第35話 見られる村、牙を見せる夜
その夜、村の空気は昼までとは別物になっていた。
パン炉の熱はまだ残っている。
夕食の匂いも、完全には消えていない。
だが、人の声は低くなり、笑いは消え、足音だけがやけに耳につく。
見張りは増やした。
西の森側、港へ通じる道側。
畑と水路の外縁。
それぞれに二人ずつ。
さらに中央には、すぐ動ける者を残す。
本来なら、レオは中央に残るべきだった。
ガレスもそう言った。
だが、レオの気質がそれを我慢できなかった。
「俺も出る」
「中央にいろって言っただろ」
ガレスが少し怒気を孕んだ言葉を返した。
「見られてるなら、見に行く」
「無茶はするな」
「分かってる」
「その顔は半分しか分かってねえな」
「半分で十分だ」
「足りねえよ」
そう言いながらも、結局ガレスは止めなかった。
止まらないのは、老剣士自身も分かっているからだ。
こういう時、レオを中央へ縛りつけておいても、心だけ先に外へ出る。
それなら最初から連れていった方がいい。
同行するのは、レオ、ガレス、バルド、ユル。
それに、少し離れた位置へ弓を持ったロドを一人置く。
多すぎず、少なすぎず。
夜の外周を見るには、それくらいがちょうどいい。
夜の森は、相変わらず深かった。
月は出ている。
だが木々の影は濃く、地面へ落ちる光は細い。
昼間なら見慣れたはずの外れ道も、夜になると別の場所みたいに見える。
レオたちは村の灯りを背に、ゆっくりと外周を回った。
足音を殺す。
話す時は息だけで。
止まる時は合図だけ。
何度か風が変わる。
水路の方から湿った匂いが来る。
森の奥からは、草と土と獣の匂い。
だが、その中にひとつだけ別のものが混じった。
「…いるな」
最初に言ったのは、ガレスだった。
声はほとんど空気の震えに近い。
だが、レオには十分だった。
「どこだ」
「森の方」
ガレスは顎をわずかに動かした。
西の森。
村の灯りがぎりぎり届かない、その少し外。
木々の影の向こう側だ。
レオは目を凝らす。
最初は何も見えない。
だが、そこに見られている感じがあった。
視線だ。
気配を殺しきれていない。
夜に慣れた獣の目でも、訓練された隠密の沈み方でもない。
もっと雑で、もっと人間臭い。
「数は」
「五…いや、五人前後だな」
「前後?」
「立ち位置が散ってる、正確にはまだ切れん」
ガレスの声は落ち着いていた。
だが、その落ち着きの中に確信がある。
確実にいる。
こちらを見ている。
バルドが槍を握り直す。
「気づかれてるか」
「いや、まだだ。向こうは村を見てる」
ユルが息を呑んだ。
若い。緊張が呼吸に出る。
レオは手で小さく制した。
落ち着け、という合図だ。
「…どう思う」
レオが聞くと、ガレスは少しだけ間を置いた。
風を読む。
立ち位置を見る。
気配の沈み方を見る。
歴戦の傭兵らしい、嫌な静けさだった。
「戦慣れしてる連中じゃねえ」
「理由は」
「まず、沈み方が甘い」
ガレスは森の影を見たまま言う。
「本当に戦場をくぐってるやつは、夜にあんな立ち方しねえ。視線が浮く」
「あと、子供に気づかれてる」
「それもそうだな」
「子供にばれる程度の見方しかできねえなら、貴族の隠密でもない」
「隠密なら?」
「もっと近くまで来て、もっと静かに見る」
「恐らくゴロツキか…」
そこまで言ってから、ガレスは少し声を落とした。
「あるいは、別の開拓村の連中だな」
「別の開拓村?」
「噂を聞いて様子見に来たか、腹が減ってるか、両方か」
「盗人か?」
「まだそこまでは分からん。だが、ろくでもねえ目的の可能性は高い」
レオは森の暗がりを見つめた。
こちらを見ている。
隠密でもなければ、戦慣れもしていない。
だが、それで安心はできない。
数だけいれば、脅しや放火や盗みはできる。
村が少し回り始めた今、塩も布も、パン炉も、水路も、全部が狙う価値のあるものになってしまっている。
「動くか?」
バルドが森の方を見ながら、ガレスへ問う。
「今はまだ動かん」
「なぜだ」
「相手が半端だからだ」
「半端?」
「腹決めて襲いに来てるなら、もっと寄ってくる。今は様子見だ」
「じゃあ放っておくのか」
「放ってはおかねえ。だが、こっちから夜の森へ入るのは悪手だ」
「…たしかに」
夜の森で、数も位置も曖昧な相手を追う。
それは戦慣れしていないゴロツキ相手でも、こちらに損が大きい。
ガレスが言った。
「こっちは気づいてる、ってのを見せる」
老剣士はそこで少しだけ口元を歪めた。
嫌な笑いだ。
「隠れるのが下手な半端者相手なら、それだけで効く」
「びびらせるのか」
「正確には、こっちは寝ぼけた村じゃねえと教える」
「…なるほど」
レオは頷いた。
その方がいい。
今はまだ、相手の腹も切れていない。
なら、まずは村の外周に牙があることを見せる。
「ロド」
レオが低く呼ぶ。
少し離れた場所にいた弓手が、音もなく寄ってきた。
「一本、木の幹へ撃て」
「人じゃなく?」
「人じゃなくていい。だが、向こうの鼻先だ」
「分かった」
ロドは短く頷き、弓を引いた。
夜気の中、弦が静かに鳴る。
矢は闇を切り、森の縁の木へ突き立った。
乾いた音が響く。
その直後、森の中で気配が揺れた。
影が動く。
完全に沈めていない人間の慌て方だった。
今ので確定した。
五人前後。
やはりこっちを見ていた。
そして、矢一本で明らかに動揺した。
ガレスが頷く。
「やっぱり半端だ、本職ならあれくらいで動かねぇ」
「追うか?」
レオが腰の剣に手を掛ける。
「今夜はここまでだ、位置が分かれば十分」
だが、それで終わらせはしない。
ガレスは村の灯りが見える位置まで一歩前へ出ると、わざと聞こえる声量で言った。
「そこにいるのは分かってるぞ!」
森ま静まり返ったままだ。
「次に近づいたら、矢だけじゃ済まさん!」
「腹が減ってるなら、昼間に来い!盗人なら、今のうちに尻尾巻いて帰れ!」
それは挑発ではなく、通告だった。
声は通る。
だが怒鳴り散らすわけではない。
きっちり線を引く声だ。
森の奥で、またひとつ影が揺れた。
それから、遠ざかる気配。
レオは森の暗がりを見た。
今夜はこれでいい。
追い払えたとは思わない。
だが、無警戒な村ではないと伝わった。
バルドが少し神妙な顔で言う。
「別の開拓村の連中だとしたら、面倒だな」
レオは森の闇を見つめ続けながら応えた。
「面倒だが、いずれ来る話でもある」
「逆に言えば、うちの村が回り始めたってのが外から見てもわかるってことだ」
「それもそうか」
嫌な話だが、現実だった。
パン炉があり、卵があり、水路ができ、商隊も来た。
目立たないわけがない。
今までは、見捨てられたから放っておかれた。
これからは、価値が出たと見られる。
それだけのことだ。
村へ戻ると、中央の空気はまだ起きていた。
皆、こちらの顔を見ていた。
女衆から声があがる。
「どうだったんだい?」
「間違いなくいた」
レオが周囲を見渡しながら言った
女たちの顔が少し固くなる。
子供たちも、今度ははしゃがなかった。
レオはすぐ続ける。
「でも、本職じゃない」
「本職?」
「隠密でも、戦場慣れした連中でもない。たぶんゴロツキか、別の開拓村の様子見だ」
「それで安心していいのかい?」
「安心はしないが、怖がりすぎる必要もない」
ガレスが横から補足する。
「矢一本で動く程度だ。今夜はそれで引いた」
「また来るのかい」
「来るかもしれねえ」
「じゃあ…」
「だから見張る。罠も足す。昼のうちに外周も見直す」
テオドールはすでに紙を広げていた。
そのままレオへ進言する。
「見張り順を再編します」
「森と水路側を増やせ」
「森側の焚き火は?」
「消しすぎるな、だが目印になりすぎるのも困る」
「調整します」
声が飛び、人が動く。
不安はある。
だが、前みたいに怯えて固まるだけではない。
今の村は、もう手を打てる。
それが少しだけ違った。
怖いのは仕方ない。
だが、ちゃんと子供達が知らせてくれた。
それだけで今夜は十分だった。
パン炉の火は、まだ静かに熱を抱いている。
雛たちは檻の中で、何かを察したのか少し静かだ。
村の空気もまた、ひとつ締まり直した。
前へ進み始めた村には、当然寄ってくる影もある。
なら、追い払うしかない。
この村は、もう黙って奪われるための村ではないのだから。
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