第8話 この土地から取り返す
俺は村を見回した。
巨猿の肉を運ぶ者。
毛皮を干す者。
骨を選り分ける者。
まだ粗末で、まだ貧しく、まだ不安だらけだ。
だが、昨日とは違う。
皆の顔に、ほんの少しだけ前を向く色がある。
化け物を倒した。
素材を手に入れた。
そして、その腹の中から、正体不明の何かまで出てきた。
この新大陸は、やはりただの辺境じゃない。
人の常識の外にある土地だ。
なら、その常識の外で勝つしかない。
「テオドール、古龍の記録覚えてるだけ全部書き出せ」
「今からですか」
「今からだ」
「…少しは休ませてくれません?」
「だめだ」
「でしょうね」
気だるげに肩を落としながらも、テオドールは本気で嫌がってはいなかった。
むしろ、少しだけ目が楽しそうだった。
未知の珠に、新大陸という未開の地。
書類屋の顔をしたこの男にとっても、面白くないはずがない。
テオドールが古い記憶を掘り起こすように紙へ文字を書きつけ始めた頃、村の空気は朝とは少し変わっていた。
壊れた柵も、痩せた畑も、足りない道具も、何ひとつ変わっていない。
それでも、人の顔つきだけは変わる。
昨夜までは、ただ今日を越えられるかどうかだった。
今は違う。
巨猿の死体は、村の中央に運び込まれた肉の塊になり、毛皮は干し場へ、骨は使える形へ切り分けられ、爪や牙は小さな山になって並べられている。
昨日まで村を脅かしていた化け物が、今日は目の前で「食えるもの」「使えるもの」に変わっていく。
それだけで、空気は変わるのだ。
「そこ、脂は捨てるなよ!鍋に入れりゃまだ使える!」
「分かってるって!」
「血抜きはもっと丁寧にしな!臭みが残るだろうが!」
昼を少し回った頃には、村の女たちが広場の一角を占拠していた。
大鍋がいくつも並べられ、湯を沸かし、切り分けた肉を塩と香草もどきの草で揉み込み、固い筋を包丁で削いでいく。
巨猿の肉は、やはり一筋縄ではいかないらしい。
色は濃い赤。
ところどころに脂はついているが、牛や豚のような柔らかさはない。
筋が多く、切るたびに包丁が引っかかる。
それでも、女たちの手つきには迷いがなかった。
飢えの近くで暮らしてきた手だ。
食えるものを食える形にする、その一点にかけては、たぶん誰よりも強い。
中でも年嵩の女…名をマルタと言ったか。
彼女が煮込み用の肉を切りながら、ふっと口元を緩めた。
「…肉なんて、いつぶりだろうねえ」
「魚ならこの前食べたじゃない」
「あんな小魚、肉のうちに入るもんか」
「違いない」
そう言い合う声が、どこか軽い。
別に大笑いしているわけじゃない。
だが、張りつめた感じが少し抜けている。
たぶん本当に久しぶりなのだろう。
腹いっぱいとはいかなくても、肉を食うという出来事そのものが。
子供たちは、もっと分かりやすかった。
「お肉!」
「お肉だ!」
「今日はお肉なの!?」
子供たちが、広場の端をぐるぐる走り回っている。
痩せてはいる。
服も継ぎ接ぎだらけだ。
それでも目だけはきらきらしていて、もう鍋の中身しか見えていない。
ひとりの小さな女の子が鍋を覗き込もうとして、すぐにマルタに追い払われた。
「こら、まだ早い!火が通るまで待ちな!」
「えー!」
「えー、じゃない!腹壊したらもっと食べられなくなるよ!」
「じゃあいつ!?」
「煮えてからだよ!」
子供たちが「お肉!お肉!」と唱えながら、また走っていく。
その様子を見て、俺は思わず少しだけ笑った。
昨日まで、俺たちはこいつらに石を投げられてもおかしくなかった。
それが今日は、肉に夢中でこちらを見る余裕もない。
悪くない変化だ。
「いい顔してますね」
後ろから声がした。
振り返ると、戸板を机代わりにしたテオドールが、筆を持ったままこちらを見ていた。
紙の上には、もう何枚も文字が埋まっている。
「誰がだ」
「子供たちですよ」
「肉があるからな」
「ええ。食べ物は分かりやすい希望です」
言ってから、テオドールはまた紙へ視線を戻した。
書いている内容は、さっき話していた古龍の記録だろう。
「進んでるか」
「断片的ですが。図書庫で読んだのが何年も前なので、記憶を引っ張り出すのに時間がかかります」
「使える形にまとめろ」
「相変わらず容赦ないですね」
「こういうのは鮮度が命だろ」
「記憶に鮮度を求めるの、初めて聞きましたよ」
口では文句を言いながらも、筆は止まらない。
あの珠について、こいつも本気なのだろう。
一方で、村の男たちは広場の反対側に集まっていた。
壊れた柵材を運ぶ者。
骨を削る者。
水桶を運ぶ者。
手は動いているが、口も動いている。
時折、こちらを見ているのが分かった。
気にするなと言われても無理だろう。
昨日来たばかりの貴族の坊っちゃんが、初日の夜に村を苦しめていた化け物を仕留めたのだ。
警戒もするし、値踏みもする。
俺はあえて聞こえないふりをしていたが、ガレスはそうでもなかった。
「隠れて話すにしちゃ、声がでけえな」
木柵の補修材を担ぎながら、爺さんが鼻を鳴らす。
「わざと聞かせてるのかもな」
「そりゃそれで結構、陰でぐだぐだ言うよりましだ」
実際、その通りだった。
男たちの顔には、まだ不信がある。
だが昨日までみたいな「どうせまた逃げるんだろう」という冷たさ一色ではない。
混じっているのだ。
戸惑いと期待が。
バルドを中心に、男たちは何度も話し合っていた。
昨夜のこと。
レオという貴族の坊っちゃんが、今までの侯爵家の連中とは少し違うこと。
前に出たこと、嘘を言わなかったこと。
そして何より、村を悩ませ続けていた化け物を、本当に倒したこと。
「今までの連中は、最初に来た日に柵の近くまで出もしなかった」
「酒飲んで偉そうに命令するだけだったな」
「女と食い物だけ持って逃げた奴もいた」
「だが、あいつは前に出た」
「前に出るだけなら馬鹿でもできる」
「馬鹿なら死んでる」
「…それもそうだ」
そんな声が、ぽつぽつと風に乗る。
「じゃあ信用するのか?」
「まだだ」
「だが、全く駄目って感じでもねえ」
「少なくとも、昨日の夜を越えさせたのはあいつだ」
「肉もある」
「肉で決めるな」
「肉は大事だろうが」
最後の一言で、何人かが小さく笑った。
その笑いも、昨日までの村にはなかったものだ。
結局のところ、村人たちだって分かっているのだろう。
ここで全部を疑って何も動かなければ、本当に終わる。
なら、見極めるしかない。
信じるに足る相手かどうかを。
夕方。
鍋からは、ようやく肉の匂いが立ち始めていた。
臭みは完全には消えていない。
だが、塩と草の匂い、煮えた脂の匂いが混じると、腹が鳴る程度には食欲をそそる。
その匂いが村中に広がる頃、男たちがまとまってこちらへ来た。
先頭はバルド。
その後ろに、昨夜槍を持っていた男たちが並ぶ。
喧嘩を売りに来たわけではない。
だが、軽い話でもなさそうだった。
「話がある」
バルドが言う。
「こっちもだ」
「じゃあちょうどいい」
俺は立ち上がった。
ガレスは近くの柵材に腰を下ろしたまま。
テオドールは筆を止め、書きかけの紙を押さえている。
バルドが一度、後ろの男たちを振り返った。
皆、腹を決めたような顔をしている。
「昨夜のことだ」
低い声だった。
「助けられたのは事実だ」
「そうか」
「礼を言うつもりはまだねえ」
「それでいい」
「だが、あの化け物を殺したのも、それを村の食い扶持と守りに変えたのも事実だ」
「ああ」
「だから聞く。お前は、これからどうするつもりだ」
来たな、と思った。
結局ここだ。
村人たちが本当に知りたいのは。
この貴族の坊っちゃんは、何をする気なのか。
村をどうするつもりなのか。
そして、自分たちはどうなるのか。
俺はバルドたちを見回した。
四十人足らず。
まだ少ない、頼りない。
だがゼロではない。
なら、やることは決まっている。
「今後の話をする」
そう言って、俺は地面に転がっていた枝を拾った。
土の上に、簡単な線を引く。
「まず第一に、この村は今のままだと、また潰れる」
「巨猿を一匹殺したくらいで安心するな。森の中にはまだいる。あれより弱いのも、強いのもだ」
「脅す気か」
「現実だ」
誰も言い返さなかった。
俺は土の上に、村と西柵、それから窪地の位置を描く。
「だから最優先は防衛だ。特に西側」
「やっぱり西か」
「ああ。今夜来なかったとしても、また来る」
枝先で柵の位置を強くなぞる。
「柵は応急じゃなく、殺すための形に変える」
「高くするだけじゃ足りん、前に浅い穴と足止めの杭を作る。雨で崩れた窪地も、そのまま使う。誘い込んで落とす形だ」
「罠柵、か」
「そうだ。人を守る壁じゃない。化け物を殺すための壁にする」
男たちの顔が少しずつ変わる。
ただ塞ぐだけじゃなく、使うという発想はなかったのかもしれない。
「第二に、食い扶持だ」
今度は畑の方へ線を引く。
「肉は今ある。だが一時的だ、食って終わりじゃ意味がない」
「分かってる」
「分かってるなら早い。畑は守る。森の浅いところで、採集も回す」
「男を全部柵に貼りつけるのは駄目だ。狩り班、柵班、運搬班を分ける」
「人手が足りるか?」
「足りない。だから全員働く」
「女もか」
「できることをやる。子供も見張りと運びくらいは覚えろ」
その言葉に、後ろで子供を見ていた女たちが少しざわつく。
だが、反対の声は出ない。
ここでは、できる者がやるしかないのだ。
「第三」
俺はそこで少し間を置いた。
「この村は、守るだけじゃ駄目だ」
「…どういう意味だ」
バルドが目を細める。
俺は西の森を見た。
「昨日の巨大猿一匹で、毛皮、防具材、骨、肉、それに珠まで出た」
「ああ」
「つまりこの土地は、ただ生きるだけの場所じゃない。取れる」
「取れる?」
「金も、武器も、防具も、たぶんな」
村の男たちが息を呑む。
「お前ら、今までは逃げないためにここにいたんだろ」
「これからは違う。生き延びるだけじゃなく、この土地から取り返す」
「森から?」
「そうだ。狩って、剥いで、加工して、売る。使えるものは全部使う」
そこでようやく、バルドが少しだけ笑った。
乾いた、だが本物の笑いだった。
「貴族の坊っちゃんが、ずいぶん物騒なことを言う」
「物騒だから生き残れる」
「違いねえ」
横でガレスが喉を鳴らすように笑う。
「ようやく領主らしい顔になってきたな」
「領主ってのは、こんなもんか?」
「少なくとも、逃げる馬鹿よりはましだ」
それから俺は、最後に一番大事なことを言った。
「ただし」
広場の空気が少し締まる。
「俺一人じゃ無理だ」
「爺さん一人増えても無理だ。テオドールが頭を回しても、それだけじゃ無理だ」
筆を持ったままのテオドールが、少しだけ肩をすくめる。
「この村の人間が動かなきゃ、何も変わらない」
「つまり、ついてくるかどうかを決めろ」
俺はバルドたちを真正面から見た。
「俺は逃げない。少なくとも今はな」
「今は、か」
「先のことは分からん。だが、逃げる前に全部使い潰す。人も土地も、見捨てて終わるつもりはない」
「だから、お前らも決めろ。俺を信用するかじゃない。ここでまだやる気があるかどうかだ」
静かになった。
鍋の煮える音が、妙に大きく聞こえる。
バルドは長く黙っていたが、やがて後ろを振り返った。
男たちも、互いに顔を見合わせる。
昨夜の戦い。
今朝の解体。
子供たちの「お肉!」という声。
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