第23話 希望の匂い
雛の世話と、パン焼き炉づくりは、ほとんど同時進行になった。
広場の片隅では、男たちが急ごしらえの檻を組んでいる。
巨猿の骨を削って骨組みにし、硬い木で囲い、内側には火尾鶏の青い鱗を薄く打ちつける。
まだ雛は小さい、両手に乗る程度だ。
だが、相手は魔物だ。
普通の籠では心許ない。
「ここ、隙間広くないか」
「頭はまだ通らねえだろ」
「今はだろ、成長したらどうする」
「その時はその時で広げりゃいい」
そんな声が飛び交う。
そのすぐ横では、子供たちが雛の様子を見たくてうずうずしていたが、マルタに一喝されていた。
「勝手に触るんじゃないよ!」
「見るだけ!」
「見るだけでも近すぎる!」
「ぴって鳴いた!」
「鳴くよ、口があんだから!」
雛たちは、小さいくせに食欲はあるらしく、細かく切った肉を嘴でつつき、時々ぴぴ、と鳴く。
尾の先はまだ火というほどではないが、ほんのり赤く、触れれば人肌より少し熱い。
「…こいつら、本当に火尾鶏になるのか?」
ミハルが半信半疑で言う。
その時、レオの足元にいた一匹が小さなくしゃみをし、口からほんの一瞬だけ赤い火花を散らした。
全員が固まる。
「…なるな」
「なるわね…」
女たちまで、揃って遠い目になった。
だが、その隣では本命のパン焼き炉も着々と形になっていた。
パン焼き炉は、試験炉とは比べものにならないほど立派だった。
土台は厚く、内壁は二重。
芯には、削った赤い魔石と尾の繊維を仕込んだ火芯。
その周囲を粘土と石で丁寧に包み、熱が逃げにくいよう空気の通り道まで調整してある。
エルマーは珍しく真面目な顔で最後の確認をしていた。
「火口はここ、熱は奥に回す。前面だけ熱くなるようなら失敗だ」
「上面は?」
「緩く熱を抱かせる。パンは底だけ焼けりゃいいわけじゃない」
「なるほど」
テオドールはすぐに書き留める。
「内部蓄熱型。前面火口、後方反射、上部包熱…」
「言葉にするとやけに賢そうだな」
「賢そうではなく、賢いんですよ」
その返しに、エルマーが半笑いになる。
炉の前には、村の女たちが集まっていた。
マルタを中心に、粉を捏ね、寝かせ、丸めた生地が木板の上に並んでいる。
使った小麦は、はっきり言って良いものではなかった。
粒は痩せ、挽きも粗く、色もくすんでいる。
旧大陸の上等な小麦とは程遠い。
帝都なら、正直家畜の餌に回されてもおかしくない程度だ。
「こんなんで本当にうまく焼けるのかね」
マルタが生地を指で押しながら言う。
「焼ける」
エルマーは言い切った。
「味までは保証しないがな」
「それが一番大事だよ」
その一言に、女たちが頷く。
試験炉はまだ温かいままだ。
それとは別に、本命炉の前に皆が集まる。
エルマーは炉の口へ片手をかざし、ゆっくり息を整えた。
「前と同じだ。ただ、今度は量が違う」
「暴れるなよ」
そう言って、エルマーは魔力を流した。
赤い芯が、炉の奥で鳴る。
次に、尾の繊維がほのかに赤くなり、熱が壁へ沿って広がる。
試験炉の時よりも静かだった。
火花は小さい。
だが、内側へ沈んでいく熱の量は明らかに多い。
炉の表面が、じわりと温まる。
「…来たな」
ガレスが言う。
レオも頷いた。
火は見えない。
だが、確かに炉が生き始めている。
マルタが、少し緊張した顔で最初の生地を持ち上げた。
「入れるよ」
「ああ」
「失敗しても怒るんじゃないよ」
「お前が怒る側だろ」
「違いない」
広場に小さな笑いが起きる。
だが、皆の目は本命炉に釘付けだった。
生地が炉へ入る。
口が閉じられる。
最初の数分は、何も起きないように見えた。
最初に気づいたのは、子供のひとりだった。
小刻みにと鼻を動かす。
「パンの匂い」
「まだ早いだろ」
「でもする!」
次の瞬間、それは皆にも分かった。
香ばしい匂いが、炉の口からふわりと立ちのぼったのだ。
焼けた粉の匂い。
熱せられた生地の甘い香り。
それが混ざって、広場の空気を一気に変える。
「…おい」
バルドが目を見開く。
「なんだ、この匂い」
「…すごいね」
マルタでさえ、思わず呟いた。
はっきり言って、小麦は低品質だ。
帝都の食卓に出せるような代物ではない。
ふすまも多いし、粒も揃っていない。
旧大陸なら、家畜の餌に混ぜられるような粉だ。
なのに、なんだこのいい匂いは。
香ばしくて、深い。
ただ焼けているだけじゃない。
じっくり、均一に、丁寧に熱が回っているような匂いだった。
レオも思わず炉へ一歩近づく。
「…炉が違うからか?」
「それもある」
エルマーは、珍しく自分でも少し驚いた顔をしていた。
「熱が安定して、波が少ない」
「波?」
「普通の火は強くなったり弱くなったりする。薪の太さでも、風でも変わる」
「ああ」
「だがこれは違う。芯からじわじわ同じ熱を出してる。だから焼きムラが少ない」
テオドールがすぐに補足する。
「一定温度、というやつですね」
「そうだ」
「それだけで、ここまで変わるものですか」
「変わる。料理ってのは案外、火加減で決まる」
マルタが炉の口を覗き込みながら言う。
「でも、それだけじゃない気もするんだよ」
「何がだ」
「匂いが…なんていうか、粉の悪さが消えてる感じがする」
その言葉に、エルマーが少しだけ目を細めた。
「やっぱり思うか」
レオが振り返る。
「どういうことだ」
「まだ断言しない」
エルマーは腕を組んだ。
「だが、炉の熱が少し魔力を帯びてる可能性はある」
「熱が?」
「ああ」
その一言で、広場がまた静かになる。
テオドールが顎に手を当てる。
「それが粉へ何か影響を?」
「あり得る。焼き締め方が変わるか、あるいは臭みを飛ばすか」
「そんなことが?」
「新大陸だぞ」
その一言で、妙に皆が納得してしまった。
ここは新大陸だ。
巨猿の珠があり、火尾鶏の赤い魔石があり、火を抱えた尾があり、消えない炉までできる場所だ。
小麦が少し化けたところで、今さら驚く話でもないのかもしれない。
「開けるよ」
マルタの声で、全員がまた炉へ集中する。
炉の口が開かれる。
熱気が、ふわっと広場へ流れた。
その中から現れたのは、焼けたパンだった。
色は濃い、白くはない。
もともとの粉が悪いからだ。
だが、焼き色は見事だった。
表面はこんがりと香ばしく、ところどころに細かな割れ目が入り、そこから湯気が立っている。
「…おいおい」
バルドが思わず漏らす。
「本当に、まともなパンじゃねえか」
「まともどころか、だいぶいいよ」
マルタが布越しにパンを持ち上げ、底を叩く。
「焼きが均一だよ」
「焦げてない」
「中も死んでなさそうね」
女たちの顔が、一気に明るくなる。
ナイフで割る。
外が軽く割れ、中から湯気があふれた。
中身はふっくらしていた。
粉の質が悪いから真っ白にはならない。
だが、思っていたよりずっと柔らかい。
密すぎず、軽すぎず、ちゃんとパンの中身をしている。
「…ちょっとおいで」
マルタが、最初のひとかけをちぎってレオへ渡す。
「坊ちゃんからだよ」
「なんで俺だ」
「領主様だしね」
「そういう時だけか」
「そういう時だけだよ」
周囲から小さな笑い。
レオは受け取り、まだ熱いそれを口へ運んだ。
香ばしい。
外は軽く硬く、中はしっとりしている。
そして、驚くほど小麦臭さが少ない。
低品質の粉特有の、ざらついたえぐみが薄い。
代わりに、焼けた穀物の甘みが前へ出ている。
「…うまいな」
ぽつりと、それが本音で漏れた。
広場にざわめきが走る。
「本当かい?」
「お世辞じゃない?」
「坊っちゃんの舌は当てになるのかい」
「失礼だな」
だがレオは、もう一口噛んでから改めて言った。
「いや、本当に悪くない。っていうか、かなりいい」
「どれ」
マルタが自分でもちぎって食べる。
その瞬間、目の色が変わった。
「…なんだいこれ」
「だろ」
「いや、ちょっと待ちな。なんでこの粉でこうなるんだい」
他の女たちも、男たちも、子供たちも、小さくちぎったものを順番に口へ運ぶ。
すぐに、広場の空気が変わった。
「うまっ」
「え、何これ」
「今までの粉と違うぞ」
「同じ粉だろ!?」
「同じだよ!でも違う!」
子供たちなど、もう露骨だった。
「パン!」
「パンがおいしい!」
「ふわふわ!」
「毎日食べたい!」
その言葉に、マルタたちが笑う。
笑いながらも、目が少し潤んでいる者もいた。
レオは、炉を見た。
外から見れば、ただの土と石の塊だ。
だが、その中には赤い魔石の欠片と、火尾鶏の尾が組み込まれている。
「…炉が違うだけで、ここまで変わるもんか」
レオが呟くと、エルマーは腕を組んだまま少し得意そうに笑った。
「だから言っただろ」
「お前の戯言だと思ってた」
「半分は戯言だった」
「半分かよ」
「でも、残り半分は本物だ」
テオドールが、もう夢中で記録を取っている。
「一定蓄熱に加え、魔力帯熱の可能性。低品質小麦の臭み軽減。焼き上がりの膨らみ改善…」
「お前、今めちゃくちゃ楽しそうだな」
「文明が一段上がる瞬間ですから」
「大げさじゃないか?」
「いえ、かなり本気です」
ガレスがパンを噛みながら言う。
「…たしかに、こりゃいい」
「爺さんまで」
「温かい飯は強えぞ、坊っちゃん」
「…そうだな」
本当にそうだと思った。
武器も、防具も、大事だ。
だが毎日温かいパンが焼けるというのは、それとは違う形で村を強くする。
腹が満ちる。
気持ちが上がる。
人が前を向く。
それだけで、ずいぶん違う。
その時、檻の方から雛たちの鳴き声がした。
見ると、三匹とも檻の隙間から首を伸ばし、パンの匂いに反応している。
「…こいつらも食うのか?」
「たぶん食う」
「雑食ならあり得ますね」
「おいおい、パンまで食うのかよ」
「ますます鶏っぽいな」
また笑いが起きる。
広場には、焼き立てのパンの香ばしい匂いが満ちていた。
巨猿と火尾鶏から生まれた炉で、村の女たちが焼いた最初のパン。
それはきっと、この村にとって最初のちゃんとした希望の匂いだった。
レオはもう一度パンを噛み、それから炉を見た。
火は見えない。
だが、熱は確かにあり、しかも止まらない。
新大陸の脅威が、村の暮らしを支えている。
変な話だ。
だが悪くない。
むしろ、かなりいい。
「…毎日焼けるな」
レオがそう言うと、マルタが力強く頷いた。
「毎日焼くよ」
「張り切るな」
「張り切るさ、こんな炉ができたんだ」
その返事が、妙に頼もしかった。
雛は鳴き、炉は熱を保つ。
パンは香る。
村はまだ小さい、問題も山ほどある。
森の奥には、まだ何がいるか分からない。
それでも今は、確かに前へ進んでいた。
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