表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/35

第9話 同じ鍋を囲む夜

最初に口を開いたのは、昨夜槍を持っていた若い男だった。


「俺はやる」

「どうせここで立ってるしかねえなら、やる方がましだ」


続いて、別の男が口を開く。


「俺もだ。柵直すだけで終わるなら、今までと同じだろ」

「だったら今度は、殺せる柵にする」


さらに一人。


「港までの道もなんとかしたい」

「獲ったもん運べなきゃ意味がねえ」


ぽつり、ぽつりと声が上がる。


全員が熱くなっているわけじゃない。

目を輝かせているわけでもない。

だが、顔つきは確かに変わっていた。


もう少しだけやってみるか。

そんな色が、皆の顔に浮かんでいた。


最後に、バルドが俺へ向き直る。


「まだ全部は信用しねえ」


「それでいい」


「だが、やることはやる」


「ああ」


「だからお前もやれよ。侯爵家の坊っちゃん」


俺は頷いた。


「当然だ」


それで話は決まった。

その瞬間、広場の向こうから子供の甲高い声が飛ぶ。


「できたー?」


「まだだって言ってんだろ!」


女たちの怒鳴り声。

男たちの苦笑。

鍋から立つ肉の匂い。


村の空気が、ほんの少しだけ生き返る。


テオドールが小声で言った。


「悪くない演説でしたよ」


「演説のつもりはない」


「でしょうね、だから良かったんです」


「褒めてるのか」


「半分くらいは」


俺は鼻を鳴らし、広場を見渡した。


壊れた村だ。

足りないものだらけだ。

西の森には、まだ化け物がいる。

侯爵家は、俺がここで潰れると思っている。


だが、今日ひとつだけはっきりした。

この村は、まだ死んでいない。

なら、ここからだ。



その日の夕食は、村じゅうが鍋の匂いに支配されていた。


広場の中央、焚き火の上にかけられた大鍋が、ぐつぐつと音を立てている。

湯気の向こうに揺れるのは、切り分けられた巨猿の肉と、根菜、それにありったけの草だ。


肉の匂いが立つたび、子供たちがそわそわと鍋の周りをうろつき、女たちに追い払われる。


「まだ熱いって言ってるだろ!」


「でもいい匂い!」


「匂いだけで食うな!」


「食べたい!」


「みんな食べたいんだよ!」


怒鳴りながらも、女たちの顔はどこか明るかった。


無理もない、久しぶりの肉だ。

しかも、ただの干し肉の切れ端でも、小魚の煮込みでもない。

鍋の中でしっかり煮えた、まともな肉だ。


器代わりの木椀が配られ、ようやく一人分ずつ盛られていく。

俺も木椀を受け取り、湯気を立てる肉を見下ろした。


ごろりと大きめの塊がひとつ。

煮込まれて色は落ち着いているが、筋の多さは見て分かる。

上級貴族の食卓に並ぶような、舌でほどける柔らかい肉ではない。

そんなことは最初から期待していない。


問題は味だ。

俺は一口、慎重に噛んだ。


思っていたより、ずっといい。


「…悪くないな」


思わず漏れた。


まず、臭みが思ったほどきつくない。

いや、獣の匂いは確かにある。

だが不快ではない。

野性味はあるが、腐臭やえぐみではなく、しっかり煮込んだ肉の香りとしてまとまっている。


味は、旧大陸で食べた猪に近い。


弾力はあるが、筋も多い。

けど、噛み応えはかなりある。


ただ固いだけじゃない。

筋肉ばかりかと思えば、うっすらと脂が乗っている。

その脂が、噛むたびにじわりと滲んで、肉の旨味を押し出してくる。

上品とは言い難いが、力強い。


歯ごたえの中に、少しばかりの脂。

土と血と火をそのまま煮込んだみたいな、野性味のある旨さだった。


なんというか、本当に悪くない。


「どうだ、小僧」


隣で同じく椀を手にしていたガレスが、肉を噛みながら聞いてくる。


「いける」


「だろうな」


「猪に近い」


「おう。山の古い雄に近え。筋は多いが脂がいい」


「やっぱりそう思うか」


「長く生きた獣は、たまにこういう味になる」


爺さんは平然とそんなことを言いながら、次の一口を放り込んだ。


「香草がもっとありゃ、なお良かったがな」


「贅沢言うなよ」


「肉の時くらい言わせろ」


その向こうでは、テオドールが少し神妙な顔で肉を見つめていた。


「…どうした」


「いえ、私はもう少し、硬いだけの肉を想像していたので」


「食えないのか」


「いえ、むしろ逆です」


恐る恐る口に運び、数回噛んでから、少し驚いたように目を瞬かせる。


「本当に悪くないですね」


「だから言っただろ」


「ええ。ですが、これは予想以上です。脂が思ったより上質だ。癖はありますが、煮込み向きですね」


「食い物の分析まで始めたか」


「生きる上で重要ですから」


そう言って、テオドールは二口目を食べる。

普段は気だるげな男だが、食べる時はわりと真面目だ。


広場のあちこちでも、同じような声が上がっていた。


「おい、うまいぞこれ」


「化け物の肉とは思えねえな」


「筋は多いけど、腹には溜まる」


「汁がいいな、汁が」


「肉が入るだけで違うもんだな…」


子供たちは、もっと露骨だった。


「おいしい!」


「お肉だ!」


「ほんとにお肉!」


「昨日のあれ!?」


「昨日のあれだよ!」


「すごい!」


小さな女の子が、頬をいっぱいにして食べている。

口の周りは汁だらけだ。

横の男の子は、もう夢中で椀を抱えている。


その様子を見ていたマルタが、呆れたように笑う。


「ほら、急いで食べるんじゃないよ。まだあるから」


「ほんと!?」


「今日はな」


「明日も!?」


「明日のことは明日だよ」


その返しに、広場のあちこちで小さな笑いが起きた。


笑う、という行為自体が久しぶりなのかもしれない。

そう思うほど、どの顔にもまだぎこちなさがある。


それでも、笑っている。

バルドは黙って肉を噛みしめていたが、しばらくして低く言った。


「…うまいな」


「だろ」


俺がそう返すと、バルドはちらりとこちらを見た。


「昨夜まで、あれに食われるかもしれねえと思ってた」


「ああ」


「今日こうして、あれを食ってる」


「そうだな」


「妙な気分だ」


それは分かる気がした。

昨日は殺される側だった。

今日は食う側だ。


新大陸では、その切り替えが生きるということなのだろう。


「だが」


バルドは肉をもう一切れ口に入れ、ゆっくり噛んだ。


「嫌いじゃねえ」


俺は少しだけ笑った。


「俺もだ」


夕暮れの残り火が消え、夜が広場の外からじわじわと広がってくる。

だが昨夜とは違った。


昨日の夜は、森の奥から何が出てくるか分からない恐怖しかなかった。

今夜は違う。


もちろん、安全になったわけじゃない。

西の森にはまだ化け物がいる。

柵はまだ直りきっていない。

明日どうなるかも分からない。


それでも、今この瞬間だけは。

皆、同じ鍋を囲み、同じ肉を食っている。


誰がが言った。


「皆で肉が食えるなら、まだどうにかなるな」


それだけで十分だった。


俺は木椀の中の最後の肉を噛み、ゆっくり飲み込んだ。


歯ごたえ、脂の旨味。

少し荒っぽい、けれど確かな肉の味。


上等な料理じゃない。

帝都の晩餐には到底及ばない。

けれど、この村で食うにはふさわしい味だった。


飾り気がなく、乱暴で、生きるための味だ。


「…悪くない」


もう一度、今度はさっきより少しだけはっきり口にする。

ガレスが喉の奥で笑い、テオドールが肩をすくめ、バルドが小さく鼻を鳴らした。


広場には肉の匂いと、人の体温と、ささやかな話し声が満ちている。


村はまだ貧しい。

だが、こうして同じ鍋を囲めるなら、まだやれる。


俺は焚き火の向こうで笑う子供たちを見ながら、静かにそう思った。

続きが気になる方は、ブクマお願いします!

また、少しでも面白いと感じた方は評価お願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ