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第5話 巨大猿、討つ

巨大猿の腕が振り上がる。


まともに受ければ終わりだ。

剣で受けても、腕ごと折られる。

槍を並べても、力で押し潰される。


なら、打ち合わない。


勝つ必要はない。

狙うのは…怒りだ。


俺は壊れた柵の足元へ視線を落とした。

砕けた木片、踏み荒らされた土、転がる石。

その中から、握りやすいものをひとつ、ふたつ、素早く拾い上げる。


拳大には少し足りない。

だが十分だ。


「レオ!?」


後ろでバルドが叫ぶ。

聞こえたが、振り返らない。


巨大猿の顔は、近くで見ると余計に異様だった。

顔面だけがやけに大きい。

鼻梁は低いが、鼻先はぶ厚く広い。

息を吐くたび、湿った音が鳴る。


どんな獣だろうが、どれだけ図体がでかかろうが、鼻っ面は鍛えられない。


俺は腰をひねり、右手の石を全力で投げた。

狙いは顔面。

特に、鼻。


石は夜気を裂いて飛ぶ。

次の瞬間、鈍い音がした。


巨大猿の鼻先に石がぶつかり、肉の潰れる音がした。

一拍遅れて、化け猿の顔がぶるりと震える。

目が見開かれた。


「ギ、ァ、アアアアアッ!!」


咆哮。

さっきまでの威圧とは違う。

明らかに怒りを孕んだ絶叫だった。


「やっぱりそうだろ」


俺は低く吐き捨てる。


鼻先を押さえるように、巨大猿が片腕を顔へ持っていく。

そこへ間髪入れず、二投目。


今度は少し外して、頬骨のあたりを打つ。

だがそれでいい。


狙いは痛みじゃない。

意識を向けさせることだ。


「こっちだ、化け物!」


俺はわざと前へ出た。

壊れた柵の隙間、その真正面。


巨大猿の目が、ぎょろりと俺を捉える。


さっきまで村全体を見ていた視線が、はっきり一点に絞られた。

その瞬間、背筋に冷たいものが走る。


獲物として認識された。

そう分かる目だった。


「よくやりますね…」


後ろでテオドールが、半ば呆然とした声を漏らす。

だが、その声にもすぐ理性が戻る。


「皆さん、今です!レオ様から視線を切らさせないでください!」

「他は近づかない!刺激すると狙いが散ります!」


男たちが慌てて散る。

バルドが怒鳴る。


「聞いただろ!前に出るな!」


巨大猿はもう村を見ていなかった。

俺だけを見ている。


鼻先を打たれた怒り。

正面から挑発してくる小さな影。

それが、化け物の単純な思考を塗り潰したのだろう。


ガレスが低く笑った。


「上出来だ、だが調子に乗るなよ!本気で追われたら死ぬぞ!」


「分かってる!」


返しながら、俺は一歩、また一歩と後ろへ下がる。

真正面ではない、少しだけ右へ。

西柵の外側、雨で抉れた窪地へ続く位置へ。


誘導だ。


巨大猿の左腕が振られる。

まともに食らえば胴ごと飛ぶ。


俺は転がるように横へ跳んだ。

さっきまでいた場所に腕が叩きつけられ、土と木片が吹き上がる。

冷や汗が背中を伝う。


だが、読み筋は合っている。

顔が大きく腕が長い、足は短い。

つまり、踏み込みそのものはそこまで鋭くない。

懐に入らず、正面からだけ注意していれば、まだ避けられる。


「レオ様!右です!そのまま右へ!」


テオドールの声。

俺は短く息を吐き、あえて足を止めてから、また石を拾った。


「まだやるのかよ」


ガレスが唸る。

俺は口の端を吊り上げた。


「怒らせ足りない」


三投目。


今度は鼻の頭ではなく、目の下を狙う。

ほんの少し逸れたが、それでも顔面に当たる。


巨大猿が激昂した。

腕を大きく振り回し、完全に俺へ向けて突っ込んでくる。


その一歩で地面が沈む。

短い足で走る姿は不格好なはずなのに、図体がでかすぎて洒落にならない。


「っ!」


俺は後ろへ跳び、さらに右へ。

窪地に向かって走る。


耳のすぐ後ろで、風が唸る。

やつの腕が空を薙いだ音だ。


あと数歩遅ければ、背骨ごと持っていかれていた。

それでも、振り返らない。


見なくても分かる。

奴は来ている。

鼻息も、地響きも、怒りの唸りも、全部が背中に迫っている。


「もっと右だ、レオ!」


今度はガレスの声。

俺は言われた通り、斜めに進路を切る。


西柵の外は、整地どころか放置された地面だ。

雨水で削られた斜面と窪みが、そのまま残っている。

人間なら足を取られる厄介な地形。

だが、あの重さなら足場ごと崩せる。


「テオドール!深さは!」


「人の頭まで!片側が崩れてます!乗れば滑るはずです!」


「十分!」


叫んだ瞬間、背後で再び咆哮した。


怒りきっている。

もう周囲は見ていない。

俺さえ叩き潰せば終わると、本気で思っている声だった。


なら、それでいい。

俺は窪地の縁ぎりぎりで足を止め、振り返った。


巨大猿が来る。


月明かりも薄い夜の中、茶色い巨体だけが異様な迫力で迫ってくる。

大顔、長い腕、剥き出しの牙。

鼻先には、さっきぶつけた石の跡とわずかに赤黒い筋。


俺は最後の小石を指先で弄んだ。


「ほら、こっちだ」


そして、にやりと笑ってみせる。


挑発が通じたのかどうかは分からない。

だが、目がさらに血走ったのは見えた。


振り上げられる腕、踏み込まれる前足。

そして、沈む地面。


来る。


「今だ!」


俺は窪地の縁から横へ飛んだ。

重い一歩が、雨で緩んだ斜面へ乗る。


土が滑った。

巨体が、ほんのわずかに傾ぐ。


その一瞬を、俺は見逃さなかった。


「足が流れた!」


「全員!右脚だ!右脚を狙え!」


ガレスが吠える。

バルドたちも悲鳴まじりに走る。

テオドールが後ろで珍しく大声を張った。


「ここです!ここで止めてください!完全に転ばせれば勝てます!」


巨大猿はまだ倒れていない。

だが、均衡は崩れた。


人間が化け物を殺す時に必要なのは、真正面からの力比べじゃない。


たった一瞬の隙。

たった一歩の踏み外し。

そこに全部を叩き込むことだ。


泥だらけの地面へ着地しながら、俺は剣を握り直す。

巨猿の巨体が、ぬかるんだ斜面にさらに足を取られる。


短い足が深く沈み、長い腕が咄嗟に地面を掴む。

踏ん張ろうとしている。

完全に転んではいない。

だが、今なら崩せる。


誘導は成功した。

問題は、その先だ。


俺は泥を蹴りながら、巨猿の横へ回る。

心臓は冷えていた。

焦りはある。

だが頭は冴えている。


このまま窪地に嵌めても、長くは保たない。


足は短い、たしかに一度は沈む。

だが、それだけだ。

こいつほどの膂力があれば、数息もあれば強引に這い上がる。

柵にしろ槍にしろ、悠長に削って倒せる相手じゃない。


短時間で仕留めるしかない。

じゃあ、どこを殺す。


腹か。

無理だ。皮も筋肉も厚すぎる。


首か。

もっと無理だ。刃が通り切る前にこっちが死ぬ。


なら、急所だ。


鼻先は痛みを与えられる。

目はもっと柔らかい。

その奥にあるものは、どんな大物でも同じだ。


脳を潰せば死ぬ。


「ガレス!」


俺は喉を裂くように叫んだ。

ガレスが即座にこちらを見る。


「なんだ!」


「こいつの両腕を少しでいい、抑えてくれ!」


「…目か!」


「そうだ!」


話が早い。


「お前、やる気か」


「それしかない!」


後ろで、テオドールが青い顔のまま叫ぶ。


「本気ですか!?」


「他にあるか!」


「ありませんが、あまり聞きたくない答えでしたね!」


その間にも、巨猿は咆哮しながら体勢を立て直そうとしていた。

片足が窪地に深く沈み、泥が崩れる。

長い右腕で地面を掴み、強引に身を持ち上げようとする。


思ったよりずっと早い。


「バルド!男どもを左から回せ!槍は突くな、腕に絡ませろ!」


「できるのかよ!」


「できなくてもやれ!今逃がしたら次は家が潰れる!」


バルドが歯を剥き、振り返って怒鳴る。


「聞いたな!逃げんな!左から回れ!腕を止めろ!」


住民たちの顔は恐怖で引きつっていた。

それでも、誰も逃げなかった。


逃げたところで終わりだと分かっているからだ。


ガレスはすでに前へ出ていた。

老いた背中とは思えない速さで、泥を蹴って巨猿の右側へ回り込む。


「レオ!下からだ!上見て突くな、頭蓋に滑るぞ!」


「分かってる!」


そう、真正面から目を刺すんじゃない。


こいつの顔は大きい。

鼻も出ている。

目は顔の上の方だ。

正面から突けば、硬い骨に弾かれる可能性がある。


狙うのは下からだ。


体勢を低く。

顎の下、あるいは眼窩の縁から、斜め上へ。

目玉を潰して、その奥へ刃を通す。


巨猿が唸り、右腕を振り上げた。

その瞬間、ガレスが怒鳴る。


「今だ!乗せろ!」


バルドと男たちが、一斉に槍を腕へ押し当てた。

刺すのではない。

槍柄ごと体重を乗せ、振りを鈍らせる。


嫌な音と共に、槍が軋む。

男たちが顔を歪める。

ほんの一瞬だけ、巨猿の右腕が止まった。


左腕も同時に動く。

そちらへはガレスが飛び込んだ。


剣ではない。

折れた柵材を拾い、それを梃子のように巨猿の肘の内へねじ込む。

力で勝つつもりはない。

曲がる方向へ、さらに押し崩す。


巨大猿が怒声を上げる。

完全には抑えられていない。

それでも、両腕の動きがほんの一拍、遅れた。


十分だ。


「レオ様!」


テオドールの声が飛ぶ。


「今しかありません!」


「分かってる!」


俺は泥の中を一直線に駆けた。


巨猿の正面。

大きすぎる顔、怒りに血走った目。

鼻先には俺が投げた石の跡がまだ残っている。


臭いがひどい。

獣臭と腐った血と湿った毛皮の臭いが、むせるほど濃い。


だが、足は止めない。


巨猿が俺を見た。

その目が、今にもこちらを噛み砕こうとするみたいに見開かれる。


俺は体勢を落とした。

膝を曲げ、腰を沈め、剣を低く引く。


狙いは左目。

下から、突き上げる。


巨猿の腕が振り払おうとする。

だが遅い。

ガレスたちが止めた、その一拍が生きている。


地面を蹴る。

泥が跳ねる。

俺は滑り込むように巨猿の顔の下へ入り込み、そのまま全身のばねを使って剣を突き上げた。


柔らかいものを裂く感触。

目だ、確かな手応えがあった。


「ギャアアアアアアアアッ!!」


夜を裂く絶叫。

剣先は目玉を貫き、そのまま奥へ沈む。

ぬるい液が手に飛び、巨猿の頭が大きく仰け反る。


まだ浅い。


「まだだ!」


俺は柄を握り直し、さらに一歩踏み込んだ。


巨猿の頭蓋が震える。

眼窩の奥、柔らかい通り道。

そこへ、全体重を乗せる。


突きじゃない。

押し込む。


「入れええええッ!」


今度は硬いものを抜けた、その奥の感触。

手首に伝わる。

嫌になるほど、生々しい感触だった。


脳まで届いた。


そう確信した次の瞬間、巨大猿の絶叫がぶつりと切れた。

巨体が痙攣する。


腕が跳ねる。

ガレスたちが弾き飛ばされる。

だがもう遅い。


体から、力が抜けていく。


膝が崩れる。

短い足が泥に沈み、長い腕が支えを失って落ちる。

俺は剣から手を離し、横へ転がるように飛び退いた。


最後は、地面ごと揺らして巨体が窪地へ沈んだ。


泥と水が跳ね上がる。

倒木みたいな腕が二度、三度と痙攣し、やがて止まった。

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