少女の宿命 1
*出産シーンがあります。かなりリアルで怖いので苦手な方はご遠慮ください。
「おや、エマだいぶおりて来たね」
ふっくらとした老婦人に笑顔を向けられたエマは、ええ、と言いながらここ数日で、ぐっと下がった大きなお腹を擦った。老婦人は目を細めて丸く膨らんだエマの腹を見つめてから少し眉を寄せ、心配そうにエマの目を覗き込む。
「何かあったら早めに声をかけるんだよ? フランツがあんなことになってしまって……あたしらみんな、家族みたいなもんなんだからね」
「ありがとう。そのときはお願いするわ」
エマはしっかりと頷いた。エマの夫であるフランツが亡くなってから半年になる。商団の護衛をしていた夫は妻の懐妊さえ知らずに盗賊に襲われ帰らぬ人になった。
昨年の不作のせいで北の地では盗賊が増え、その凶暴性が増していた。今回の旅が終わればそれなりの蓄えが出来る、護衛はやめて賃金は安くても街の工場で働く、と約束して出て行った夫は一束の髪の毛だけになって帰ってきたのだ。
護衛になるという夫に、生まれ故郷の田舎を捨て、商業都市グロセンハングまでついてきて三年。一年の半分も家に居ない夫と、グロセンハングの中心街から少し離れたのどかな集落から更に森へと進んだ小さな借家がエマの生活の全てだった。しかし、明るくて人好きのするエマにとって三年という月日は、集落の人々と家族のような関係を築くには十分な時間だった。最後の護衛代は多めに支払われたから、内職などをして慎ましく暮らせばしばらく生活費には困らないだろう。愛した男の子供を一人でも生んで育ててみせる、とエマは当たり前のように思った。
「気をつけて帰りなさいね」
「ええ」
老婦人と別れ、森の小道をゆっくりと辿って家に戻る。一息ついて遅い夕飯を終えた後にそれは始まった。下腹から響いたガリッという音と僅かな違和感のあと、確認してみると少しの出血があった。不安に思いながら寝床に横になり、じっとしていると下腹に鈍い痛みが訪れた。実家の母が産婆をしていたのでエマは出産には詳しい。陣痛が始まったのだと気づいたが「初産だから出産までにはまだまだ時間がかかるだろう、夜更けに訪ねては迷惑だから明日の朝早くに知らせに行こう」と考えた。
ところが、夜中を過ぎる頃には定期的な痛みは五分おきになった。焼いた鉄の串を背中から差し込まれる様な痛みで、離れた隣家まではとても歩くことができない状態になってしまった。
母を手伝ってお産の介助をした事が何度もある。手順はわかっているから大丈夫。一人で生むしかない、とエマは休み休み大量の湯を沸かし、シーツを集めてそのときに備えた。
「う……」
痛みの間隔はさらに短くなる。声を出したら混乱してしまいそうで、ぐっと堪えた。だが息を止めてはいけない、必死で息を吸いながら痛みをやり過ごす。痛みの合間に自分の指で子宮口を確認する。そこはいついきんでもいいくらいに開き、赤ん坊の頭に触れた。
「は、は、は、うぅぅぅぅ」
波のように押し寄せる痛みにあわせていきむ。
「は、は、は、は、は、うぅぅぅぅ」
疲れで痛みと痛みの間に気を失いそうになるが、有無を言わさず次の波が来る。
何度も何度もいきむが、もうそこまで下りてきている感覚の赤ん坊はなかなか出てきてはくれなかった。うまく回転できていないのかもしれない。だが強い痛みに自分では確認することができない。外は白み始め体力は限界だった。
「は、は、は、は、あああああああ!」
もう無理―――お願い、出てきて―――
慢心の力を込めた時、ぬるりとした感覚があり、痛みが嘘のように引いていった。エマはベッドに倒れこみ荒い息をついた。気が緩み、眠気に襲われて目を閉じそうになって、ハッと目を見開く。
―――泣かない!?
疲れて痺れた腕で必死に起き上がり胸の上に赤ん坊を抱き寄せ、鼻と口を吸う。
「おぎゃああああああ、あああああ」
赤ん坊はけたたましい声で泣き出した。
「よかった……フランツ……」
泣いている赤ん坊を抱きしめてエマは泣いた。こうしている場合ではない、と疲れた体に鞭を打って、沸かしていたお湯をたらいに入れ赤ん坊を洗おうと抱き上げる。たらい近くに置いた明かりに近づいた時、エマは驚きで生まれたばかりの赤ん坊を取り落としそうになった。
「先祖返り……まさか、そんな」
赤ん坊の胎脂にまみれた胸には竜玉と呼ばれる白い膜に包まれたような盛り上がりがあった。慌てて背中を触ると、ざわりという人の肌ではない感触。恐る恐る見ると、赤ん坊の背中の真ん中辺りから尾てい骨にかけては緑色の竜鱗で覆われていた。
「そんな! 私たちの子供が……」
泣き喚いている赤ん坊を抱いて、放心したようにその場に座り込んだ。
エマは母の仕事を手伝っている時に一度だけ、先祖返りと呼ばれる竜鱗を持つ赤ん坊の出産に立ち会ったことがあった。喜びで溢れるはずの空間が、悲鳴と怒号と涙に埋もれていったあの光景がはっきりと脳裏によみがえる。
「残念だけど、この子は先祖返りだ。竜玉がないからここで神に捧げるしかない」
泣きながら縋り付く母親から引き離され、赤ん坊は村の祭壇に運ばれた。そして生まれて数刻も経たぬうちに実の父親の手によって神に捧げられた―――
バルト国は一つの宗教で統一されている。竜を神と祭るその教えでは、竜神は自分の鱗から竜を作り、その竜の竜玉から人を作ったとされている。時々、体に竜の名残を残して生まれてくる子供がおり、その子供らは先祖返りと呼ばれていた。
先祖返りとして生まれた子供のうち、胸に竜玉がないものは村の祭壇で赤ん坊の父系の男子の手によって神に捧げ、そして竜玉のある子供は王都のあるハウシュタットの神殿へと運ばれ、大神官の手によって神に捧げることが絶対の掟となっている。
子供を竜神に捧げれば、竜神は国の危機に現れて国を助けるとされているからで、事実、建国以来に数度訪れた他国からの侵略軍をどこからともなく現れた竜が追い返したという歴史がある。
ただし、子供を捧げなかった時にはその町は竜神の怒りにふれ、竜によって滅ぼされると言い伝えられており、こちらも実際に竜に襲われて絶滅した村が存在するとされている。
「この子は神殿で……」
エマは弱々しい泣き声をあげる赤ん坊を見つめた。生まれたばかりで天に還る哀れな赤ん坊。せめてその時までは……エマは赤ん坊をきれいに洗い、準備してあった服を着せた。泣き止まない赤ん坊にそっと乳首を含ませる。
まだうまく出ない乳にうまく吸えない赤ん坊。それでも赤ん坊は懸命に吸い付き、それに反応したエマの乳房にじわりと血が集まった。
いくらか飲めたのだろうか、赤ん坊は安心したように眠りにつき、エマは眠る赤ん坊をじっと見つめていた。再び弱い痛みが起こり、胎盤が出る。よろよろと立ち上がり汚れたシーツをたらいのお湯で洗っているうち、エマの瞳に少しづつ力が戻ってきた。
「あの子を、殺させたりしない」
言葉は決意となる。全ての始末を終え、赤ん坊の隣でぐったりと横になり、エマはつぶやいた。
「絶対にあなたを殺させたりしないわ」
エマはそっと赤ん坊を抱き寄せる。
―――絶対に守ってみせる
集落に行くのは買い物の為に週に一度。予定日まではまだ半月以上あったのだから、一週間は誰も気が付かないだろう。その間に体力を戻さなくてはいけない。この家を引き払い、誰も知らない土地でこの子の存在を隠し切って育てるのだ。朝の光が差し込む中、エマは眠りに落ちた。
エマの出産から十日後。
予定日にはまだ早いが、買い物に出てこないエマを心配した老婦人が家を訪ねると、家はきれいに片付けられエマの姿も赤ん坊の姿もどこにもなかった。
◆
「まま!」
エマが家に戻ると小さな娘が駆け寄ってきた。たった一人で出産してから五年の月日が経っていた。人には言えないような仕事もした。娘を人目から隠して必死に生きてきた。生活が安定した頃に子供が居ることに気がつかれ、夜逃げ同然に逃げ出した夜が何度もあった。
「ただいま」
微笑みながら娘を腕の中に抱きとめる。
この子は友達も作れないし、年頃になっても恋も結婚も出来ないだろう。エマはそっと娘の汗ばんだ前髪を撫でる。細い金色の髪はこんなにも美しく、大きな目は夏空のように青く輝いているのに。暗い部屋で息を殺して生きていかなくてはならない。
――私が死んだらこの子は
自分のしたことが、娘のためではなく自分の勝手だったのではないかという思いに苛まれた。それでも、この子は私の宝だ。この子の居ない世界など考えることも出来ない。
「おなかすいたね、お夕飯にしようね」
エマは灰に埋もれていた炭を取り出し、新しい炭を置いた上にのせる。朝の間に仕込んでおいた根菜の煮込みの入った鍋を鉄製の鍋置きの上に乗せて温めはじめた。鍋の蓋の上に、これも朝に焼いておいたブロトーを二つのせる。
「お話してえ」
温まるまで、と椅子に座ったエマの膝の上に娘がよじ登ってくる。エマは手を貸して膝の上に抱き上げた。
「いいわよ。イリスはどんな話が聞きたいかな?」
「お姫様のお話!」
むかしむかし、と話始めたエマは何か聞こえたような気がして言葉を止める。
「まま?」
「しっ」
不思議そうに見上げる娘に向かって人差し指を立てる。二人で決めた喋っても動いてもはいけませんの合図だった。
……あのやろう……今度会ったら……
……ぶっ殺してやる、ちくしょう……
数人の男の声だった。数年前から続いている不作の影響で大陸公道より南の町でも治安はかなり悪い。エマは身を硬くして、エマを抱きしめた。
……おい、明かりだ……
……助かったな、何人いるかな……
……何人でもおんなじだ……
ひゃひゃひゃ、という笑い声にびくり、と身を震わせたエマはそれでも気丈に立ち上がり、ほとんど何もない家の水桶の後ろにある小麦の空袋の中にイリスを入れた。人が訪ねてくると必ずそこに入っていたので素直に従ったイリスは差し指を立てるエマに不安そうにこっくり頷いた。
コンコン―――
扉を叩く音が響いた。