第6話 巨大猿の腹の中
焚き火のはぜる音だけが、遅れて耳に戻ってきた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
目の前にあるのは、ついさっきまで村を踏み潰しかけていた化け物の死体だ。
茶色い体毛にまみれた巨躯。
左目には、俺の剣が根元近くまで突き立っている。
俺は泥まみれのまま膝をつき、荒い息を吐いた。
喉が焼ける。
手が震える。
遅れて恐怖が来る。
あと半歩遅ければ死んでいた。
「…生きてるか、レオ」
ガレスの声。
振り向くと、爺さんは肩で息をしながらも立っていた。
「なんとか」
「上等だ」
バルドたちも立ち尽くしていた。
何が起きたのか、まだ飲み込みきれていない顔だ。
その後ろで、テオドールが青い顔のまま目元を押さえていた。
「…本当にやる人、初めて見ました」
「言っただろ」
「聞きましたが、実行するとは思いませんでしたよ」
声は震えていた。
怖かったのだろう。
だが、こいつも逃げなかった。
俺は立ち上がり、泥を払うこともせず、巨猿の死体を見下ろした。
でかい。
改めて見ると、よくこんなものを相手にしたと思う。
だが、倒せた。
まともに打ち合わず、
怒らせ、誘導し、崩し、一瞬の隙を突いて急所を穿った。
ガレスに叩き込まれた、生き残るための戦い方そのものだった。
やがて、村人のひとりがぽつりと呟いた。
「…死んだ、のか」
誰にともなく漏れた声だった。
バルドが、ゆっくり窪地へ近づく。
巨猿の腕を、恐る恐る槍先でつつく。
反応はない。
もう一度、やはり動かない。
そこでようやく、男は息を吐いた。
「…死んでる」
その一言で、村の空気が変わった。
張り詰めていた糸が、ぶつりと切れる。
へたり込む者。
泣き出す女。
呆然としたまま化け物の死体を見る子供。
勝った、というより今夜を越えられると、皆が理解したのだ。
俺はバルドを見る。
「解体できるか」
「…は?」
「肉は食えるかもしれん。皮も骨も使える。捨てるな」
「お、お前…」
「勝ったなら使い切る。それがこの土地のやり方だろ」
バルドはしばらく黙っていたが、やがてくしゃりと顔を歪めた。
笑ったようにも、泣きそうにも見えた。
「…貴族の坊ちゃんが、そんなこと言うとは思わなかった」
「俺も思わなかった」
正直な本音だった。
テオドールが、まだ青い顔のまま小さく言う。
「レオ様、たぶん今ので村の見る目は少し変わりましたよ」
「少しか」
「ええ。ほんの少しです」
その少しで十分だった。
信頼なんて、最初から手に入るものじゃない。
だが今夜、生き残らせた。
それは事実だ。
俺は窪地に沈む巨猿を見下ろし、静かに息を吐く。
兄上は、俺がここで潰れると思っていたはずだ。
侯爵家は、この土地を俺ごと切り捨てるつもりだったはずだ。
なら見ていろ。
見捨てたこの村で。
逃げ出したこの土地で。
俺は、生き残る。
そして、生き残るだけじゃ終わらせない。
新大陸の朝は、夜の死闘が嘘みたいに静かだった。
空は薄く晴れ、湿った土の匂いが村じゅうに残っている。
昨夜の焚き火は白い灰になり、壊れた西柵の向こうでは、窪地にはまり込んだ巨大猿の死体が朝日に照らされて鈍く光っていた。
改めて見ると、やはり大きい。
立てば三メートル近い。
肩幅は大人三人分はあり、長い腕は地面に届くどころか、泥を掴んだまま固まっている。
昨夜は勢いと必死さで動いていたが、こうして朝の光の下に晒されると、よくこんなものを相手にしたと思う。
「…でかいな」
俺が呟くと、ガレスが鼻を鳴らした。
「夜より朝のほうが、化け物ってのはでかく見えるもんだ」
「逆じゃないのか」
「生きてる時は必死で測る暇がねえんだよ」
もっともだった。
村人たちも、昨夜よりは少し近くまで寄ってきている。
とはいえ、まだ恐る恐るだ。
死体を見ているのか、俺たちを見ているのか、半々といったところだった。
バルドが窪地の縁で腕を組んだ。
「…本当に、これを解体するのか」
「する」
「正気か?」
「捨てる方が正気じゃないだろ」
俺がそう返すと、バルドは難しい顔のまま黙った。
新大陸のことはまだ知らない。
だが少なくとも、昨夜村を壊しかけたこいつは、ただの脅威で終わらせるには大きすぎる。
これだけの図体だ。
肉も、皮も、骨も、何かには使える。
「テオドール」
「はい」
「こういう大型の魔物素材って、旧大陸で流通してるのか」
「少しはあります。飛竜種や大物の皮革、骨材、牙などは希少品ですね。ただ…」
テオドールは巨猿の死体を見下ろし、目を細めた。
「私は、こんなに大きい猿型は文献でしか知りません」
「少なくとも帝都の市場に普通に出回る類ではないでしょう」
「つまり」
「高く売れる可能性はあります。加工できれば、ですが」
それを聞いていた村人の何人かが、わずかにざわついた。
金になる。
その言葉の響きだけで、空気が少し変わる。
「まずは剥ぐぞ」
ガレスがそう言って、腰の鉈を抜いた。
俺も頷き、窪地へ降りる。
泥はまだ柔らかく、靴が沈む。
近づけば近づくほど、獣臭さが濃くなる。
まずは毛皮からだった。
巨猿の茶色い体毛は、見た目以上に密で厚い。
ただ長いだけじゃない。
一本一本が妙に硬く、指で逆立てるとざらりとした抵抗がある。
「毛が硬いな」
「毛ってより、半分鎧だな」
ガレスが鉈の刃を当てる。
だが、すっと切れる感じではない。
表面の毛が刃を流し、その下の皮に届くまでに妙な粘りがある。
「面倒だぞ、こいつは」
「斬るんじゃなくて、叩き割るしかないか」
「そうなる」
ガレスは言うなり、鉈を逆手気味に持ち直し、骨ごと叩き潰すように振り下ろした。
鈍い音が響く。
ようやく皮が裂け、下の肉と脂が覗いた。
「…なるほど」
「優雅じゃねえが、こういう時はこれだ」
まさにその通りだった。
細かく捌くというより、硬い外殻を割っていく感覚に近い。
村の男たちも手伝いに入り、鉈や斧で少しずつ切り開いていく。
だが誰もすぐには慣れなかった。
「なんだこれ、本当に毛なのか」
「刃が滑るぞ」
「皮も厚い…」
悪戦苦闘しながら、それでも表層を剥いでいく。
すると分かった。
「…こいつ、すごいな」
剥がれた毛皮の内側を持ち上げ、俺は思わず呟いた。
硬い。
だが、重すぎない。
しかも単に分厚いだけじゃない。
毛が密に重なって衝撃を散らし、その下の皮が柔らかく受ける。
軽さと硬さ、それに柔軟さが同居している。
「防具になるな」
「ええ」
上から覗き込んでいたテオドールが、珍しく少し身を乗り出した。
「手間をかけて鞣せば、一級品でしょう」
「軽くて硬く、しかも曲がる。金属鎧より動きやすく、普通の革鎧よりずっと頑丈です」
「毛で、か」
「毛だから、ですよ。板みたいに硬いだけなら割れますが、これはしなる」
ガレスも剥いだ毛皮を手で曲げ、何度か引っ張ってみる。
「…たしかにいい。打撃も通しにくそうだ」
「理想の防具かもしれんな」
「問題は、加工できる腕のある職人がいりゃ、だがな」
それが今はない。
だが、価値があることだけははっきりした。
村人たちの目も変わってきていた。
昨夜までは恐ろしい化け物だったものが、今は使える資源に変わりつつある。
新大陸では、そういう切り替えが必要なのだろう。
次に骨を剥き出しにした時、今度は別の驚きがあった。
「硬え!」
村の男のひとりが、斧を振り下ろして顔をしかめた。
白く太い骨には傷こそ入ったが、簡単には割れない。
俺も前脚の骨に手を当ててみる。
太い、そして妙に締まっている。
ただ大きいだけの骨じゃない。
ガレスが肘のあたりの骨を剥き出しにし、拳で叩いた。
乾いた硬い音が返る。
「こりゃそのまま鈍器になるな」
「削れば槌にもなるか」
「槍の柄先に仕込んでもいい。骨ってより、下手な木材よりよっぽど強え」
旧大陸の獣骨とは格が違う。
素材の時点で武器向きだ。
「こいつ一匹で、かなり取れますね…」
テオドールが半ば独り言のように呟く。
「皮、防具材。骨、武器材。牙や爪があれば装飾か加工部品。これで肉まで使えれば、相当です」
「肉はどうだ」
俺がそう言うと、ガレスは腹を裂いたところから肉を切り出し、鼻先へ近づけた。
嫌な臭みはある。
血の匂いも濃い。
だが、顔をしかめたあと、爺さんは短く頷いた。
「食えないわけじゃねえ」
「本当か?」
「臭みは強い。だが腐ってる臭いじゃねえ。筋も多いが、しっかり煮込めばいける」
「焼くのは?」
「固いな。煮込みだ。香草がありゃなおいい」
村の女たちが顔を見合わせる。
食料事情を考えれば、肉になるだけで十分大きい。
「貴重な肉だ」
ガレスは平然と言った。
「ちゃんと火を入れりゃ食える。捨てる理由はねえ」
「じゃあ、使う」
「当然だ」
それで話は決まった。
昨夜、村を潰しかけた化け物が、朝には防具になり、武器になり、肉になる。
これが新大陸かと、少しだけ実感した。
だが、本当に目を引いたのは、その後だった。
腹の奥を裂き、内臓を取り出していた時だ。
「…なんだ、これ」
最初に声を上げたのはバルドだった。
皆の手が止まる。
内臓の奥、脂と膜に包まれるようにして、それはあった。
丸い。
宝石のように滑らかで、ひと抱えするほどではないが、両手で持つには十分な大きさ。
色は焦げ茶色。
けれど濁っていない。
磨き上げた大地をそのまま閉じ込めたような、深く落ち着いた色合いだ。
表面には欠けひとつない。
完全な球体に近い、美しい丸。
血と泥にまみれた化け物の腹の中から出てきたとは思えないほど、不自然に整っていた。
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