第3話 見捨てられた開拓村
港に足を踏み入れた瞬間、まず鼻を突いたのは潮の匂いではなかった。
湿った土の匂い。
腐りかけた木材の匂い。
獣の脂とも、乾ききらない血ともつかない、重たい臭気。
新大陸の空気は、海辺ですら濃かった。
帝都の港町のような喧騒はない。
荷を運ぶ怒号も、商人の呼び込みも、酒場の笑い声もない。
あるのは、押し殺したような沈黙だけだ。
小さな埠頭には、半ば朽ちかけた荷車が二台。
錆びた鎖、折れた杭。
見張りのために建てられたらしい櫓も、上半分が傾いていた。
「歓迎されてる感じは、まるでありませんね」
横でテオドールが、まだ眠気の残る顔のままそう言った。
「当たり前だろ」
俺は周囲を見回した。
人はいる。
いるにはいるが、遠巻きだ。
港の陰からこちらを見ている男が二人。
倉庫跡のような建物の脇で、子供を抱いた女が一人。
皆こちらを見てはいるが、近寄ろうとしない。
表情に浮かんでいるのは期待ではない。
露骨な歓迎でもない。
もっと冷えたものだ。
警戒と不信。
そして諦め。
「馬は?」
「ねぇよそんなもん」
案内役として出てきた中年男が、ぶっきらぼうに答えた。
頬はこけ、日に焼けた皮膚はひび割れている。
服は薄汚れ、腰には鉈のような刃物を提げていた。
領民というより、追い詰められた生存者に見えた。
「全て死んだか、食われた」
「道はあるのか」
「あるにはある」
その言い方で、だいたい察した。
港から開拓村までは、荷車一台分ほどの幅の道が延びていた。
いや、道と呼ぶにはあまりにひどい。
土は雨でぬかるみ、ところどころ深く抉れている。
木の根が剥き出しで、手押し荷車の車輪が半ば埋まった跡がそのまま残っていた。
整備の気配がまるでない。
舗装どころか、最低限の均しすらされていない。
進むたびに車輪が軋み、積み荷が揺れる。
歩くにも足を取られる。
道の脇には、途中で倒されたらしい木がそのまま転がっていた。
切ったのではない、へし折られている。
太い幹が、まるで玩具みたいに。
俺は立ち止まり、折れ口を見た。
切断面は荒い、斧でも鋸でもない。
「爪か、牙か」
呟くと、ガレスが鼻を鳴らした。
「どっちでもろくな相手じゃねえな」
「この太さをへし折るのか」
「大物だろうよ。しかも一度や二度じゃねえ」
周囲にも似た痕跡があった。
幹に刻まれた深い爪痕。
地面の窪みと踏み荒らされた下草。
見れば見るほど、ここが人の支配する土地ではないと分かる。
人間は、ただ邪魔にならないよう隅にへばりついているだけだ。
「補給路としては最悪ですね」
後ろからテオドールが言った。
「荷車は速度が出ない、雨季になれば泥に沈むでしょう」
「倒木の処理も追いついていない、これでは港があっても意味が薄い」
「分かるのか」
「見ればだいたい」
彼はしゃがみこみ、車輪の轍に指を差し入れた。
「放置期間も長いですね。最近壊れたのではなく、壊れたまま直されていない」
「人手が足りないか、直す意思がないか、その両方か」
「後者だろうな」
前を歩く案内の男が、振り返りもせずに言った。
「直したって無駄だ。どうせまた壊れる」
「壊される?」
」
「食われるんだよ。人も馬も、荷もな」
それで会話は切れた。
その先は、誰も喋らなかった。
開拓村は、高台の手前にへばりつくようにあった。
いや、正確には村だったものが、そこに残っていた。
最初に見えたのは、柵だった。
村を囲うように作られていたらしい木柵は、あちこちで折れ、傾き、崩れている。
補修の跡はある。
だが焼け石に水だ。
新しい木材を継ぎ足した場所もあれば、完全に抜けたままの場所もある。
門扉らしきものも、一枚は外れ、もう一枚は斜めにぶら下がっていた。
村の中に入ると、さらにひどかった。
家は粗末な木造ばかりで、壁板の隙間を布や藁で塞いでいる。
屋根は剥がれ、煙突は曲がり、窓には板が打ち付けられている家もあった。
雨風を凌ぐ最低限だけを、どうにか保っている。
そんな有様だ。
人が住んでいる家より、捨てられた家の方が多いようにも見える。
畑らしき場所もあったが、広くはない。
土は痩せ、柵の外縁は荒らされていた。
何度も獣か魔物に踏み込まれたのだろう。
村の中央には井戸がひとつ。
その周囲に、粗末な桶が転がっていた。
生きていくのに必要なものが、順番に削ぎ落とされた後の姿だった。
「…五十はいませんね」
テオドールが、周囲を数えるように目を細めた。
実際、そのくらいだった。
出てきた住民は全部で四十ほど。
男が二十五人ほど。
女が十人ほど。
そして、まだ子供と言っていい年齢の者が五人。
少ない、少なすぎる。
開拓村と呼ぶには、あまりにも。
男たちは皆、農具か刃物を手にしていた。
鍬、鉈、斧、錆びた短槍。
武器として頼りになるものではない。
だが、素手で出迎えるつもりもないという意思だけは伝わる。
女たちは子供を背に隠すように立ち、こちらを見ている。
怯えているわけではない、期待していないだけだ。
その目を見て、レオは胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。
これは当然の反応だった。
アルヴェイン侯爵家に連なる者たちは、一度ここに来ている。
そして失敗した。
いや、失敗だけならまだいい。
本家の連中は、住民を置き去りにして逃げたのだ。
食えるものも、防げる壁も、まともな兵も残さず。
自分たちだけが帝都に帰り、この場所に残された人間だけが、どうにか生き延びてきた。
そんな連中と同じ紋章を掲げる俺たちが来て、信用される道理がない。
「誰だ…お前ら」
前に出てきたのは、四十を少し過ぎたくらいの男だった。
肩幅はあるが、痩せている。
日焼けした顔には深い皺が刻まれ、右の頬に古い裂傷が走っていた。
村のまとめ役か、それに近い立場なのだろう。
俺は一歩進み、名乗る。
「レオ=アルヴェイン。アルヴェイン侯爵家に連なる者として来た」
「…侯爵家」
男の声が低くなった。
周囲の空気が、さらに冷えたのが分かった。
「今さら何しに来た」
「立て直しに来た」
「は?」
男は、乾いた笑いを漏らした。
笑いというより、唾を吐く代わりの音だった。
「立て直しだと?」
「そうだ」
「誰が壊したと思ってる」
真正面から言われ、俺は言葉を選ばなかった。
「侯爵家だ」
「…っ」
周囲がわずかにざわめく。
言い逃れをすると思っていたのだろう。
前任者の責任だとか、事情があったとか、帝都の命令だったとか。
そういう貴族らしい言い訳を。
だが、そんなものを口にしたところで何になる。
「前に来た連中が何をしたか、全部は知らない。だが、お前たちを残して逃げたことは知っている」
「なら分かるだろう。俺たちが、お前を信用しない理由も」
「ああ」
「だったら帰れ」
男は吐き捨てるように言った。
「どうせお前も同じだ。少し見て、無理だと分かれば逃げる。俺たちをまた置いてな」
「その可能性はある」
後ろでガレスが小さく舌打ちした気配がした。
テオドールは無言。
住民たちの視線が刺さる。
だが、嘘は言わない。
「俺は未来が見えるわけじゃない。絶対に成功するとも、誰一人死なせないとも言えない」
「ふざけてるのか」
「ふざけてない」
村を見回す。
壊れた柵と痩せた畑。
疲れきった目の少なすぎる人間。
「正直に言う。思っていたより、ずっとひどい」
「金も兵も足りない。道も死んでる。港も村もまともじゃない。ここで胸を張って任せろなんて言えるほど、俺は馬鹿じゃない」
何人かが眉をひそめた。
だが、聞いている。
「だが、帰らない」
「口なら何とでも言える」
「そうだな。だから証明するしかない」
俺は腰の剣に触れた。
「まずはこの村の中を全部見せろ」
「柵、井戸、畑、倉庫、使える家、使えない家、人手、怪我人、病人、残ってる食料。全部だ」
「偉そうに…」
「その上で、今夜何が襲ってくるのかも聞く」
「は?」
男が眉を上げた。
「この有様だ、柵が壊れてる以上、夜は何かが来るんだろう?」
「…よく分かったな」
「見れば分かる。補修の跡が新しい」
そこでガレスが前に出た。
「レオ、まず西側だ。匂いがきつい。あっちが一番やばい」
「分かった」
続いて、テオドールがやれやれといった顔で口を開く。
「それと、倉庫を先に確認した方がいいですね」
「食料がどれだけあるかで、話が全部変わります。あと井戸の深さ。水が足りないなら、すぐに詰みます」
住民たちの視線が、今度はそちらへ向く。
「なんだそいつは」
「拾った書類屋だ」
「雑な紹介ですね」
「合ってるだろ」
「否定はしませんが」
場違いなくらい穏やかな声に、何人かが怪訝そうな顔をした。
さっきまで話していた男が、俺たち三人を順に見た。
若い貴族。
傷だらけの老剣士。
頼りなさそうな軍人崩れ。
どう見ても、救世主には見えないだろう。
それでも男は、完全には追い返さなかった。
「…俺はバルド」
「村長か?」
「そんな立派なもんじゃねえ。ただ、まだ死んでない中じゃ、一番長くここにいる」
それで十分だった。
「案内しろ、バルド」
「命令するな」
「頼んでる」
「貴族のくせに」
「貴族だからだ。状況を把握しないと何も始まらん」
バルドはしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。
「ついて来い」
歩き出そうとしたその時、家の陰から小さな顔が覗いた。
子供だ。
十にも満たないくらいの、痩せた男の子。
その後ろに、さらに年下の女の子が半分隠れている。
二人とも、ひどく警戒した目でこちらを見ていた。
いや、違う。
警戒だけじゃない。
あれは確かめている目だ。
この新しい貴族は、前の連中と同じか。
また逃げるのか。
また、自分たちを置いていくのか。
子供にそんな目をさせる場所なのだと、そこでようやく実感が湧いた。
俺は視線を外さず、ただ軽く手を上げた。
子供たちは何も返さず、すぐに隠れた。
「嫌われてるな」
ガレスがぼそりと呟く。
「でも、まだ石を投げられてはいませんよ」
テオドールがのんびり言う。
レオは呆れて横目で見た。
「基準が低いな」
「こういう時は、それくらいで十分です」
バルドが先に進む。
その背中を追いながら、レオ達は改めて村を見た。
四十人。
大人の男が二十五ほど。
女が十ほど。
子供が五人。
これが、アルヴェイン侯爵家が見捨てた土地に残っている全てだ。
ひどい有様だ。
だが逆に言えば、まだゼロじゃない。
人がいる、水があり、畑がある。
港も、道も、死にきってはいない。
なら、立て直せる余地はある。
もちろん簡単じゃない。
たぶん最初の一歩から泥まみれだ。
下手をすれば、今夜にでも誰か死ぬ。
だが、それでも。
「レオ様」
隣でテオドールが小声で言った。
「なんだ」
「顔が少し、楽しそうですよ」
「気のせいだ」
「そうですか。私はかなり気が重いんですが」
「お前はさっきからそればかりだな」
「当然でしょう。私は危ないのが嫌いなんです」
そのわりに、逃げる気配はない。
前を歩くバルドの背中は重い。
村人の視線も冷たい。
柵は壊れ、道は死に、土地そのものが人間を拒んでいる。
だからこそだ。
兄上は、俺がここで潰れると思っている。
侯爵家は、この土地を失敗の責任ごと俺に押しつけて終わるつもりでいる。
そんなもの、認めてたまるか。
見捨てられた村なら、拾ってやる。
壊れた柵なら、立て直す。
食うに困るなら、狩ってでも繋ぐ。
そしていつか、帝都の連中がこの土地の価値に気づいて手を伸ばしてきた時…その手ごと叩き折る。
そのためにも、まずは今夜を越えることだ。
俺は村の奥に目を向けた。
西側の柵の向こう、森は深く暗い。
昼間だというのに、木々の奥は影の塊みたいに沈んで見えた。
あそこから来る。
獣か、魔物か、それとももっと厄介な何かか。
いずれにせよ、歓迎の宴など用意されていないのだけは確かだった。
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