第2話 左遷軍人と新大陸
帝都の港を出る船は、思っていたよりもずっと粗末だった。
侯爵家の三男を送る船というより、余った人員と物資を適当に押し込んだ輸送船に近い。
渡された金も少ない。
積まれている物資も心許ない。
兄上が本気で俺の成功を願っていないことは、その時点で嫌というほど分かった。
船旅は退屈で、揺れは容赦がなく飯はまずい。
甲板に出て海風に当たりながら、俺は木杯の安酒をあおった。
喉が焼ける。
高い酒とは比べ物にならないが、こういう時には十分だった。
「その酒で満足できるんですか?」
後ろから柔らかな声がした。
振り向けば、若い男が一人立っていた。
二十代半ばくらいだろうか。
癖毛でぼさぼさの黒髪が潮風に乱れ、長身痩躯の体を帝国軍の制服が頼りなく包んでいる。
制服は一応きちんと着ているはずなのに、どこか着崩れて見えるのは、本人の覇気のなさのせいかもしれない。
整った顔立ちではあるが、全体的に気だるげで、手にはやはり木杯。
いかにも、やる気がなさそうだった。
「満足はしてない、酔えればいい」
「正直で結構です」
男は俺の隣に並んだ。
「軍人か」
「一応は。帝国軍所属、テオドール・ヴァルツ。補給と書類仕事が専門です」
「…前線には見えないな」
「よく言われます。実際、その通りですから」
テオドールはあっさり言った。
警戒心がないわけではない。
だが、変にへりくだりもしない。
「お前も新大陸行きか」
「上が、私をあまり帝都に置いておきたくなかったらしくて」
「嫌われたのか」
「たぶん、そうでしょうね。私は便利な駒ではありますが、熱心な駒ではないので」
少しだけ、気が合いそうだと思った。
「レオだ」
「…姓は?」
「アルヴェイン」
「それはまた、大物ですね」
言い方は柔らかいが、目の奥に一瞬だけ色が差した。
なるほど、侯爵家の名前くらいは知っているらしい。
「大物なら、こんな船には乗ってない」
「違いありません」
テオドールはそう言って、杯を軽く掲げた。
「では、左遷同士の門出に」
「追放同士の方が正確だろ」
「なお結構」
それで少し笑った。
話してみれば、妙な男だった。
本が好きらしく、過去の戦史や辺境の風土記、古い探検記録まで読んでいるという。
戦場の英雄譚より、補給の失敗で軍がどう崩れたかを語る方が饒舌だった。
「大軍は、敵に負ける前に腹が減って死ぬものなんですよ」
「夢がないな」
「現実的と言ってください」
酒を重ねるうちに、テオドールの頬は少しずつ赤くなっていった。
そして、分かりやすく口数が増えた。
「でもですね、侯爵家のご子息なら、現地でもそれなりに安全でしょう」
「護衛もいますし、立場もありますし」
「護衛は爺さん一人だ」
「…え?」
「金も少ない、兵も期待するなと言われた」
「それは…思ったより、ずいぶん雑な扱いですね」
テオドールは杯を見つめ、それから俺を見た。
「帰りたくは?」
「ないな」
「立派ですね」
「そうでもない。帰る場所が大して居心地良くないだけだ」
俺がそう答えると、テオドールは少し黙り、ふっと笑った。
「それは、分かる気がします」
「お前もか」
「ええ、貧乏騎士爵家の次男なんて、家にいても椅子が足りませんから」
そのあたりから、互いの距離は少し縮まった。
ただ、俺はその時まだ知らなかった。
この気だるげな男が、机の上では異様に頭が回ることも。
測量と兵站と数字にかけては、軍の上層部が辺境送りにするには惜しい人材だったことも。
酒にとことん弱いことは、その晩すぐ知った。
「…だから私は、危ないところに行きたくないんです…本当に…」
「分かったから飲むな」
「いえ、飲みます…だって、海怖いじゃないですか…」
「おい」
完全に出来上がっていた。
足元もふらついている。
軍人のくせに情けない。
仕方なく肩を貸して船室まで運ぶと、テオドールは扉にもたれながら半目でこちらを見た。
「レオ様」
「なんだ」
「あなた、思ってたよりずっと…坊ちゃんっぽくないですね」
「悪かったな」
「いえ、助かります…坊ちゃんだと、面倒なので…」
それだけ言って、ベッドに倒れ込んだ。
数秒後には寝息を立てている。
俺は呆れて扉を閉めた。
廊下の先では、ガレスが腕を組んで待っていた。
「ずいぶん妙なのを拾ったな」
「まだ拾ってない、ただの飲み仲間だ」
「どうだかな」
爺さんはニヤつき、窓の外を見た。
その視線を追う。
翌朝、そこには陸があった。
新大陸。
最初に見えたのは、深い緑だった。
旧大陸の森より、ずっと濃く、重く、何かを呑み込むような色。
霧がかかり、山肌は鋭く、海岸線の崖はまるで城壁のように立ちはだかっている。
そして遠く、森の向こうで何かが吼えた。
空気が震えた。
次の瞬間、港の見張り櫓より高い位置を、巨大な影が横切った。
飛竜。
船員たちがざわめく。
顔色を変える者もいる。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「…なるほど」
兄上が俺を送り込んだのは、領地なんて生易しいものじゃない。
ここは、人が生きることを拒む土地だ。
だが同時に、ここを押さえられれば、帝国中の誰よりも先に富を掴める。
鉱石も、薬草も、怪物の素材も。
すべてが眠っている。
そして、だからこそアルヴェイン侯爵家は、失敗を認めることができなかった。
「地獄みてえな顔してやがるな」
ガレスが言う。
「実際、地獄だろうさ」
「違いねえ」
その時、背後からまだ眠そうな声がした。
「いえ…地獄というには、少し希望がありますよ」
「起きたのか」
「ええ。最悪ですが、まだ終わってはいません」
テオドールは船縁に寄りかかり、赤みの残る顔で港を見下ろした。
「港は小さいですが使えます。背後の高台に柵を築けば、防衛拠点にはなる。川も近い。森は危険ですが、資源は豊富でしょう」
「見ただけで分かるのか」
「だいたいは」
そして、この男はやんわりと笑った。
「問題は、あの開拓地にそこまで考えられる人間が残っていれば、ですが」
港の先に見える村は、遠目にも荒れていた。
見捨てられた村。
逃げ出した貴族たちの、残骸。
俺はその光景を見つめながら、腰の剣に触れた。
剣なら学んだ。
戦場も知っている。
野営も、撤退も、飢えも、血も、それなりに知っている。
けれど領主の真似事など、やったことはない。
それでも、やるしかない。
ここで死ねば、兄上の思う壺だ。
ここで潰れれば、侯爵家は俺に全部を押しつけて終わる。
そんなもの、御免だった。
「行くぞ」
俺が言うと、ガレスは口元を歪め、テオドールは肩をすくめた。
「ええ、仕方ありません」
「今からそんな面で大丈夫か、軍師殿」
「私はまだ軍師ではありませんよ。ただの巻き込まれた書類屋です」
「なら、今日からだ」
船が軋みながら港へ入っていく。
潮の匂い、獣の咆哮。
そして、俺たちを歓迎しているとは到底思えない、新大陸の空。
侯爵家に追い出された三男坊。
戦場上がりの老剣士。
酒に弱いぐうたら書類屋。
ろくでもない始まりだ。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
この見捨てられた開拓村が、やがて帝国中を震わせる最前線になることを。
そして、俺を捨てたアルヴェイン侯爵家が、いつかこの土地を欲して手を伸ばし、その手を叩き落とされることを。
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