第14話 火を持つ魔物を火で炙る
その日のうちに、ユルには油袋の投擲練習をさせた。
もっとも、いきなり本物の油を使う余裕はない。
最初は水を詰めた革袋だ。
村外れの空き地に杭を立て、そこへ藁束をくくりつける。
「手首だけで投げるな、腰ごと使え」
レオが言うと、ユルは唇を引き結んで頷いた。
「狙うのは顔じゃない。胴だ。外してもいい、まず当てろ」
「分かりました」
水袋が飛ぶ。
藁束の脇を逸れ、地面に落ちて潰れた。
横で見ていたミハルが野次を飛ばし、ユルが舌打ちする。
だが、目は死んでいなかった。
こういう役目を任されたことが、少し嬉しいのかもしれない。
レオはその様子をしばらく見てから、ガレスとバルドへ視線を向けた。
「俺たちは行く」
「戻るまでに、なんとかしてみせますよ」
火尾鶏が夜に目が利かないなら、狩るなら夜だ。
そして夜に狩るなら、先に寝床を押さえなければならない。
だから夕刻。
日が傾き始めたこの時間が勝負だった。
森へ入る頃には、空はもう群青から橙へ移りつつあった。
昼の湿気はまだ残っている。
だが、夕方の森はまた別の顔を見せる。
鳥の声が減る。
代わりに、どこか遠くで木々の軋む音がする。
風に混じる匂いも、昼より冷たくなる。
今日は、レオ、ガレス、バルド、ミハルの四人だけだった。
人数は絞った。
多すぎれば音が出る。
寝床を探すだけなら、この方がいい。
「昼に見た位置から考えると、戻るなら西寄りだな」
レオが低く言う。
「火尾鶏は裂牙犬を食っていた。あれが狩り場なら、寝床はそう遠くない」
「近すぎても困るがな」
バルドが森の奥を睨む。
ガレスは地面を見ていた。
「こっちだ」
低い声でそう言って、爺さんが進路を少し変える。
落ち葉の上。
薄く焦げた跡がある。
さらに先には爪痕。
木の根元の土が抉れ、青い鱗の欠片みたいなものが一枚、湿った地面に貼りついていた。
「落としたか」
「擦ったんだろ」
レオはそれを拾い上げる。
硬い。
薄いのに、爪で曲げてもそう簡単には割れない。
「防具材にもなりそうだな」
「まず殺してから言え」
ガレスにそう返され、レオは小さく鼻を鳴らした。
進むにつれて、焦げた匂いが少しずつ濃くなってきた。
だが不思議と、森全体が焼けている感じではない。
点で残っている。
焼けた草、焦げた枝。
小動物らしき骨の残骸。
つまり火尾鶏は、森を焼き払って進むのではなく、獲物を焼くか、あるいは体の一部が触れた場所だけを焦がしているらしい。
「延焼は今のところ少ない」
「森まで全部燃やすタイプじゃねえのか」
「たぶんな」
レオは少し安堵した。
村にとって火は恐ろしい。
だが逆に言えば、こちらも火を使いやすい。
さらに奥へ進むと、木々の密度が少し下がり、斜面が見えてきた。
岩場だ。
湿った地面から、硬い岩肌へ変わる。
そこに、小さな洞窟があった。
「…あれか」
バルドが声を潜める。
大きくはない。
奥行きは見えないが、外から見える範囲はさほど深くなさそうだった。
そして何より、入口の周囲に痕跡が濃い。
焦げ跡、青い鱗。
裂牙犬の骨と鳥の羽毛。
「寝床だな」
ガレスが断じた。
レオも頷く、間違いない。
火尾鶏はここを使っている。
しかも都合がいい。
森の奥とはいえ、周囲は岩場が多い。
洞窟の口もひとつ。
木々が密集している場所から少し外れている。
「いいな」
思わずそう漏らすと、バルドが怪訝そうに見た。
「何がだ」
「都合がいい」
「都合?」
「ここなら燃えても森まで延焼しにくい」
「…ああ」
バルドもようやく理解したらしく、少し目を見開いた。
「岩場だ、火が回る先が少ない」
「逃げ道もひとつですしね」
ミハルが小声で続ける。
レオは洞窟の口をじっと見た。
入口は狭い。
だが完全に塞げるほどではない。
それでも、出てくる方向がひとつに絞られるのは大きい。
「罠も仕掛けられるな」
ガレスがしゃがみ込み、地面を触る。
「ここなら浅く掘っても十分効く。杭も打てる。飛び出してきたところを足取らせりゃいい」
「洞窟の前に?」
「少しずらせ。真正面だと警戒される」
「なるほど」
ミハルが感心したように頷く。
レオは周囲を観察する。
洞窟の右側には、少し低くなった窪み。
左には大きな岩。
正面は開けているが、そのぶん投擲もしやすい。
ここへ油袋を叩き込み、
火尾鶏を燃やし、慌てて飛び出してきたところを罠へかける。
悪くない。
かなり悪くない。
「問題は、中にいるかどうかだ」
レオがそう言った時だった。
洞窟の奥から、かすかに音がした。
くぐもった、低い呼吸音。
それから、石の擦れるような音。
全員がぴたりと止まる。
「…いるな」
バルドが唾を飲み込む。
レオは片手を上げ、全員に動くなと合図した。
洞窟の奥は暗い。
だが、その暗さの中で一瞬だけ赤いものが揺れた。
恐らく尻尾だ。
火尾鶏は中にいる。
しかも休んでいる。
飛び回っている気配はない。
入口近くまで出てもいない。
寝床として使っているのは間違いない。
レオは、声が漏れない程度に息を吐いた。
「当たりだ」
ガレスも口元をわずかに歪める。
洞窟で逃げ道ひとつ。
延焼の危険も低い。
まるでこちらのために用意されたみたいな地形だ。
バルドが洞窟の周囲を見回す。
「今夜やるのか?」
レオは首を振った。
「一晩で仕掛けるには雑すぎる」
「でも、あんまり待つと移るかもしれねえ」
「分かってる。だから明日だ」
「明日か」
「今夜は戻って準備する。油袋、罠、配置、逃げる経路、全部詰める」
「…確かに、その方がいいな」
ガレスが岩陰を顎で示した。
「射線はあそこから取れる。レオとユルは右。俺とバルドは左から挟む」
「ミハルは?」
「後ろに置く。飛び出しを見て合図」
「それでいくか」
レオは最後にもう一度、洞窟の口を見た。
中から、微かにまた火の粉が散る。
だが大きく動く気配はない。
寝ている。
あるいは、少なくとも休んでいる。
テオドールの仮説は当たりかもしれない。
「…本当に鶏みたいなやつだな」
「鶏にしちゃ迷惑すぎるがな」
ガレスの返しに、レオは小さく笑った。
もう十分だ。
見るべきものは見た。
洞窟から十分離れるまで、誰も無駄口を叩かない。
森の中は薄暗く、夕方の終わりがじわじわと夜へ変わっていく。
だが、さっきまでと違っていた。
今はただ脅威を見るだけじゃない。
殺す形が見えている。
それは大きい。
あの書類屋は、この洞窟の話を聞いたら、たぶん満足そうに頷くだろう。
「ええ、都合がいいですね」とか言って。
その顔が少し目に浮かんで、レオは口元を緩めた。
村へ着けば、忙しくなる。
だがそれでいい。
忙しいということは、まだ勝てる見込みがあるということだ。
西の森の火尾鶏。
明日、お前を狩る。
村へ戻った頃には、空はすっかり夜に沈んでいた。
広場の焚き火がぱちぱちと音を立てる中、レオは戻るなり真っ先にテオドールを呼んだ。
「当たりだ」
「寝床ありましたか」
「森の奥、岩場の小洞窟だ」
「洞窟ですか」
その一言で、テオドールの目が少しだけ冴えた。
「入口はひとつ。周囲は岩場で、延焼の危険は低い。中に火尾鶏もいた」
「…素晴らしいですね」
「嬉しそうだな」
「ええ、かなり」
テオドールは即座に板と紙を引き寄せ、筆を持った。
普段の気だるさが少しだけ消えている。
こういう勝ち筋の図面を引かせると、本当に生き生きする男だ。
「位置関係をください」
「洞窟口はここ。正面が少し開けてる。右に浅い窪み、左に大岩」
「ふむ」
「火尾鶏が出るとしたらこの正面だ」
「左右には抜けられませんか」
「抜けにくいが、完全ではない」
「なら、真正面を殺し場にして、左右は追い込み用ですね」
紙の上に、洞窟の口、岩、窪み、周囲の木立が簡単な線で描かれていく。
見ていたバルドが思わず唸った。
「本当にこういうのは早いな、お前」
「ありがとうございます。現場に行きたくない人間ほど、紙の上では頑張るんですよ」
「胸張って言うことか?」
「事実ですので」
そこへガレスも腰を下ろし、配置図を覗き込んだ。
「で、どう殺す」
テオドールは、洞窟口の少し手前に炭で大きく印を打った。
「まずここです」
とん、と指先が紙を叩く。
「洞窟前の真正面少し横、ここに罠を置きます」
「穴か」
「ええ。浅くていい。転ばせるのが目的ですから」
「杭は?」
「できれば欲しいですが、深く刺しすぎると逆に飛び越えられるかもしれません。まずは足を取ることを優先しましょう」
「なるほどな」
レオも頷く。
巨猿みたいに重さで嵌める相手ではない。
火尾鶏は速い。
なら、落として止めるより、踏み外させて崩す方がいい。
「そして」
テオドールはそのまま続ける。
「油を浴びせて、尻尾の火で延焼させる」
「中で燃えるか」
「燃えるのが理想です。ですが、完全に中で焼け死ぬとは思わない方がいい」
「だろうな」
「ええ。だから次です」
筆が、洞窟前の罠地帯をぐるりとなぞる。
「燃えて、混乱しながら飛び出してきたところを、罠で嵌める」
「で、止まったら?」
「弓です」
その一言で、作戦の骨が決まった。
バルドが腕を組んだ。
「弓なんて大した数はないぞ」
「村にまともなのは三張りだ」
「三張りあれば十分です」
テオドールは淡々と言った。
「狙う相手は一匹。しかも、燃えて、混乱して、足場を崩した状態です。数打ちで押せばいい」
「狙いは?」
「目、口の中、首の付け根あたりですかね」
「適当だな」
「正確には通る場所を見てから集中ですね。最初から一点に決め打つ必要はありません」
ガレスが低く笑う。
「結局、射れるとこ全部射れって話か」
「そういうことです」
「分かりやすくていい」
レオは配置図を見ながら、役割を頭の中で並べた。
「よし。弓は三人。洞窟正面やや後ろ、左右に散らす」
「横並びは駄目です」
テオドールがすぐに指摘した。
「火を吐く、あるいは一直線に飛び込んでくる可能性があります。一直線に並ぶとまとめて崩れます」
「なら二手」
「ええ。正面左に一、右に二。射線を少しずらしてください」
レオが付け足す。
「ガレスは左から牽制。俺は右で最初の油袋を投げる。ユルは二投目」
「燃えたら、すぐ罠へ誘導ですか」
ユルが少し青い顔で聞く。
「いや、誘導までは考えるな」
「混乱したら、だいたい真正面へ飛び出す。そこを罠に嵌める」
「もし横へ逃げたら?」
「その時は左右で押し返す」
「押し返せるんですか」
「押し返すんだよ」
ガレスがにやりと笑った。
「化け物相手に、できるかを考え始めると足が止まる。止まった方が死ぬ」
「…はい」
テオドールはそのやり取りを見ながら、最後に紙の上へ大きく矢印を書き込んだ。
「燃やして、飛び出してきたところを罠で嵌める。後は弓」
レオが言葉にすると、広場にいた男たちがその流れを頭の中でなぞるように黙った。
「やれそうか」
その問いに、最初に答えたのはミハルだった。
「昼に正面から行くよりは、ずっと」
バルドもゆっくり頷く。
「嫌なやり方だが、嫌な相手にはちょうどいい」
「褒めてるのか」
「褒めてる」
勝てるかどうかはまだ分からない。
だが、殺し方は見えた。
焚き火の向こうでは、女たちも不安そうにこちらを見ている。
子供たちは何をしているのか分からない顔だ。
だが、村の大人たちには分かる。
明日、この村はまたひとつ、森から脅威を狩り取ろうとしている。
西の森は、夜の向こうで静かだ。
だが静かなだけだ。
明日になれば、そこへ火を持って入る。
火を持つ魔物を、火で炙り出す。
我ながらえげつない。
だが、それでいい。
勝つためなら、綺麗である必要はない。




