第八章:銀の櫂、あるいは忘却の彼岸
「通りゃんせ」の合唱が、地鳴りのように「月下香」の建物を揺らしていた。
地下室の扉は、目に見えぬ無数の子供たちの手によって叩かれ、木肌が悲鳴を上げて軋んでいる。
地上では、影を奪われた人々が虚ろな瞳で列をなし、帝都の闇を彷徨っていた。その中心にいるのは、かつて地下水脈に消えたはずの教師。彼は今や、数千の絶望を束ねる「指揮者」と化していた。
「蓮華様、怖がることはありませんわ。この部屋を破る者がいれば、私のこの命と共に、その喉笛を断ち切って差し上げます」
栞は、黒く変色した銀の剃刀を構え、扉の前に立ちはだかった。彼女の背後では、影が蠢き、今にも彼女自身の肉体を食い破らんとしている。毒を取り込んだ栞の身体は、すでに限界を迎えていた。
蓮華は、声の出ない喉を押さえ、ピアノを見つめた。
『……行きはよいよい、帰りはこわい……』
この歌が完成してしまえば、帝都の住人はすべて、二度と帰れぬ「あちら側」へと連れ去られてしまう。
蓮華は、震える手で鍵盤に触れた。
彼女が選んだのは、これまでの不協和音ではない。竹久夢二が愛し、かつて「月下香」で最も静かに流れていた、中山晋平の『砂山』の旋律。
「……海は、荒海。……向こうは、佐渡よ……」
歌詞の無いピアノの音が、地下室を満たしていく。
それは、失われた故郷を想う、あまりに清澄で孤独な響き。
扉を叩く異形たちの手が、その音律に触れた瞬間、一瞬だけ動きを止めた。彼らは、自分たちが何者であったか、何を求めていたのかを、蓮華の純粋な音によって思い出させられていた。
「ああ、蓮華様……なんて残酷なほどに美しい音。……これでは、貴女を私の暗闇の中に閉じ込めておくことなど、できはしない……」
栞は、自嘲気味に微笑んだ。
彼女は悟った。蓮華の才能は、自分一人の愛で独占するにはあまりに眩しすぎるのだと。
栞は、剃刀を自らの左腕に向けた。
「蓮華様。私の血を、この『銀の櫂』に捧げます。貴女の旋律を、この地下から外界へと運ぶための、橋に……」
栞が自らの影ごと左腕を裂くと、そこから溢れ出したのは赤い血ではなく、青白い燐光を放つ情念の奔流だった。
その光は蓮華のピアノの音と混ざり合い、地下室を突き抜け、帝都の夜空へと噴き上がった。
「通りゃんせ」の呪縛を塗り替えていく、蓮華の奏でる鎮魂歌。
影を奪われた人々が、空を見上げ、その光の粒を浴びて正気を取り戻していく。
しかし、その代償として、栞の身体は次第に透き通り、足元から崩れ始めていた。
「栞様! 栞様!」
蓮華は、声の出ない口を大きく開き、心の中で叫んだ。
ピアノを弾き続けなければ、この光は途絶えてしまう。けれど、弾き続ければ、大切な「お姉様」が消えてしまう。
栞は、消えゆく意識の中で、最後の一撃を床に叩きつけた。
剃刀が砕け、その破片が銀の雪のように舞い上がる。
「行きなさい、蓮華様。……この銀の櫂で、貴女だけは、美しい明日へ……」
爆発的な光の渦の中で、蓮華は意識を失った。
最後に耳に残ったのは、かつて二人で聴いた『カチューシャの唄』。
けれどそれは、悲しい別れの歌ではなく、どこか遠い場所で誰かが待っているような、温かな春の予感を含んでいた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
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