第37話 温かい皿と、救いを乞う村
オットーが通されたのは、村の奥にある一番ましな家だった。
いまは、レオやガレス、テオドール、エルマーが寝泊まりに使っている。
巨大猿の珠や、火の魔石もここに保管されている。
ただし今は、それらはすべて奥へ下げられている。
目の前の男に見せる必要はないし、見せるべきでもない。
レオはそれを確かめてから、戸口の方へ目をやった。
「マルタ、食事の用意を」
「…あいよ」
マルタは短く答え、オットーを一度だけ見た。
森の向こうから来た男。
襲撃の下見を命じられた人間。
本来なら、鍋をひっくり返して追い出してもおかしくない相手だ。
それでも女衆は、黙って皿を置いた。
焼き立てのパン。
温かい汁。
それに目玉焼きをひとつ。
「食べな」
オットーは、しばらく目の前の皿を見ていた。
信じられない、という顔だった。
「…いいのか」
「今ここで毒なんか盛るくらいなら、最初から外で斬ってるよ」
マルタのその返しに、男は喉を鳴らした。
「そう…だな…」
そして、ようやく手を伸ばす。
最初の一口は、ほとんど飲み込むようだった。
パンを噛み、汁を啜り、目玉焼きを口へ運ぶ。
その瞬間、オットーの顔が崩れた。
泣きそうな顔だった。
いや、実際、少し泣いていたのかもしれない。
「…温かい」
ぽつりと、それだけ漏れる。
レオも、ガレスも、テオドールもエルマーも何も言わない。
ただ、食わせる。
オットーは二口、三口と急いで食べかけて、それからはっとしたように動きを落とした。
腹が減りすぎた人間の癖だ。
一気に詰め込めば、逆に体が受けつけない。
「ゆっくり食え」
ガレスにしては優しい声だ。
「…ああ」
「その皿は逃げねえ」
「分かってる」
分かってはいても、手はまだ少し震えていた。
食事が終えたとことで、レオはようやく口を開いた。
「話してくれ」
「…ああ」
オットーは、最後に汁をひと口飲み、それから皿を置いた。
さっきよりは、少しだけ人の顔色に戻っている。
「ウェルナー伯爵家の開拓村は…ひどい」
「どこもそうだろうが、じゃなくてひどいか」
「ひどいです」
男は乾いた声で言った。
「最初に来た時は、まだ皆、希望があった」
「何人で入った」
「九十くらいだ」
「今は」
「七十…いや、六十台後半かもしれない」
その数字に、テオドールが静かに眉を寄せる。
「減り方が早いですね」
「病気もあった、怪我もあった、魔物にやられたのもいる」
「飢えは?」
「…それもある」
オットーは少し目を伏せた。
「最初の年で畑がうまくいかなかった」
「水か」
レオが問う。
「水もだ、土も痩せてた、種も足りなかった」
「森から取れなかったのか」
「でも、村全体が回るほどじゃない」
「商隊は」
「ろくに来ない」
ハウルの話が裏付けられる。
新大陸の多くの開拓村が、まともな流れを持てずに潰れかけている。
「で、名代は何してる」
ガレスが訝しむ。
その問いで、オットーの顔が明らかに歪んだ。
「…現伯爵の弟です」
「無能か」
「無能…です」
即答だった。
そこに迷いはなかった。
「戦えない、指揮もできない」
「森も知らない、村も見ない、計算もできない、書類だけは偉そうに抱えてる」
「絵に描いたようだな」
とガレスが吐き捨てる。
オットーは苦く笑った。
笑いにはなっていない顔だ。
「最初は、貴族様が何とかしてくれると思ってた」
「でも、何もしなかった」
「いや、正確には自分のことだけしてた」
その言い方で、レオは少し目を細めた。
「どういう意味だ」
「酒だ」
「酒?」
「商人がたまに持ち込む安酒を、真っ先に自分の屋敷へ回す」
「食い物は?」
「少しでもましな保存食があれば、自分の分を先に確保する」
「…最低だな」
バルドが怒りを隠さない。
だが、オットーはまだ終わらなかった。
「それだけじゃない」
声が、少しだけ硬くなる。
「村の若い女にも手を出してる」
部屋の空気が、一段冷えた。
レオは何も言わない。
だが、その無言が一番重い。
「無理やりか」
とガレスが低く聞く。
オットーはすぐには答えなかった。
それが答えだった。
オットーの言葉は、絞るように出た。
「家族に食料を回してほしいならとか、男手を危険な班から外してやるとか」
「そういうのを、ちらつかせて」
マルタが、戸口のところで無言のまま立っていた。
最初から聞いていたのだろう。
顔が硬い。
今にも何か言いそうで、だが言葉にならない顔だった。
「でも、逆らえば危険な伐採や森の奥へ回される。あるいは反逆だって騒がれる」
「家族を食わせる側ほど、黙らされるんです」
テオドールが、そこで静かに息を吐いた。
「典型ですね」
「典型?」
レオがテオドールを横目で見た。
「ええ。能力のない権力者が、一番近くて抵抗しづらい相手に手を出す形です」
「そんなことに詳しいのも嫌だな」
「歴史書にも、風土記にも、嫌になるほど出てきます」
そう言いながら、テオドールの顔は少しも軽くなかった。
そのまま、オットーへ視線を向ける。
「村の空気はどうです?」
「死んでます」
もうごまかさなかった。
「皆、腹が減ってる」
「誰かが死んでも、次は自分じゃないといいくらいしか言わない」
「若い女は、名代の屋敷に呼ばれるたび顔色が変わる」
「男はそれを見てるしかない」
「反発する元気も、怒鳴る元気も、もうないんです」
静かだった。
外ではパン炉の火が、まだ熱を抱いているはずだ。
雛たちも、檻の中で鳴いているだろう。
ここ数日、村はずっと前へ進む話ばかりしてきた。
その流れの中で、オットーの話だけが別の方向から刃を差し込んでくる。
こうなる村もある。
同じ新大陸で、紙一重で。
オットーが吐き出した後、レオが確認するように聞く。
「それで、襲う話が出たってことか」
「そうです」
「皆、賛成したのか」
「してません」
「じゃあ、なぜ止まらない」
「…止める形がないんですよ」
オットーは拳を握った。
「名代が言えば、それが命令になる」
「逆らえば、今度は村を危険に晒した反逆者だ」
「しかも、そいつは自分では手を汚さない」
「どういう意味だ」
「偵察も、襲撃も、全部お前たちのためだって顔で押しつける」
そこまで聞いて、ガレスが低く吐き捨てた。
「一番嫌な種類の無能だな」
「ええ」
そして少しだけ目を伏せて続けた。
「俺たちは、こっちを襲いたいわけじゃない」
「でも、このままだとやらされる、だから…」
「助けてくれ、か」
「そうです」
レオは長く黙った。
その沈黙のあいだ、誰も何も言わなかった。
部屋の中にあるのは、オットーの空いた皿と、まだ少し残る温かい汁の匂いだけだった。
「テオドール」
「はい」
「どう見る」
「話自体は本当でしょう」
テオドールは迷わなかった。
「理由は」
「細部が生々しすぎます。作り話なら、もっと分かりやすく悪い領主にします」
「ですがこれは違う。無能で、嫌らしくて、しかし完全な狂人でもない」
「そこが厄介か」
「村を壊すには十分です」
「しかも、ここがアルヴェイン侯爵家と関係のある村と理解してやってるとしたら」
「したら?」
「救いようのない馬鹿ですね」
ガレスも頷く。
「放っときゃ、そのうち本当に来るな」
「来るでしょうね」
テオドールも同意を示す。
「しかも、襲うしかない顔をした開拓民を前に出して」
「最悪だな」
「ええ、最悪です」
レオはオットーを見た。
「お前、戻る気はあるか」
「…戻らなきゃ、村の連中が疑われる」
「そうか」
「でも、このまま何も持たずに帰れば、襲撃の準備に入る」
そこまで言って、オットーは歯を食いしばった。
「正直に言う。時間がない」
「次に来る時は、もう話すためじゃないかもしれない」
部屋の空気が、また重くなる。
ここから先は、かわいそうだ”だけではどうにもならない。
村を守るか。
向こうをどうにかするか。
あるいは両方か。
そして、そのどれを選んでも簡単ではない。
レオは、ゆっくり息を吐いた。
「分かった、もう少し詳しく聞く」
「何を」
「襲撃の予定人数、食料の備蓄、武器の質、名代の事、村の構造」
「助けるにしろ、叩くにしろ、全部要る」
オットーはその言葉を聞いて、ようやく少しだけ目を上げた。
そこに希望があるのか、まだ疑っているのか、自分でも分かっていない顔だった。
だが少なくとも、レオが話をここで切らなかったことだけは伝わったらしい。
「分かった…全部話す」
話を詰めれば詰めるほど、結論はひとつに寄っていった。
ウェルナー伯爵家の開拓村を立て直す。
襲撃を止め、飢えた開拓民を落ち着かせる。
その全部の前に、どうしても邪魔なものがある。
名代だ。
現伯爵の弟。
戦えず、治められず、食料を握って女を脅し、最後には他所を襲えと命じる男。
「…結局、あの名代をどうにかするしかないな」
レオがそう言った時、部屋の中の全員が、嫌でも同じところへ辿り着いていたのだと分かった。
ガレスは腕を組んだまま黙っている。
バルドは苦い顔だ。
オットーは俯き、拳を膝の上で握っていた。
テオドールだけが、ほんのわずかに目を細めている。
「ええ」
テオドールは静かに言った。
「そこは否定できません」
「だが」
レオはそこで言葉を切り、少しだけ息を吐いた。
「腐っても貴族だ、しかも伯爵家」
「そうですね」
テオドールは頷く。
「ぞんざいに扱える爵位ではありません」
ガレスが苦虫を嚙み潰したような顔で言葉を吐く。
「仮に転がしたとしても、誰が手をかけたか必ず調べる」
「貴族ってのは、そういうもんだ」
「面子の生き物だからな」
レオも同意する。
そこはよく知っていた。
能力がなくても、役に立たなくても、外聞だけは守ろうとする。
まして伯爵家だ。
弟が辺境で野垂れ死んだ、しかも部下か他家に始末された、などという話は絶対に飲まない。
真相を暴くためではない。
面子を保つために、犯人探しと報復に動く。
「…面倒ですね」
テオドールがぼやく。
「だから貴族は面倒なんだよ」
レオがうんざりした顔で言葉を落とした。
オットーが、小さく喉を鳴らした。
「じゃあ…どうするんです」
「そこでだ」
レオは椅子の背に少しだけ体重を預けた。
それから、ひどくあっさりした声で言った。
「名誉の戦死をしてもらう」
「…は?」
全員の口から言葉が漏れた。
「名誉の戦死だ」
とレオは繰り返す。
部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
バルドが真っ先に顔をしかめた。
「おい、待て」
「待たん」
「いや待て、言ってることは分かるが、分かりたくねえ」
「だいたいそういう時は、分かってる時だ」
「嬉しくねえな、その確認」
ガレスは黙ったままだったが、否定はしなかった。
テオドールがゆっくり目を上げる。
その目は、面白そうだが胃が痛い時のものだった。
「どういう意味です?」
「そのままだ、名代殿は名誉の戦死をなされるんだよ」
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