第七章:氷の微笑、あるいは琥珀の監獄
声を失った蓮華にとって、世界は永遠の静寂に沈んだ。
代償として手に入れたのは、かつてないほどに研ぎ澄まされた指先の感覚と、栞からの、逃げ場のない狂おしいほどの愛だった。
栞は、蓮華を「守る」という名目で、幻燈喫茶「月下香」の地下に、豪奢な家具とピアノだけを揃えた琥珀色の部屋を設えた。そこは、外界の喧騒も、不気味な異界の叫びも届かない、二人だけの静かな監獄であった。
「蓮華様、喉の痛みはいかが?……ああ、無理にお答えにならなくていいのです。貴女が何も仰らなければ、貴女の心は私だけが正しく読み取ることができるのですから」
栞は、蓮華の膝元に座り、まるで宝物を愛でるようにその白い指を一本ずつ接吻でなぞる。
蓮華の喉には、あの「逆奏」の儀式のあと、蔦のような紫色の痣が薄く浮かび上がっていた。それは、彼女が栞のために声を捧げた聖なる傷跡であり、栞にとっては、蓮華を自分だけのものに繋ぎ止める「見えない鎖」でもあった。
蓮華はピアノに向かい、鍵盤を叩く。
溢れ出すのは、野口雨情の『青い眼の人形』。
「私は言葉がわからない。……けれど、心は通じ合う」
歌詞を持たぬ旋律は、地下室の厚い壁に跳ね返り、琥珀色の空気の中に澱んでいく。声を失ったことで、蓮華の演奏はより純粋な、魂の震えそのものへと変貌していた。
しかし、そんな二人の閉じた楽園を、容赦のない「現実」が叩き壊そうとしていた。
地上では、新たな童謡の流行が、これまでにない禍々(まがまが)しさを持って広がっていた。
『通りゃんせ、通りゃんせ……』
その歌声は、女学校の生徒たちだけでなく、帝都の市井の人々までもが、取り憑かれたように口ずさんでいるという。そして、歌を歌い終えた人々が、一人、また一人と、影を失った「生ける屍」となって街を彷徨い始めていた。
「月下香」の扉を、激しく叩く音が響く。
地下にまで届くその振動に、蓮華の指が止まった。
扉の隙間から流れ込んできたのは、冷たい冬の風と共に、無数の子供たちが泣き叫ぶような不協和音だった。
「蓮華様、動いてはいけません。……外の連中は、貴女の『声の無い歌』を求めて集まってきているのです。貴女を、この帝都を鎮めるための人柱にしようと……」
栞は、床に転がっていた「錆びた銀の剃刀」を手に取った。
剃刀は、栞の身体から溢れ出す黒い情念に呼応し、今や黒真珠のような禍々しい輝きを放っている。
「誰にも、貴女は渡さない。……たとえ、この帝都が灰になろうとも」
栞は蓮華をピアノの椅子に縛り付けるように抱きしめ、氷のような冷たい微笑を浮かべた。
監獄の扉の向こう側で、異形たちの合唱が、次第に大きくなっていく。
蓮華は、声の出ない喉で、必死に「何か」を叫ぼうとした。
それは栞への拒絶か、それとも、共に地獄へ堕ちる決意だったのか。
大正の冬の夜は、琥珀色の光を飲み込み、いよいよ最終的な破滅へと向かって、重く、静かに幕を下ろそうとしていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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