少女の宿命 3
男は森の中を馬に乗って駆けていた。切り立った崖の前で馬から下りて手綱を木の枝に繋ぐ。汗をかき白い湯気をあげている馬の腹をぽんぽんと叩いて、水と飼い葉を与えた。何気なくあたりを見回してから藪を掻き分けて崖に近づく。生い茂る背の高い雑草で外からは見えないが、そこには岩の割れ目がぽっかりと口を開けていた。男は無言でするりと割れ目にを身を滑り込ませた。
ひと月前、燃え落ちた町から少女を助け出した日。男は早く町から離れようと一昼夜馬を走らせ続けた。追っ手がかかることを想定し、太い街道を避け、山道に分け入りこの岩の洞窟を見つけて落ち着いた時、男はもう少女は助からないであろうと思った。傷はない。火傷もない。骨折もしていないようなのに、全身状態がとても悪かったのだ。高熱は下がらず、食べることも出来なかった。意識も混濁しており「まま……まま……」と、時々うわごとのように繰り返すだけであった。
男の献身的な介抱に、ようやく回復の兆しが見えたのは半月を過ぎた頃だったろうか。それからは順調に回復し、このところでは起き上がったり、洞窟の入り口まで歩いたりできるようになっている。
男はランプに火を入れる。つけられぬよう警戒しながら遠くの街に買出しに出たため、明け方に出たのにもう陽が沈み始めている。少女は眠ってしまっていた。その青白い頬を男はじっと見つめる。
竜に破壊しつくされた町でたった一人生き残った竜玉を胸に持つ先祖がえりの少女。恐らくは母の手によって隠されて育てられたのであろう。その少女のいる町が竜に襲われた。
――竜玉を持つものは竜を呼ぶことが出来るのか?
男は若いときに財を成し、今は旅に身を任せる気楽な身の上であった。旅をしていると、裏の世界の出来事や昔話まで、たくさんの情報に出会う。「先祖がえりの中でも竜玉を持ったものは王都の神殿で生贄にしなければならない」という法律と、この国に襲い掛かってきた隣国の兵士をなぎ払ったという竜伝説……繋げて考えるとつじつまが合うように思える。
「おかえりゼノ」
少女は目覚めて微笑んだ。
「ただいま」
男――ゼノはイリスの頭を撫でる。プラチナブロンドの髪に飾られた形のいい頭が嬉しそうにぴょん、と起き上がった。
「おなかがすいたろう」
ゼノは買ってきたクーヘンを火にあぶる。肉や野菜を細かく刻んで小麦を練った生地で包んで蒸してある田舎料理だ。消化にいいだろうと村で買い求めた。程よく温まったところで手渡すと、少女はじれったいほど、ゆっくりと食べ始めた。今回は着替えにと子供用の衣服も買った。少女に捜索が出されているとすれば、同じ町で買い物を繰り返すのは危険である。食料が尽きる前に遠くに移動しなくてはならない、とゼノは思った。自分の分を食べ終わると、まだ半分も食べていないイリスをじっと見つめた。勘のいい子で、大事な話を聞くように首を傾けてゼノを見つめてくる。
「早くままを探さないといけないのだが、イリスはまだ少し具合が悪いだろう? だから、別の安全なところで待っていて欲しいんだ。明日、そこに向かって出発しようと思う」
男はイリスにわかりやすいよう言葉を選ぶ。
「ままってだあれ?」
イリスは不思議そうに首を捻る。男の目がまっすぐイリスの真っ青な目を捉える。自分の心を守ろうとする働きだろうか。イリスは母親のことを全く覚えていないらしかった。
「いいんだ。ゆっくり食べなさい」
こくんと頷くとイリスは再びクーヘンを口に運んだが、何口も食べないうちに
「おかないっぱい」
と食べるのをやめてしまった。この一ヶ月、イリスが口にした食事は五歳児が生きていくにはとても足りているとは思えない量だった。
◆
翌朝、ゼノとイリスは一月を過ごした洞窟をあとにした。イリスを旅行用マントの下に隠して、太い街道を避けて遠回りしながら東へ向かう。先を急ぎたいが、野宿を繰り返したためかイリスの体力は限界に思えた。食料も心もとない。今回は町に下りて食料を買い足し、宿に泊まることにしよう、とゼノは小さな町の方向へと馬首をめぐらせた。町に入り、ゼノは眉をひそめた。小規模な商団が泊まっているらしく混雑していたのだ。人が多いのはまぎれるには良いことだが、商団となるとこちらに不利益な情報を持っている可能性が高い。しかし、ここまで無理をさせたイリスを布団で寝かせてやりたいと思った。
「空き部屋はあるかな」
通りに端に少し離れて建つ宿に入って尋ねる。
「見ての通り! 一杯だよ!」
忙しく客の相手をしていた男はつっけんどんに言い返した。ゼノは袋から銀貨を一枚出して男に握らせる。
「わがままを言ってすまんが、どうにかしてもらえんかね」
男は自分の手を開いて銀貨を確認するとニンマリと笑った。
「布団部屋でいいかい? 食事は出せないから町の料理屋に行ってくれ」
「いいだろう、助かるよ。早めにお湯だけ頼む」
男の案内で布団部屋に入ると、ゼノはさっそく布団を広げてイリスを寝かせた。間もなく先ほどの男がたっぷりと湯を張った桶を持ってきて、ゼノはその手に銅貨を握らせた。イリスの体を清め、洗濯しておいた服に着替えさせる。イリスは緊張したように黙ってされるがままになっていた。
「食べ物を買ってくるから待っていなさい」
立ち上がったゼノのマントの裾をイリスは握る。
「……置いていかないで。あたし歩けるよ」
困ったように見下ろすゼノにイリスはか弱い声で懇願する。
「……お願い。ひとり、こわい」
頷くとゼノはイリスを抱き上げる。まだ夕餉には早いから、料理屋もそう混雑していまい。酔っ払っているものも少ないはずだ。
「食事をしてくる」
宿の者に声をかけると、イリスを抱きかかえたまま街に出た。あまり大きな町ではなく料理屋も数軒しかない。混雑していない店を選んで入るとゼノはイリスを椅子に座らせた。
「何か消化にいいものをくれ」
店の女に声をかけると、イリスに向き直り、斜向かいの商店を指差した。
「イリス、明日の朝に食べるものや何かを買ってくる。あの店だ。ここからも見えるから大丈夫だね?」
イリスはこっくりと頷く。ゼノも頷いてイリスの頭を撫で店を後にした。
「おい、おまえ」
ゼノが立ち去るとすぐ、隣で食事をしていた数人の少年の一人がイリスに声をかけた。
「抱っこされちゃって、赤ちゃんかよ」
商家の子供らしい、質のいい服を着た少年たちはにやにやとイリスを眺めている。親に自由になるお金を持たされたらしく、テーブルの上には脂っこい食事が並んでいた。イリスは返事をせずに俯いてぐっと手を握り締めた。少年たちはその様子を見て更に囃し立てる。
「おまえいくつだよ」
「歩けないのか?」
「なあ、無視するなよ。仲良くしようぜ」
その言葉を聞いたとき、イリスの中心がどくん!と鳴った。反射のように椅子を飛び降り、走りながら少年の喉に向かって大きく口を開く。
ぞぶり
イリスが噛み付いたのは少年の喉ではなく、ゼノの左腕だった。ゼノは左腕とイリスの顔にさっとマントをかけて隠す。異変に気が付いてすぐに戻り、少年とイリスの間に割って入ったのだった。
「お待ちどうさまー」
料理を運んできた女が、何も気が付かずにゼノとイリスのテーブルに鍋と、木の碗と匙を二つ置く。
「すまんが宿で食べたい。鍋は明日返すよ」
ゼノは言うと、テーブルに銀貨を一枚置く。鍋を買っても余る支払いだ。店の女は
「かまいませんよぉ。お持ちください」
と鍋に蓋をして、木の碗と匙を持ちやすいように蓋の上に乗せた。
「どうも」
ゼノは口早に言って、マントの中でイリスを抱える。イリスが噛み付いているままの左手で鍋の取っ手を持つと、何が起こったのかわからずぽかんとする少年たちを後に、ゼノは料理屋を後にして宿へと戻った。布団部屋に戻っても尚、イリスはゼノの腕に噛み付いて離さなかった。目は赤く、瞳孔は縦に伸びて、髪が根元から緑色に変色し始めている。
「イリス」
ゼノはイリスを抱きしめたままその名をやさしく呼ぶ。イリスには何の変化もなく、目を輝かせてギリギリと噛む力を緩めない。
「大丈夫だ、イリス」
とんとん、と背中をさすりながらゆっくりと話しかける。馬具である革の手袋の上から噛まれているのに、手袋の淵から血がぽたりと垂れた。
「そうだ、何かお話をしよう。こないだはザイレ島にいる鳥の話の途中だったな」
頭を背中をゆっくりと撫でながらゼノは語りかける。
「ザイレ島には、こないだ話した蜂のように小さな鳥以外にも、沢山の鳥が居る。その中に人の言葉を話す鳥がいるんだ。とても賢い鳥だが言葉の意味がわかって話してるんじゃあない」
イリスの噛む力が少し弱まる。
「人の真似をするんだ。だから悪い言葉を使う者が飼うと悪い言葉をしゃべる。バカヤロウ、ノロマ、とな」
イリスの髪が徐々に元のプラチナブロンドに戻っていった。パチパチ、と瞬きした目が青さを取り戻してく。
「だが、優しい人に飼われれば、鳥も優しい言葉を話す」
イリスは驚いたような顔をしてゼノの左腕から離れた。更に部屋の隅に逃げようとするのをゼノはそうっと抱きとめる。
「おはよう、ありがとう、いい天気ね、いい子ね、大好きだよ、とな。意味はわかっていなくて言っていても、そんな風に話す鳥は人を幸せな気持ちにするものだ」
「ゼノ」
かすれた声で名を呼ぶと、ゼノの腕の中でイリスはがたがたと震えだした。
「あたし、ゼノの、手を……」
ゼノはイリスを離して座らせると、さっとマントに両腕を隠した。
「さあ、ご飯にしよう」
マントの下から伸ばした左手で鍋の蓋を取る。
「手を見せて、ゼノ……」
イリスは真っ青な顔でゼノの隠れた腕を見つめている。ゼノはマントの下から右腕を出して、手袋を取ってイリスに見せた。
「大丈夫だ、手袋をしていたから」
ほっとしたようにイリスが俯くのを見て、木の碗に粥をよそう。
「先に食べていなさい。明日の朝食をあの店に忘れたから、なくなる前に取ってくるよ」
ゼノは立ち上がって部屋を出た。賑わう食堂を早足で通り過ぎて、店を出て路地裏に入る。そっと左手の手袋を外すと、手袋の中からポタポタと血のしずくが落ちた。腕を見ると、歯形がきっちりと残っており、まだ血が流れていた。手袋がなければ噛み千切られたかもしれない。少女の歯が噛んだ跡とは到底思えなかった。ゼノは腰に巻いていた布を外し、ビリリ、と二つに裂いて腕に巻いた。急いで先ほどの店に戻り、朝食用にブロトーと鳥の香草焼きを買う。帰る途中に手袋を買おうと雑貨店に入ったゼノは、ふと目に留まった、青い色の石の付いた首飾りを手に取った。
「お兄さん、彼女にプレゼントするなら、もっといいのを買わなくちゃ!」
「娘だよ」
ゼノは商売熱心な店の男に、何気なく答えてしまった自分に驚いた。娘というよりは孫に近いだろう、と苦笑する。手袋と首飾りを買って店を出た。部屋に戻ると、イリスは粥を食べずに待っていた。
「手袋……ごめんなさい」
イリスはすぐに新しくなった手袋に気がつく。
「古くなって替え時だったからいいんだ。これはイリスに」
ゼノは小さな石のついた首飾りを手渡す。イリスの目がぱっと輝いた。
「きれい!」
「イリスの瞳の色だ。つけてあげよう」
ゼノは手袋をした手で器用に首飾りを結んだ。青白い頬が紅潮しているイリスは首飾りから目を離さなかった。
「お姫様みたい?」
「ああ、よく似合っている」
ゼノは微笑みながら、冷たくなった碗の粥を鍋に戻して暖かいところをよそいなおす。
「沢山食べたら早くお姉さんになるかなあ」
イリスは碗を受け取りながら言う。この日イリスはいつもより沢山食べて眠りに着いた。あどけない寝顔を見ながら、はて、どうしたものか、とゼノは呟いた。