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第24話 朝の焼き立てパン

パン炉は、村の生活を変えた。

思っていた以上に静かに、だが確実に。


最初に変わったのは、朝だった。


それまでは、朝に火を起こすだけでひと仕事だった。

湿った薪に火が回らない日もある。

風が強ければ煙ばかり立つ。

急いでいる時ほど、火は妙に言うことを聞かない。


だが今は違う。

まだ空気が冷たいうちから、炉の前にはもう熱がある。


灰を払えば、そこに温かさが残っている。

火を起こし直す必要がない。

炉は夜を越えて、ちゃんと熱を抱いたままだ。


「…ほんとに消えてないねえ」


最初の数日は、マルタが毎朝そう言っていた。


半ば感心し、半ば疑っている声だ。

けれど、そのたびに炉はきちんと応えた。


火は見えない。

だが、熱はある。


それだけで、女たちの動きはまるで違った。


朝一番から湯をかけられる。

鍋を乗せられる。

前の晩の残りの煮込みも、すぐに温め直せる。

そしてもちろん、パンも焼ける。


毎日、温かいパンが食べられる。

その事実は、村の人間にとって思った以上に大きかった。




「ほら、起きな! 焼けてるよ!」


朝の広場に、マルタの声が響く。


それだけで、子供たちが飛び起きるようになった。


前までは、朝は寒く、気怠く、腹の空いた時間だった。

今日は何を食えるだろう、どこまで保つだろう、と考える時間でもあった。


だが今は違う。


朝になると、炉から香ばしい匂いが立つ。

昨日の粉で、今日のパンが焼ける。

それも、冷えて固い塊ではない。

ちゃんと温かく、香りの立つパンだ。


「お肉の次はパンだ!」


「温かい!」


「まだ熱いから気をつけな!」


子供たちは頬を赤くしながらパンを抱え、ふうふう息を吹きかけて食べる。

たったそれだけの光景なのに、広場の空気が違う。


人が前を向いている。


腹が満ちるというのは、それだけで強い。

しかも、ただ満ちるだけじゃない。

温かいものが、毎日ちゃんとある。


それは、貧しい村にとって想像以上に大きな意味を持っていた。


「顔色が違うな」


レオがそう言うと、ガレスが焼き立てのパンをちぎりながら頷いた。


「そりゃ違う」


「そんなにか」


「冷てえ干し肉と水だけの日と、温けえパンと汁がある日じゃ、人間の気の持ちようが違う」


「…そうか」


「戦場でもそうだったろうが」


「ああ」


思い返せばその通りだった。


前線で一番効くのは、派手な檄じゃない。

温かい飯と、温かい湯だ。


レオは少しだけ苦笑した。


「結局、爺さんの言うことに戻るな」


「飯と火と水を甘く見るな、だ」


「耳が痛い」


「最初から痛がっとけ」



湯がいつでも沸かせる、というのも大きかった。

想像以上に、大きかった。

最初は皆、単純に飲み物へ使っていた。


温かい湯に香草を煮た汁。

それだけで、夜の過ごし方が違う。


「…あったかいねえ」


女のひとりが、湯気の立つ椀を両手で包みながら、ぽつりと言ったことがある。

ただそれだけの言葉だった。

けれど、その声に滲んでいた安堵は、レオの耳に妙に残った。


寒い時に、すぐ湯が飲める。

喉を温められる。

腹の中から熱が入る。


それは贅沢ではなく、生存率の話だった。

しかも湯は、飲むだけじゃない。


肉の臭み取り。

傷口を洗う時、器を清める時。

布を温める時、小さな子供へ飲ませる時。


火を起こし直さず、必要な時にすぐ湯が使える。

その便利さは、使えば使うほど効いてきた。


「いつでも湯があるってのは、こんなに楽なのか」


バルドが感心したように言ったのは、火尾鶏の鱗を削っていた時だった。

刃が鈍れば湯に浸して脂を落とし、また作業へ戻れる。


「前は、湯を沸かすかどうかで一回揉めてたからな」


「薪がもったいねえってな」


「今は?」


「今は、鍋空いてるかで揉める」


その返しに、広場で小さな笑いが起きた。


揉め事が消えたわけじゃない。

ただ、中身が変わったのだ。


余裕が少しできた。

それだけで、人間の暮らしはずいぶん変わる。



パン炉の影響は、食事そのものにも出た。


前は、食うことがまず先だった。

腹へ入ればいい、食えればいい。


だが、今は少しだけ違う。

どう焼くか、どう温めるか、どう煮るか。


そういう話が、普通に出るようになった。


「この粉は少し水を多めにした方がいいね」


「昨日よりふくらんだよ」


「炉の奥だと焼きが強いから、今日は少し手前だ」


「肉汁を垂らしたら、もっと香りが出るかもしれないよ」


マルタたち女衆は、もうすっかりパン炉を使いこなし始めていた。

火の番に追われない分、手元の工夫へ頭が回るのだろう。


そして、それを見ていたテオドールがある日ぽつりと言った。


「生活レベルが、確実に一段上がってますね」


「生活レベル?」


レオが聞き返すと、いつもの気だるげな顔で頷いた。


「食事の質と、温かい飲み物の安定供給。この二つは思った以上に効きます」


「そこまで言うか」


「言います。人手の消耗が減る。病人も減りやすい。寒さによる体力低下も抑えられる。女たちの作業負担も少し軽くなる」


「…そんなにか」


「そんなにです」


テオドールは広場を見た。


パンを焼く女たち。

湯を運ぶ子供たち。

熱い椀を持って座る男たち。

そして、檻の中でぴぴと鳴きながら、その匂いに反応している雛たち。


「こういうのは、数字にしづらいですが強いんですよ」


「数字にしづらい、か」


「だからこそ見落とされやすい」


「本家の連中なら?」


「見落としたでしょうね」


その答えに、レオは少し口元を歪めた。


たしかにそうだ。

侯爵家の連中なら、鉱石と魔石と素材の値段ばかり見る。

だが、この炉が村へもたらしたものは、そういう単純な値札では測りにくい。


毎日温かいパン。

いつでも湯が沸かせる。

温かい食事。

少しだけ余裕のある朝。

少しだけ柔らかい夜。


それが、村を確実に変えていた。




変化は、表情にも出た。


女たちの顔色が少し良くなった。

子供たちの朝の動きが軽くなった。

男たちも、見張り明けの顔が少しだけましになった。


そして何より、広場に匂いが増えた。


パンの香り、湯気の匂い。

時には、焼けた木の実や、炙った肉の匂い。


それはもう、ただ生き延びるだけの村の匂いではなかった。


「いい匂いがする村ってのは、いいな」


レオがある夕方そう漏らすと、隣にいたエルマーが意外そうに視線を向けた。


「お前がそんなこと言うの、少し意外だな」


「そうか?」


「もっと、柵だの罠だの魔石だの言ってる方が似合う」


「それも大事だ」


「だろうな」


「でも、いい匂いがするってのは、それだけで悪くない」


「…たしかに」


エルマーも、そこで少しだけ広場を見回した。


自分の作った炉。

その熱で焼かれるパン。

それを頬張る子供たち。

湯を啜る女たち。


魔法狂いのくせに、少しだけ満足そうな顔をしたのが、レオには妙に可笑しかった。


「なんだその顔」


「別に」


「いや、今ちょっと満足したろ」


「少し」


「珍しいな」


「魔法は、人を焼くだけのためにあるわけじゃない」


「今さら真面目なこと言うな」


「本音だ」


「知ってる」


そのやり取りを聞いていたガレスが、後ろで笑う。


「ようやく人間らしいこと言いやがったな、魔法狂い」


「最初から人間だ」


「半分くらいはな」


「お前ら本当に半分好きだな」


広場にはまた笑いが起きた。

そして炉の上では、湯が静かに温まり続けていた。


火は見えない。

だが消えない。


まるで、この村そのものみたいだと、レオは少し思う。


まだ小さい、まだ弱い。

だが、簡単には消えない火が、もうここにはある。


パン炉は、その象徴みたいなものだった。

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