第六章:銀の剃刀の錆びる夜
地下室での惨劇から数日、帝都には重苦しい湿り気を帯びた雨が降り続いていた。
幻燈喫茶「月下香」の奥座敷。
蓮華は、横たわる栞の枕元で、氷のように冷たくなったその手を握りしめていた。
蓮華から「歌」を奪い取った栞の身体には、悍ましい変調が起きていた。彼女が握りしめていた銀の剃刀は、触れてもいないのに赤黒い錆に覆われ、まるで血を吸いすぎた獣の牙のように形を歪めている。
「……蓮華、様……」
栞が薄く目を開ける。
その瞳の奥には、以前のような怜悧な光はなく、泥濘のような闇が揺らめいていた。
栞の影は、灯火の動きとは無関係に、壁の上で奇妙な形に波打っている。それはまるで、彼女の体内に取り込まれた無数の死者たちの魂が、出口を求めて蠢いているかのようだった。
「栞様、もう喋ってはいけません。私のせいで、貴女にまでこんな……」
蓮華の頬を涙が伝い、栞の手の甲に落ちる。
その時、老給仕が音もなく現れ、銀の盆に載せた一通の封書を差し出した。
消印はなく、ただ「カチューシャの唄」と、震える筆跡で記された楽譜。
それは、失踪したはずの教師が遺したのか、あるいは異界そのものが二人の終焉を招くために認めたものか。
楽譜に記された旋律は、五線譜を食い破るように歪み、音符のひとつひとつが黒い這い虫のように蓮華の瞳に飛び込んできた。
「……逆奏、の旋律……」
蓮華は悟った。
栞の体内で暴れ狂う呪いを鎮めるには、この「逆奏」を奏でるしかない。
しかし、それは弾き手の「声」を代償に、魂の半分を鍵盤に捧げる禁忌の儀式であった。
「おやめなさい、蓮華様……。私のままで、いいのです。貴女を独り占めできるのなら、このまま、化け物に成り果てても……」
栞の影が壁から剥がれ、蓮華の足元に絡みつく。
それは栞の深層心理が露わにした、剥き出しの独占欲そのものだった。
蓮華は、栞の震える唇に指を当て、静かに首を振った。
「栞様。貴女が私のために毒を飲んだのなら、私は貴女のために、この声を捨てましょう」
蓮華はピアノの前へと歩み寄った。
『カチューシャの唄』を逆さまになぞる、不協和音の嵐。
一音、鍵盤を叩くごとに、蓮華の喉からは、火を吹くような痛みが走り、透明な「声」が霧のように消えていく。
代わりに、栞の身体から黒い影が吸い出され、錆びた剃刀へと凝縮されていった。
激しい打鍵の末、店内の蓄音機が爆発したような音を立てて止まった。
蓮華は鍵盤の上に崩れ落ち、もう二度と、一言も発することができなくなった。
けれど、静寂の中で目覚めた栞の肌からは死の色が消え、かつての気高き美貌が戻っていた。
「蓮華様……? ああ、なんということを……」
栞は駆け寄り、声の出なくなった蓮華を抱きしめた。
蓮華は微笑み、声の代わりにピアノの一音――もっとも純粋な「ド」の音を鳴らした。
声を失った乙女と、呪いを受け止めた乙女。
二人の「エス」は、もはや言葉を必要としない、血よりも濃い「旋律」の繋がりへと至ったのだ。
外の雨は雪へと変わり、大正の帝都を白く塗りつぶしていく。
錆びた銀の剃刀だけが、二人の罪の証として、床の上で鈍く光っていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
指摘や感想とか頂ければ励みになります。




