第4話 西の柵、巨大猿襲来
バルドに案内され、俺たちは村の中を一通り見て回った。
井戸は村の中央にひとつ。
石積みはところどころ崩れ、滑車も軋んでいたが、幸い水そのものはまだ生きていた。
桶を下ろせば、ひんやりとした水が汲み上がる。
濁りも、今のところは少ない。
俺は桶の水を手ですくって口に含んだ。
冷たい。
鉄臭さも泥臭さもわずかだ。
贅沢は言えないが、飲める。
「枯れてはいないな」
「これが死んだら終わりだ」
バルドがぶっきらぼうに言う。
「雨の多い時期はまだいい。だが乾く時期は水位が下がる。前はもっと深く掘る話もあったが…」
「逃げた連中が途中で放り出したか」
「そういうことだ」
次に見たのは食料庫だった。
食料庫と呼ぶには粗末な、板張りの倉庫。
中にあったのは、干し肉がわずか、干し魚が少々、豆と麦が樽にいくつか。
芋に似た根菜も少しあったが、数は知れている。
塩もあるにはあるが、十分とは言い難い。
飢え死に寸前というほどではない。
だが、余裕はまるでない。
「何日持つ」
俺が聞くと、バルドは少し考えてから答えた。
「節約して、二十日かそこらだ」
「狩りは?」
「できる時はする。だが森の浅いところはもう獲物が少ない。奥に入れば今度は別のものに狩られる」
俺は黙って倉庫の中を見渡した。
絶望するほどではない。
だが、安心できる量でもない。
村の命綱が、細い細い糸一本でどうにか繋がっているようなものだった。
「なんとかなりそうですか?」
後ろからテオドールが聞いた。
声はいつも通りやんわりしているが、目だけは倉庫の中身を細かく数えていた。
「ぎりぎり…だな」
「私も同意見です。今すぐ飢えるわけではない。でも、一度でも大きな損耗が出たら崩れます」
「損耗ってのは?」
「人でも食料でも柵でも、何でもです」
テオドールは樽の蓋を閉めながら続けた。
「この村には余力がありません。一つ失えば、連鎖的に全部が苦しくなる」
「嫌な言い方だな」
「事実はたいてい嫌なものです」
その言葉に、バルドが鼻を鳴らした。
「お前、気の抜けた顔のくせに、言うことはまともなんだな」
「ありがとうございます。あまり褒められ慣れていないので困ります」
「褒めてねえよ」
「でしょうね」
それでも、ほんのわずかだが空気が和らいだ気がした。
日が傾くころには、村の全体像はおおむね掴めていた。
水はまだある。
食料も、すぐに尽きるわけではない。
使える家は半分ほど。
畑は痩せているが、完全に死んではいない。
人手は少ないが、働ける大人は残っている。
どれもこれも心許ない。
だが、ゼロではない。
そこまではよかった。
問題は、村の西側だった。
西の柵は、他と比べて明らかに傷みがひどい。
木杭は何本も根元から折れ、横木はへし曲がっている。
しかも、ただ壊れたのではない。
何かが繰り返し叩きつけられ、あるいは掴んで引き裂いたような跡が、そこかしこに残っていた。
地面も荒れている。
ぬかるみに巨大な手形のような窪み。
土を抉った跡、踏み潰された草。
俺はしゃがみ込み、その跡に手を当てた。
でかい、人の手ではない。
オーガでも、ここまでではないだろう。
「ガレス」
ガレスは無言で近づき、跡を見下ろした。
そして、短く吐き捨てる。
「猿だな」
「猿?」
「前に似たのを帝国の山岳地帯で見たことがある。もっと小せえやつだったが」
「どれくらい危険だ」
「正面からやりあうのは馬鹿だ」
それは、ガレスにしてはかなり強い言い方だった。
「騎士団ならどうだ」
「数を揃えて槍並べりゃ、勝てるかもしれねえ。だが死人は出る」
「…そうか」
「しかもここは狭い。突進されりゃ柵ごと吹き飛ぶぞ」
その横で、テオドールが折れた木片を拾い上げていた。
「叩き壊した、というより…」
「腕で払ったようにも見えますね、力任せに」
テオドールは西の森を見た。
「日没後に来る可能性が高いです。昼に近寄らないのは、こちらを警戒しているからか、夜行性寄りか」
「両方かもしれん」
ガレスも森の方を見ながら返す。
「ええ。嫌な話です」
嫌な話どころではない。
これが本当に大物なら、今の村ではまともに受け止められない。
柵は薄く、兵もいない。
槍も足りない。
何より、村人たちの顔に何度も同じ恐怖を味わった色がある。
「いつ来る」
俺が聞くと、バルドは西の森を見たまま答えた。
「早ければ今夜だ」
「毎晩か?」
「そんなに律儀じゃねえ。来る時は続けて来るし、来ねえ時は数日来ねえ。だが、来たら持っていかれる」
「持っていかれる?」
「家畜も、人も、壁もだ」
ぞっとする言い方だった。
だが、誇張ではないのだろう。
村人たちの顔が、それを語っていた。
夜は、思っていたより早く落ちた。
新大陸の夜は濃い。
夕暮れが終わったと思った次の瞬間には、森の奥がもう墨を流したように暗くなる。
村の中央で焚き火が焚かれ、見張りが配置された。
西側には動ける男たちを集め、ありったけの槍と鉈を持たせる。
女たちと子供は中央寄りの家へ。
戸板を増やし、灯りを絞る。
あまりに心許ない防衛だった。
だが、何もしないよりはましだ。
「西から来ると決め打ちしていいのか」
柵の内側で槍を立てながら、俺はテオドールに聞いた。
「痕跡が偏っています。少なくとも本命は西でしょう」
「外したら?」
「その時は潔く諦めましょう」
「諦めが早いな」
「希望的観測で死ぬよりはましです」
さらりと言う。
こいつは本当に、こういう時でも声が変わらない。
そのわりに、手にした松明が少し揺れていた。
怖くないわけではないのだろう。
ガレスは柵の前に立ち、短く指示を飛ばしていた。
「いいか、近づくまで無駄に騒ぐな。槍は突き出すんじゃねえ、壁にするんだ」
「突き殺そうと思うな。怯ませろ、足を止めろ、分かったな」
住民の男たちが、強張った顔で頷く。
素人だ。
だが、逃げ腰ではない。
ここで踏ん張らなければ終わると分かっているからだ。
俺は剣の柄に手を置いた。
心臓が妙に静かだった。
戦場では、こういう時ほど落ち着く。
むしろ静かすぎる時の方が嫌だ。
耳を澄ませる。
虫の音。
焚き火のはぜる音。
遠くの、波のような森のざわめき。
そして、地面の奥が鈍く鳴った。
全員の顔が強張る。
もう一度。
ゆっくりだが、一歩ごとに確かな重みがある。
「来たな」
ガレスが低く言う。
西の森の闇が、ゆっくり揺れた。
木々の間に、何かがいる。
いや、何かというには大きすぎた。
最初に見えたのは腕だった。
異様に長い。
丸太のように太く、だがしなやかで、地面すれすれまで垂れている。
その先の手は人のそれに似ていながら、ひと回りもふた回りも大きい。
次に、顔。
ぬっと闇の中から突き出たそれを見て、何人かが息を呑んだ。
茶色い体毛。
盛り上がった肩。
短い足。
そして、異様に大きい顔。
人に似ているのが、逆に不気味だった。
鼻面は低く、口は広く裂け、黄色い歯がのぞく。
ぎょろりとした目が、柵の向こうのこちらを見下ろしていた。
立ち上がれば、三メートル近い。
いや、見上げる角度からすると、それ以上あるようにも感じる。
「…おいおい」
誰かが掠れた声を漏らした。
巨大な猿。
そう呼ぶしかない姿だった。
だが、猿というにはあまりにも大きく、あまりにも重く、あまりにも人を殺すための形をしている。
そいつは四つ足に近い姿勢で柵の外に現れ、鼻を鳴らした。
湿った息が夜気に混じる。
そのたび、筋肉の塊みたいな肩が動いた。
柵の向こうに立つだけで、圧がある。
村人たちの喉が鳴るのが分かった。
無理もない。
これは、村人が農具で追い払うような相手じゃない。
下手をすれば、正規の騎士団が数を揃えて当たる類だ。
俺も、直感で理解した。
やばい。
真正面から殺し合っていい相手じゃない。
「レオ」
ガレスの声が低い。
「分かってる」
剣を抜きながら答える。
「真正面はない」
「そうだ、受けるな」
「ああ」
巨大猿は、柵の中の俺たちをじっと見た。
まるで、値踏みするみたいに。
次の瞬間、風を切る音がした。
長い右腕が横薙ぎに振られ、木柵に叩きつけられる。
嫌な音が夜を裂いた。
一本、二本ではない。
横木ごと、まとめて吹き飛ぶ。
破片が雨みたいに飛び散り、後ろにいた男が悲鳴を上げて転んだ。
「壁がもたねえ!」
バルドが叫ぶ。
「下がるな!散るな!」
俺は怒鳴った。
ここで崩れれば終わる。
恐慌だけは駄目だ。
猿は壊れた柵の隙間から、さらに腕を突っ込んできた。
ただ掴むだけで、人の胴ほどもある丸太が軋み、ひしゃげる。
力の桁が違う。
住民のひとりが思わず槍を突き出した。
穂先が猿の腕に当たる。
だが浅い。
毛皮と分厚い筋肉に阻まれ、刺さり切らない。
巨大猿の目が鋭く光った。
「まずい!」
ガレスが叫ぶのと同時に、猿の腕が槍ごと男を薙ぎ払った。
男の体が横に吹き飛び、地面を転がる。
巨大猿が咆哮した。
腹の底に響く、野太い声。
空気そのものを震わせるような唸り声だった。
正規の騎士団で掛かる相手だ。
その感覚は間違っていない。
こんな村の寄せ集めで、まともに受けていい敵ではない。
だが、逃げる場所もない。
「テオドール!」
叫ぶと、少し後ろにいた書類屋がびくりと肩を震わせた。
顔色は悪い。
悪いが、目はちゃんと開いている。
「策はあるか!」
「ありますよ!あってほしくはありませんでしたが!」
珍しく声が少し上ずっていた。
それでも、言葉ははっきりしている。
「真正面は無理です!足を止めるしかない!火か、転倒か、どちらかです!」
「火は効くか!」
「獣なら嫌います、でも怒る可能性も高い!」
「転ばせる方がましか」
「ええ!足場を崩せるなら!」
その時、ガレスが唸るように言った。
「西柵の外、少し低くなってる。あそこに落とせりゃ足が止まる」
「罠にする時間は!」
「ねえな!」
だったら即興だ、俺は一瞬で頭を回す。
壊れた柵。
長い腕に短い足。
重さも力もある、正面から受ければ潰される。
だが、重いなら…崩せる。
「バルド!西の外、掘れた場所はどれくらい深い!」
「人の胸くらいだ!雨で崩れてる!」
「十分だ!」
俺は剣を構え直し、喉が裂けるほどの声で叫んだ。
「全員、正面から殺そうとするな!狙うのは足だ!右へ誘導しろ!西の窪みに落とす!」
村人たちの顔が揺れる。
恐怖と混乱。
それでも、俺は続けた。
「聞け!あれをここで止めなきゃ、家も子供も全部潰れる!やるしかない!」
巨猿がもう一度、柵を叩き壊した。
夜の闇の中で、茶色い巨体がさらに前へ出る。
でかい、臭い。
毛皮と泥と獣臭さが混ざった、生温い匂いが流れてくる。
だが怖じけづくな。
戦場で学んだことはひとつだ。
勝てない相手に勝つには、相手の土俵から引きずり下ろすしかない。
「ガレス!俺が前に出る!」
「死ぬなよ、小僧!」
「死ぬ気はない!」
巨大猿が、牙を剥いた。
俺は壊れた柵の前へ踏み込む。
これは英雄譚じゃない。
一騎打ちでもない。
でかい化け物を、まともにやり合わず、どうにか嵌めて、生き残るだけの戦いだ。
だが、それでいい。
生き残れば、次がある。
ここで村を守れれば、信じさせられる。
俺は息を吸い、剣先を低く落とした。
「来い、化け物猿」
夜の闇の向こうで、巨大猿の腕が再び大きく振り上がる。
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