少年の運命 1
人生初長編です。
順次、お直し中ですが、未だ誤字・脱字が散見し、読みづらいかと思います。
ご了承ください。
昔、竜と人は同じ生き物だった。
南に住んでいたその生き物は、言葉と知恵と手に入れた。
かわりに大きな体を失い、長い命を失い、人になった。
北に住むその生き物は、大きな体と長い命を手に入れた。
かわりに言葉を失い、知恵を失い、竜になった。
人は瞬く間に増えていった。
あらゆる命を食べつくした。
人は竜を殺し始めた。
竜も人を殺し始めた。
人は人を殺し始めた。
<ベルクフの民歌 現代意訳>
◆
ぽつ……ぽつ…… ぽつ…… ぽつ…… ぽつ……
永遠かと思われるような時間。一定の間隔で響いていたその音は、だんだんとその間隔を伸ばし、やがて止まった。
粗末な小屋の床下に掘られた穴の中で、土の壁に背中を預けて座っていた少年が、ゆっくりと顔を上げた。穴の中はむせ返るような血の匂いで満ちている。少年の真っ黒な髪も服も泥で汚れていた。少年の目は斜めにわずかに差し込む光を捕らえたが、何も映っていないように表情は変わらなかった。
少年は頭を壁に預けて、抱えていた膝をゆっくりと伸ばした。べちゃ、とブーツが底に溜まった水を撥ねる。
―――このまま、死んでしまおうか
ずるずると穴の底に横たわると、血の匂いが一層濃くなった。
どうしてあの時に動けなかった、と少年は思う。今、こうして無駄に死を選ぶのならば、父とともに戦って死ぬべきだったのだ。
―――臆病者だ
ぽつ、ぽつ、ぽつ、と水滴が落ちる音がまた聞こえ始める。外では雨が降り始めたようだ。瞬きもせず横たわっている少年の耳に、雨の音とともに人の声が届いた。
―――さっきの男たちが戻ってきた
少年は横たわったまま身を硬くした。這い出しておけば、傷の一つでも与えられたかもしれないのに、と唇を噛む。今、出て行けば、頭を出した途端に虫のように捕まえられてしまうだろう。少年は暗い土壁を見つめて浅く息を吐いた。
床下で息を潜めている少年には気づかず、男たちは急に降り出した雨に悪態をつき、どかどかと小屋に入ってきた。
◆
数刻前、少年は父の帰りを待ちながらブロトーを焼いていた。ブロトーは麦の粉に塩を加え、水で練って焼いた簡単な食べ物で、この地方の一般的な主食である。少年は慣れた手つきで、石を組んだだけの粗末な竈の上のブロトーをひっくり返した。
父が水鳥を獲って来たら、ヤム芋とディルと一緒に煮よう、と考えた。
ディルはどこにでも生えている香草だ。臭みを消して風味を増してくれるので料理には欠かせない。ありがたいことに血止めの効果もある。
小屋周辺に山ほど自生しているロットの葉で巻いて焼くのもいい。ロットの葉は皿としても使うため、さっき大きいものを何枚も取ってきたばかりだ。
父と二人きりでの山で過ごす生活は、少年が物心がついたときから何一つ変わらず、外の世界を少年は知らない。そのことに不満を感じた事もなかった。少年は黙々と準備を進めていた。
ふと、物音に顔を上げた少年は、草むらが揺れているのに気が付いた。父なら帰ってくるのに音を立てたり、葉を揺らしたりしない、と身構える。が、草むらから出てきたのは父だった。
少年と同じに黒い髪は、伸び放題で肩に届いていたし、頬は無精ひげで覆われ、汚れている。しかし、やはり少年と同じに黒い瞳には、深い知性が感じられる顔立ちだった。
「リヒト、穴に入れ」
ほっとして「おかえりなさい」を言いかけたリヒト少年に、父の緊張した声が低く響いた。リヒトはこんなに取り乱した父を見たのは初めてだった。
「急げ」
床板を持ちあげる父に促されるまま、隠し穴に降りる。父は慌てた様子で竈の火に水をかけると、半焼けのブロトーを放り込んだ麻袋を穴に投げ入れた。
父がいつも身につけて、決して手放さなかった袋だ、とリヒトはしっかりと受け止める。
かねてから準備してあった布を穴の上にかぶせるとき、父は一瞬迷うようにリヒトを見つめた。しかしすぐに険しい表情で布をかけ、その上に草をかぶせる。何も見えなくなった少年に、床板を打ちつける音が響いた。
「おとうさん」
心細さから思わず父を呼んだ。穴に入ったら物音がしなくなるまで、決して声を出してはいけない、と厳しく言い聞かせられていたので、叱責の声が聞こえるかと口を押さえて首をすくめる。
「もう声を出してはいけません。物音がしなくなって動物の気配がしだしたらゆっくりと音を立てずに出てください。一日歩けるところまで歩いたら、安全な場所を探して袋を開けてください。決して人に見せてはいけません」
思いがけなく父は答えてくれた。だが、普段とは全く違う口調に、少年は不安で手が痺れるのを感じた。
「……あなたは俺の誇りです」
一瞬、躊躇うように息を呑んだあと、強い声で父はそう告げた。いよいよ普通ではない、怯えるリヒト少年の耳に鞘走りの音が聞こえ、小屋から走り去る靴音が続いた。
◆
「いたぞ」
「あそこだ」
馬上の黒頭巾の男たちは気色ばんで叫んだ。八年、である。八年もの間、探し続けていた男が目の前にいる。粗末な服を着ているが、庶民には一生かかっても手に入らないような剣を携えている。男は必死に山肌を逃げているが、足元がおぼつかない様子であった。
「待て」
追いすがろうとする仲間を、頭一つ小さい男が制止する。納得できない、という様子で振り返る男たちに一瞥もせず
「イヌル、この辺を調べろ。残りは一緒に来い」
と、感情のまったくこもらない声で隣に立つ細身の男に指示を出した。一瞬で理解をしたイヌルと呼ばれた男が、すぐに馬を降りて山肌を登り始めた。残りはまっすぐに男を追う。野党の類ではない、統率された動きだった。追っ手が二手に別れたと見ると、男は逃げることをやめて剣を構えた。
「ツヴァイ……見逃してくれないか」
隙のない構えのままで言う男の額に、ツヴァイ、と呼ばれた小さな男は音も立てず小刀を投げた。キン! と金属音が響き、小刀は男の足元に落ちた。
「残念だ、アルス」
ツヴァイは、男に向かって本当に残念そうに呟く。
「かかれ」
だが、地の利はリヒトの父、アルスにあった。太い木の枝が交差した小道では四人一斉には切りかかれない。アルスは右から振り下ろされた一撃を踏み込んで交わすと、その勢いで左の一際大きい黒頭巾の男に下から切り上げた。致命傷ではないが斬られてのけぞった大男が、次に飛んできた掌底に突かれて為すすべなく泥道に転がる。一瞬の間もなく、反動で体勢を変えたアルスの刀が、最初に切りかかってきた男の喉を水平に掻き切った。
鮮血が噴き上がり、切られた男は糸の切れた人形のようにゆっくりと倒れる。こちらはおそらく助からないだろう。
「演技に騙されるな。衰えていないぞ」
ツヴァイは言いながら、アルスに向けて短剣を小さく振る。だが、アルスの返す刀で軽く弾かれた。休む間もなく別の男が大刀を振り下ろすが、アルスは両手で剣を持ち直し、勢いを殺しながら受けとめる。男が力を込めて抑えこむも、アルスは徐々に体を捻って大刀の下から逃れはじめる。もう逃げられる、大刀の男が思った瞬間、アルスは驚いたように下を見た。釣られて男も下を向く。
アルスの横腹に長剣が刺さっている。その剣は大刀を構えた男の腹から出ていた。ツヴァイが先に転がされた男の長剣を拾い、大刀の男ごと刺し貫いたのだった。
「ツヴァイ?」
不思議そうに問いかけながら振り返ると、大刀を取り落とし、男はぐるんと白目を向いて倒れた。同時に、アルスの腹は刺さった剣に横に裂かれる。アルスは呻いて片手で腹を押さえながらも、剣を振り上げる。
ゆっくり振り下ろされる剣をうるさそうによけて、ツヴァイはアルスの腕に切りつけた。がらん、とアルスの手から剣が落ち、やがてゆっくりと膝をついた。
「ツヴァイ、お前……いや」
先ほどアルスに斬られて転がされていた長剣の持ち主が、立ち上がりながら言いかけ、振り返ったツヴァイの視線から目を逸らした。
倒れた際に頭巾が外れたらしく、顕わになったごつごつとして無骨さが滲み出ている顔を歪ませる。事切れている仲間の男の腹から自分の長剣を引き抜き、鞘に納める。重たい沈黙が流れた。
「二人もやられたのか」
先刻、イヌル、と呼ばれた細身の男が戻ってきて、細い目を見開き、驚きを含んだ声で尋ねた。既に頭巾は外している。
「で、何か見つかったのか、イヌル」
ツヴァイは倒れた二人の男のことは気にもしない様子でイヌルに問いかけた。
「あ、ああ。向こうに小屋がある。小屋といっても丸太を組んだだけだが」
ツヴァイはも頭巾を外し、つりあがった三白眼を細めて、イヌルの指した小屋の方向を見やった。
「よし、いこう。ゼクス、アルスを連れてこい。油断するなよ」
振り返らずに、長剣の持ち主、ゼクスに命令する
「ツヴァイ、二人はどうする?」
「身分がわれそうなものだけ処分しろ」
追いかけるようなゼクスの質問に「死者は捨て置け」とばかりに面倒そうに言い捨てると、ツヴァイは顎でイヌルを促して小屋に向かった。
◆
床下の穴の中で蹲るリヒトの耳に、足音が響いた。ガサガサと家捜しするような音が聞こえたかと思うと、また走り去った。恐らく父ではない。そして、好意的な人間でもないだろう。リヒトは暗闇の中から見えない外をじっと見つめる。這い出そうか、そう思い始めた時に今度は複数人の足音が聞こえ、リヒトは再び息を殺した。
「兵長がこんな暮らしを」
小屋に入ってきた男がつぶやく。兵長……リヒトは耳を傾ける。盗賊ではないのだろうか。二人の暮らしている狭い小屋の中には、ほとんど何もない。塩などの入った瓶がいくつかと香草の入った袋がいくつか、本が数冊だけだ。
「……ツヴァイ」
「なんでもない。探すぞイヌル」
別の心配そうな声が聞こえると、ツヴァイと呼ばれた声が厳しく命令した。瓶が割れ、布が裂かれる音がしばらくの間続いた。ツヴァイとイヌルは徹底的に小屋を調べているらしい。屋根に敷いてあったチュロの葉の間を突いているような音も聞こえた。
「連れてきた」
「入れろ」
やがてまた足音が響く。今度は怪我人のようだ。引きづられている。そう思った瞬間、衝撃で小屋全体が揺れ、リヒトは息を呑む。怪我人を乱暴に床に放りだしたのだろう。まさか、父が怪我を?……リヒトは何も見えない床板の隙間を凝視する。
「アルス、小僧はどこだ」
冷たいツヴァイの声が響いたあとに長い沈黙が流れた。静まり返った空間に、ざく、という剣を肉に突き立てる音が鳴って、リヒトは恐怖に首をすくめた。アルス? 父の名はベンノだ。どうやら連れて来られたのは父ではないようだ。じゃあ一体誰なんだろう。必死で見上げるリヒトの顔にパラパラと砂粒が落ちる。
「ぐずぐずと逃げて追わせたところを見ると、この辺りにいるんだろう」
ツヴァイの苛々とした声が終わると、ぐちゃぐちゃと肉を抉る音が続く。だがアルスとやらは、うめき声すらあげない。もう死んでいるのではないだろうか、刺されているが父だったらどうしよう……リヒトは不安に震えながら自分の肩を抱いた。ツヴァイが探している小僧とは自分の事ではないのか。
「アルス、お前はもう助からない。こんなところでは子供は三日と生きられないぞ? 悪いようにはしない。子供の名前を呼べ」
それでも、アルスは一言も発さない。続く肉を斬る音に、たまらずリヒトは耳を塞ぎしゃがみこんだ。
「ツヴァイ」
ツヴァイを呼ぶ声がして、パラパラと本をめくる音が響いた。リヒトが文字を覚えるために父が買ってくれた本だ。裏表紙にはリヒトの名前が書いてある。
「リヒト、出て来たらアルスを助けてやる。お前も殺さないと約束すっ」
リヒトはツヴァイに名を呼ばれて思わず立ち上がった。やはり自分の事なのだ。自分が行かないとアルスとやらが殺されてしまう。そのとき、再び何かが倒れる音が響いた。
「ツヴァイ!」
「まだこんな力が残っていたのか……もういい、殺す」
イヌルの叫び声と忌々しそうに呟くツヴァイの声が続く。リヒトがアルスを助けるため声を上げようと口を開く。
「リヒト! 言われた事を守れ!」
掠れた声で力の限りに叫ぶ声がそれを止めた。おとうさん! 思わず叫びそうになる口をリヒトは必死で押さえる。
「リヒト! 逃げろ! 逃げて生きろ!」
言われた事を守る、お父さんに言われた事を守る、リヒトは叫びだしたい気持ちを堪えて、両手で口を抑えたまましゃがみこんだ。その耳に、肉を立つ音が届く。
―――何度も、何度も、何度も。
やがて、ごぼごぼと血を吐く音が響き、最後に大きく一つ息を吐く音が聞こえた。
「イヌル、小屋の外を探せ」
何事もなかったかのような声でツヴァイは告げた。足音が一つ、小屋を出て行く。
リヒト少年が息を殺している穴の上の枯れ草にアルスから流れた血が、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と音を立てて落ち始めた。