第36話 粗末な剣と、救いを求める声
翌朝、まだ空が白みきる前に、ガレスは一人で起きていた。
村の中は静かだ。
パン炉の熱だけが、かすかに生きている。
見張りの交代も終わったばかりで、人の気配は薄い。
こういう時間が、一番いい。
夜の気配がまだ残っていて、
昼の足音がまだ上書きしていない。
「…さて」
老剣士は短く呟き、剣だけを持って外へ出た。
連中がいた辺り。
昨夜、矢を打ち込んだ森の縁。
そこを一人で探る。
大人数はいらない。
こういうのは、音を立てる方が邪魔だ。
湿った土、踏まれた草、枝の折れ具合。
夜のうちに逃げた人間の痕跡は、朝一番が一番よく見える。
ガレスは腰を落とし、地面を見た。
「…浅いな」
足跡がある。
五人前後。
それは昨夜の勘通りだった。
だが、歩幅が狭い。
踏み込みも甘い。
森に慣れた人間の足運びではない。
慌てて引いた跡もある。
矢が刺さった木から離れる時、足をもつれさせたような乱れまで見えた。
「やっぱり半端者だな」
傭兵崩れでもない。
ましてや兵でもない。
夜襲や偵察に慣れたやつなら、あんな乱れ方はしない。
もっと静かに、もっとまともに消える。
ガレスはさらに先へ進んだ。
少し奥。
昨夜、影が揺れた辺り。
そこで、ふと足を止める。
「…なんだこりゃ」
木の根元に、何かが落ちていた。
剣だ。
いや、剣と呼ぶのも少し迷うくらい、粗末な代物だった。
刃は短く、幅も不揃い。
研ぎも甘い。
鍔は曲がり、柄巻きは半分ほど解けかかっている。
しかも刃こぼれがひどく、錆まで浮いていた。
ガレスは拾い上げ、朝の薄い光へかざす。
「…こんなん、ゴロツキですら使わねえぞ」
思わず声に出た。
街道荒らしのゴロツキだって、もう少しましな刃を持つ。
喧嘩慣れした連中なら、道具だけは妙に執着するものだ。
だがこれは違う。
武器ですらない。
何かあった時のために、無理やり剣の形にして持たされた鉄に近い。
しかも、それを慌てて置いていった…つまり。
「本当に追い詰められた素人か」
ガレスは眉をひそめた。
別の開拓村の連中。
あるいは、そこから流れた人間。
食い詰めて、武器にもならんものを握って、夜の村を見に来た。
その線が濃くなった。
嫌な話だ。
だが同時に、見え方も少し変わる。
襲撃専門の連中じゃない。
腹を決めて奪う側ではなく、どうしようもなくなって様子を見に来た側かもしれない。
「…だからって、甘く見る気はねえがな」
ガレスは粗末な剣を腰へ差し込まず、そのまま手に持って村へ戻った。
レオが起きた時には、ガレスはもう広場の机代わりの板へ、その粗末な剣を置いていた。
「なんだ、それ」
寝起きの声でそう言いながら近づいてきたレオは、剣を見た瞬間に顔をしかめた。
「拾った」
「どこで」
「昨夜の森の縁だ。連中がいた辺り」
「…これを置いていったのか」
「ああ」
レオは剣を持ち上げた。
軽い、だが安っぽい軽さだ。
刃は鈍く、重心も悪い。
まともに振っても、自分の手首を傷める方が先だろう。
「ひでえな」
「だろ」
「こんなんゴロツキですら使わねえぞ」
「俺も同じことを思った」
そこへ、テオドールも紙束を抱えて現れた。
朝からもう仕事をする顔だ。
「何かありましたか」
「これだ」
とレオが剣を示す。
テオドールは受け取らず、まず目で見た。
そして珍しく、すぐに眉を寄せた。
「…粗悪ですね」
「言葉が優しいな」
「もっと正確に言えば、武器として不適格です」
テオドールはそこで、静かに考え込む顔になった。
「これを持っていた、ということは」
「慌てたんだろうな」
とレオ。
「ええ、問題はこれを持っていた人間がどういう層かです」
ガレスが頷く。
「戦慣れしてるやつじゃねえ」
テオドールは剣を見たまま答えた。
「食い詰めた素人、あるいは別の開拓村の連中ですね」
「やっぱりそこか」
「まともな武器は手に入らない。けれど完全に丸腰では怖い。だから剣っぽいものを持ってきた」
「ひでえ話だな」
とバルドが、後ろからいつの間にか聞いていたらしく、吐き捨てるように言った。
「別の村も、そんなに詰んでるってことか」
「十分あり得ます」
テオドールが同意する。
「新大陸はうち以外ほぼ失敗してる、とハウルも言っていましたし」
レオは黙って剣を見下ろした。
昨夜は、ただ知らない男たちだった。
だから警戒した、それは正しい。
だが、こうして残されたものを見ると、別の面も浮かぶ。
飢えた人間かもしれない。
追い詰められた開拓民かもしれない。
村を襲うほどの悪意はまだなくても、腹が減りすぎれば、いずれそうなるかもしれない。
「面倒だな」
レオがぽつりと言う。
ガレスが頷く。
「面倒だ、敵なら斬ればいいで済まないかもしれん」
「済まねえな」
「だが、村を危険に晒すわけにもいかん」
「それもそうだ」
テオドールが静かに口を開いた。
「段階が必要でしょうね」
「段階?」
レオが眉を上げた。
「いきなり敵認定もしない。かといって無警戒にもならない」
「…続けろ」
「向こうが本当に食い詰めた別の村の連中なら、また来ます」
「だろうな」
「その時、こちらから線を引いた上で接触する」
「昼間にか」
「夜は駄目です。向こうも怯えますし、こちらも判断を誤る」
ガレスが鼻を鳴らした。
「昼間外周で見張る。来るなら声をかけ、そこから話す」
「盗る気満々だったら?」
バルドが少し声を落とす。
「その時は叩く」
「そうですね」
テオドールも同意する。
「ですがこの剣を見る限り、最初から襲う準備が整った連中とは思いにくい」
「飢えた村、か」
「その可能性は高いです」
レオはしばらく考え、それから剣を机へ戻した。
「…昼の見張りを増やす、相手の出方を見る」
答えは簡単ではない。
けれど、それでよかった。
この村は、もうただの怯えた村ではない。
守るものがある。
だが、外にいるのが本当に追い詰められた人間なら、ただ斬るだけで済ませたくもない。
「…ほんと、村の頭らしい面倒の抱え方してんな」
ガレスが少し茶化すように笑う。
「うるさい」
「褒めてるんだよ」
「半分くらいだろ」
「いや、今日は八割だ」
「上がったな」
「面倒さも増しだがな」
その返しに、小さく笑いが起きた。
だが、笑って終われる話ではない。
粗末な剣一本が、村の外にある現実を突きつけていた。
自分たちだけが苦しいわけじゃない。
新大陸のどこかで、もっと酷い形で潰れかけている村があるかもしれない。
そして、その影がもうここまで来ている。
レオは剣をもう一度見た。
ひどい代物だ。
武器と呼ぶにはあまりに粗末で、悲しいほど頼りない。
だからこそ、妙に重かった。
昼の見張りは、夜よりも神経を使った。
夜なら影があり、闇が隠してくれる。
だが昼は違う。
見える分だけ、誤魔化しが利かない。
向こうが人なら、人として出てくるかどうかも含めて、全部が試される。
ガレスは水路と森の境目あたり、少し高くなった場所に立っていた。
剣も帯びていない、短剣のみを忍ばせている。
戦う気満々に見せるより、出てくるなら出てこい、という立ち方の方がいい時もある。
風は弱い。
森の縁は相変わらず濃い。
その暗がりの中で、ひとつ動くものがあった。
「…来たか」
ガレスは小さく呟いた。
男が一人、森の影から出てくる。
武器は持っていない。
いや、腰に何かは差しているが、抜く気配はない。
歩き方はぎこちない。
だが、昨日の夜にいた連中のひとりだと、老剣士にはすぐ分かった。
気配の甘さに、足の運び。
何より、隠れようとして隠れきれていない人間の匂いが同じだった。
「そこで止まれ」
ガレスが低く言う。
男はぴたりと止まった。
年は三十前後か。
日に焼け、痩せ、服は汚れている。
農民崩れのようにも、開拓民のようにも見える。
少なくとも、兵ではない。
「それ以上来るな」
「…分かった」
男の声は掠れていた。
緊張もしている。
だが、それだけではない。
追い詰められた人間の声だ。
男はその場で、ゆっくり両手を上げた。
敵意がないと示す仕草なのだろう。
雑だが、少なくとも本気で殺しに来た人間の動きではなかった。
「昨夜のやつか」
「…ああ」
「他の連中は?」
「森の向こうで待たせてる」
「数は」
「四人」
「やっぱり、昨夜は五人か」
男はそこで、ぐっと唇を噛んだ。
それから、いきなり頭を下げた。
「助けてくれ」
その言葉に、ガレスは眉一つ動かさなかった。
驚きもしない。
ただ、目だけが少し鋭くなる。
「話は後だ」
「でも」
「ここで喋るな」
「ついてこい。変な真似したら、その場で転がす」
「分かった」
男はすぐ頷いた。
その素直さが、余計に切実だった。
村の外れまで戻ったところで、見張りの若者が目を剥いた。
「ガレスさん!」
「騒ぐな、レオを呼んでくれ」
見張りの若者は、すぐに広場のほうへ走り出した。
レオが呼ばれ、テオドールが来て、バルドもすぐ現れた。
女や子供は少し離される。
だが、村全体がぴんと張るのが分かる。
知らない男。
しかも昨夜の連中のひとり。
レオは男を見た。
顔は疲れきっている。
視線は落ち着かず、それでも逃げはしない。
レオは、男の正面に立った。
「名前は」
「オットーです」
「どこから来た」
「…ウェルナー伯爵家の開拓村からです」
その一言で、広場の空気がまた少し変わる。
「ウェルナー伯爵家」
とテオドールが低く繰り返す。
「やはり他所の開拓村でしたか」
「知ってるのか」
レオがテオドールを振り返る。
「名前だけは。森を隔てた北西側に、伯爵家の入植地があるという話は聞いていました」
「まともに機能してるって話は?」
「聞いていません」
その返答は、ある意味すべてを物語っていた。
レオはオットーへ視線を戻す。
「何しに来た」
「偵察…です」
その言葉に、バルドが露骨に顔をしかめる。
「偵察して、その後は?」
「…襲撃です」
広場が静まり返る。
子供たちを家へ戻していた女たちまで、そこで足を止めた。
パン炉の熱だけが、静かに生きている。
「誰が襲撃を決めた」
「領主様が…」
「ウェルナー伯爵家の名代か?」
オットーは、そこで初めてまっすぐレオを見た。
目の奥に、恥と恐れと、どうしようもなさが混じっている。
「どこもそうだろうが…うちの村も、もう限界です」
「食い物が足りない、薬も足りない。冬が来たら、たぶん持たないって皆言ってる」
「そんな時に、ここへ商人たちが足を運んだってのが名代様の耳に…」
「商隊が来たのを見たのか」
オットーは頷いた。
「商人が来るほど景気がいいなら、ここを襲え…と」
その言葉に、今度は怒りより先に、冷たい静けさが広がった。
やはりそうか。
そう思うしかない話だった。
村が回り始めた。
パン炉があり、卵があり、水路も動き始めた。
商隊まで来た。
目立たないわけがない。
「俺たちは止めた」
オットーが、少しだけ声を強くした。
「反対もした。偵察に出る時だって、やめろって言った」
「でも、貴族には逆らえない」
「そうだろうな」
答えたガレスの声は、怒気とやるせなさが混じっていた。
思うところはあるのだろう。
オットーはそこで顔を歪めた。
「それに…旧大陸に、家族を残してきた連中がいるんです」
その一言が、重かった。
レオも、ガレスも、テオドールも、すぐには口を挟まない。
「妻とか、子供とか、親とか」
とオットーは絞り出すように続ける。
「逆らったら、何されるか分からない」
「人質ですか?」
テオドールが確認するように問う。
「……似たようなもんです」
オットーは、そこで初めて拳を握った。
怒っている。
だが、その怒りの向け先を持っていない顔だった。
「村が、飢えているのは本当だ」
「でも、だからって襲いたいわけじゃない」
「けど、逆らえない。逆らったら、自分だけじゃ済まない」
静かだった。
責めるのは簡単だ。
襲うと言われた以上、敵だと斬るのも簡単だ。
だが、今目の前にいる男は、それだけでは割り切れない顔をしている。
ガレスが先に口を開いた。
「で、なんで一人で出てきた、村を売るためか?」
「違う!」
今度ははっきりと、オットーが否定した。
「違う!」
「なら何だ」
「本当に襲う気なら、もう少しまともに見て帰ってる!」
「助けてほしいんだよ」
男の声は、ほとんど悲鳴みたいだった。
「このままじゃ、うちの村はここを襲う」
「そうなったら、そっちだって無事じゃ済まない。こっちだって終わる」
「だから出て来たと」
レオの声は静かだ、ただオットーの真意を図っている。
「何とかならないかと思って」
「何とかって、何だ」
「分からない!」
オットーは頭を抱えかけて、ぎりぎりで堪えた。
「俺は頭のいい人間じゃない!領主の命令をひっくり返す方法なんて知らない!」
「このまま偵察して、襲って、奪って、それで終わる気しかしないんだ」
「こっちは飢えてる。あんたらを襲えば、一回は食えるかもしれない!」
「でも、その後はどうする!次はまたどこか襲うのか!そんなの村じゃねえだろ!」
その叫びは、広場の真ん中に痛いほど響いた。
誰も、軽くは受け止められなかった。
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