第40話 虚栄の剣
決行の日は、空気が妙に乾いていた。
朝から村の中は静かだった。
静かではあるが、穏やかではない。
ウェルナー村では、表向きはいつも通りに仕事が回っている。
伐採班は斧を持ち、女たちは水を運び、書記官は帳面を開いている。
だが、一部の動きの中に、ほんの少しだけ硬さがあった。
分かっている人間だけが持つ、あの硬さだった。
そして、少しだけ硬い空気のまま時間だけが過ぎていく。
一方その頃、村の外れ。
森の手前、風下側の浅い木々の中に、レオ、ガレス、エルマーの三人はいた。
位置はぎりぎり村から見えない。
だが、火の様子だけは届く場所だ。
「最終確認だ」
レオが低く言う。
「村に火を入れすぎるな」
「分かってる、同じことを何回も言うなよ」
「お前相手だと毎回必要だ」
「ひどい信頼だな」
「信頼じゃなくて実績だ」
ガレスが喉の奥で笑った。
「火の筋だけ見せろ」
「おう」
「派手な火柱はいらん」
「分かってるって言ってるだろ」
「その分かってるが怖いんだよ」
エルマーはぶつぶつ言いながらも、もう手元の準備は終えていた。
火尾鶏の尾から取った熱繊維。
少量の赤い魔石の粉。
それを包んだ布袋。
そして、自分の火の魔力。
雑に使えば、ただの放火になる。
だが今日は違う。
欲しいのは、火の魔物が通った痕だ。
レオが念を押すように呟いた。
「一回だけだぞ」
「分かってる」
「二回はいらん」
「くどい」
「お前にはくどくてちょうどいい」
その時だった。
森の向こう、ウェルナー村側からかすかな合図が届く。
鳥の鳴き真似だ。
昨日決めた、オットーからの開始合図。
レオとガレスがエルマーを見る。
エルマーは短く頷き、片膝をついた。
火の魔法を使う時の顔だ。
軽薄さが消え、目だけが鋭くなる。
指先に、小さな火が灯る。
だがそれは普通の火ではない。
火尾鶏の尾の熱を混ぜたせいか、色が少し深い。
赤の奥に、暗い橙がある。
「火よ走れ」
「だが、暴れるな」
火は、草の上を這うように進んだ。
ぼうっと大きくは上がらない。
代わりに低く、速く、獣が尾を引くような線になる。
枯れ枝を舐め、草を焦がし、地面へ黒い筋を刻んでいく。
ガレスが感心したように声を出した。
「いいな、火尾鶏らしい」
「そこだけは、アカネ達を見てるからな」
レオはその火筋を見ながら、短く言う。
「ここまでだ」
「分かってる」
火はそこで、村の外れの木柵近くの地面を焦がし、わざと不自然な爪痕のような裂けを残して止まった。
十分だ、何か火を持つ魔物が近くまで来たと見えるには。
レオがガレスを見る。
ガレスは小さく頷く。
老剣士の役目は、万一想定外が出た時の切り捨てだ。
だが今のところ、まだ予定通りだった。
ウェルナー村の中では、その直後にオットーが走った。
「火だ!」
「火の魔物だ!」
その声は、あまりに切実だった。
演技ではなく、本気で叫んでいる人間の声だ。
それが逆によかった。
村人たちは本当にざわめいた。
ただの騒ぎではない。
今朝、森の外れで焦げ跡が見つかっていたからだ。
また、犬に似た小獣が焼けて転がっていた。
下地はもうある。
「またか!」
「本当にいるのか!?」
「子供を下げろ!」
「水桶!水!」
女たちが動き、男たちが槍や斧を持って出る。
だが、その混乱の中心には、まだ一人足りない。
名代だ。
「書記官殿!」
オットーは、わざと人の目のある中で執事へ向かった。
「名代様へ!」
「分かっている!」
書記官は、あえて大きな声を出した。
「名代様へお伝えしろ!火の魔物が村の外れへ出た!」
「はい!」
人の目が、一斉に名代屋敷の方へ向く。
これが大事だった。
村全体の視線。
後でそう見えたと言う人間の数。
名誉の戦死は、目撃者が多いほど強くなる。
現伯爵の弟、ウェルナー村名代エーゴンは、最初は出てこなかった。
屋敷の奥にいた。
いや、奥へ引っ込もうとしていた。
「ま、魔物だと!?」
「は、はい!」
「なぜもっと早く言わん!」
「先ほど気づいたばかりで!」
下男が慌てて答える。
エーゴンはその場で顔を青くし、窓の方を見た。
外ではざわめきが広がっている。
人の声、火を恐れる声。
そして混乱。
その中で、書記官が一歩前へ出た。
「名代様」
「な、何だ」
「今こそ、お立ちになる時です」
「は?」
「村の者たちは、皆、不安に震えております」
「ここで名代様が前へ立ち、魔物を退ければ」
「それはウェルナー伯爵家の名誉となります」
そこで、男の目がわずかに揺れた。
恐怖ではない。
恐怖の向こうにある、虚栄だ。
書記官はそれを見逃さなかった。
「アルヴェインの村に遅れを取ってはなりません」
「アルヴェイン?」
「向こうでも、若い名代が自ら前へ出て村をまとめているとか」
「そうなのか」
それは嘘ではない。
だが、使い方がえげつない。
「ここで名代様が火の魔物を退けたとなれば」
「本家への報告も、極めて栄えあるものとなりましょう」
「そ、そうか」
エーゴンはそこでようやく喉を鳴らした。
恐れている。
だが同時に、頭の中ではもう、立派に見える自分が膨らみ始めている。
「わ、私が前へ出る」
「さすがです、名代様」
その声は平坦だった。
だが周囲から見れば、忠義ある部下が主を立てているように見える。
「槍だ!いや、剣だ!」
「剣を持て!」
「こちらに」
差し出されたのは、名代用に飾り立てられたそこそこ見栄えのする剣だった。
実戦向きではない。
だが本人は、その重みだけで少し気分が上がったらしい。
「村人を集めろ!」
「すでに広場へ出ております」
「よし、よし」
震えてはいる。
だが、もう引っ込めない。
人が見ているからだ。
書記官が持ち上げたからだ。
そして何より、この場を収めれば手柄になると思っているからだ。
広場では、村人たちがざわめいていた。
外れの方からは、まだ焦げた匂いが流れてくる。
風に乗る熱もある。
オットーは男たちを前へ出しすぎないよう抑え、火の筋を必死に語っていた。
「尾みたいに走った!」
「火が低く流れて!」
「木の根元が焼けてた!」
その描写が、村人たちの恐怖を現実へ変えていく。
「本当に火の魔物だ」
「どうするんだ」
「柵を越えたら終わりだ」
そこへ、名代エーゴンが剣を持って出てきた。
ざわめきが一瞬で止む。
顔色は悪い。
足取りも硬い。
だが、本人は必死に胸を張っていた。
「皆、落ち着け!」
声は裏返りかけている。
それでも、人前へ出たこと自体は事実だ。
「私がいる!」
「火の魔物ごときに、この村を渡すわけにはいかん!」
そこで、書記官がすかさず一歩後ろから支える。
「さすが名代様!村をお守りくださるのですね!」
「当然だ!」
そのやり取りを、村人たちは見ている。
見て、覚える。
後で語るために。
オットー、わざとらしくない範囲で怒鳴る。
「道を開けろ!名代様が前へ出る!」
「お、おう!」
「水桶は後ろだ!女、子供は下がれ!」
流れができる。
名代が前へ、村人がそれを見る。
火の脅威が外れにある。
筋書きは、もう整っていた。
森の縁、村からは死角になる位置で、レオ達はその流れを見ていた。
自分達は表へ出ない。
出てはいけない。
だが、ここまでは見届ける必要がある。
エルマーは、少し離れた位置で火の気配を抑えながら、低い声で囁いた。
「見事に食いついたな」
「これで筋は通る」
レオは村の外れを見た。
名代らしき男が、村人たちの目の前で前へ出てくる。
剣を持ち、怯えながらも、自分が守る側に見える位置へ立つ。
それが必要だった。
「ここから先だ」
レオがそう言った時、風が少しだけ変わり、焦げた匂いが村側へ流れた。
村人たちのざわめきが、またひとつ強くなる。
火の魔物が本当に近い。
そう思わせるには十分だった。
エーゴンはそこで、剣を握る手にさらに力を込めた。
顔はまだ青い。
だが、もう引けない。
引けば、今この場で守ると言ったのに下がった男になる。
だから、前へ出るしかない。
「行くぞ」
とレオは小さく呟いた。
最終フェーズは、もう始まっている。
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