸から怒鳴った。
「誰も渡してねえよぉ」
船頭は怒鳴り返しながら船を船着場へと留める。兵士は銅貨をチラリと見せると
「思い出さんかね」
と船頭の目を睨んだ。ああ、そういえば……うーーん……船頭は唸る。
「夫婦と子供を乗せたなあ。だんなの方の母親の具合が悪いとか」
「子供は二歳くらいか?」
「いやあ。四つか五つくらいだな。髪の長い女の子だ」
兵士は疑うような顔で船頭を見ていたが、諦めたように踵を返した。
「そうか、二歳くらいの子供を連れた者が乗ったら、乗せずに騎兵に報告せよ」
「はいはいはい」
背中越しに言う兵士に、調子よく返事をすると、船頭は粗末な小屋の中の椅子代わりの木箱に腰掛けた。ここはパラスト領とはいえ、我ら国王軍になんて態度だ、と船頭に聞こえるように毒づきながら兵士たちは船着場を去っていった。
◆
シシィとアルスはフルース川を挟んでパラスト領の向かい側になるグルント領の宿場町に到着していた。日が暮れるにはまだ早いが、アルスの疲労を考えて早めに宿を取った。大丈夫を繰り返していたアルスだったが、宿に着いて遅い夕食を取ると、夜具に横たわり動かなくなった。
「大丈夫よ、イリス。生きてるから」
ピクリとも動かないアルスの口元に手をかざし、息を確認しているイリスに微笑んでシシィは言った。赤ん坊はシシィに抱かれてじっとしている。肝の太い子だわ、とシシィは泣いてばかりだった自分の赤ん坊を思い出した。涙がこみ上げそうになり、慌てて話題を探す。ふと、気になっていたことを思い出した。
「あ、ねえ、イリス。そういえば、さっき船でお芝居したね? 誰かに習ったの?」
何気ない口調でシシィは尋ねた。
「ええとね、シシィがあなたって言ってね。そんでお母さんがって言って。それでこれはもしものお話だなって思って」
イリスは首をかしげて上目遣いに話す。目はシシィを見ていなかった。
「もしものお話?」
「そう。もしもシシィがお母さんでアルスがお父さんで、おばあちゃんが病気になったらっていうもしものお話。違う?」
空を見ていたイリスは、最後に不安そうにシシィを見つめる。イリスは神経質そうに自分の指を触っている。母親に関する思い出なのだ……イリスは母親を覚えていない。余程のショックなことがあったのだろう。シシィは幼い娘に教え込みながら必死で生きたのだろうイリスの母親を思った。
「大当たり。イリスは賢くて上手だったあ」
シシィはイリスを片手で引き寄せてぎゅっと抱きしめた。うふふ、とくすぐったそうに笑ったイリスが怪訝に思うのではないか、というほど長い間抱きしめて、やっとイリスを離した。
「そのもしものお話、これからちょっとの間、続けられるかな? おばちゃんちはティレン、だよ?」
「出来るよ! イリスは賢くて上手なんだよ」
イリスは得意げに笑う。
「シシィどうしたのー」
また抱きしめたシシィの胸に、イリスは満更ではないという顔をうずめた。