第三章:象牙の鍵盤と、銀の剃刀
「月下香」の店内は、急速に色を失い、煤けた幻燈の中に閉じ込められたかのようなセピア色の静寂に支配された。
カウンターに鎮座する「顔のない女」が、その無数のカチューシャを蛇のように蠢かせ、蓮華へと這い寄る。女の喉からは、女学校の教室で聞いたはずの少女たちの啜り泣きが、和音となって漏れ出していた。
「おどきなさい。……その醜い音で、蓮華様の耳を汚すのは許さないわ」
栞の声は、夜の底に沈む鐘のように低く、冷徹だった。
彼女の手にある銀の剃刀は、ガス燈の微かな光を吸い込み、青白く凍りついたような光を放っている。没落した九条家の蔵に眠っていた、呪われた名刀の破片。それは人の命ではなく、因縁という名の糸を断ち切るために研ぎ澄まされたものだ。
「栞様、いけません! その剃刀を使えば、貴女の魂まで……」
蓮華の叫びを遮るように、栞は一歩、怪異の前へと踏み出した。
栞の背中には、没落の際に怪異と取り引きした九条家の業が、黒い刺青のような痣となって浮かび上がっている。彼女の愛は、蓮華という光を繋ぎ止めるために、自ら泥濘(泥濘)に身を投じることで成立していた。
「構いませんわ。蓮華様がこの清らかなピアノを弾き続けるためなら、私の魂など、いくらでも悪魔に差し上げましょう」
栞が剃刀を振り下ろした瞬間、顔のない女の喉から、裂けるような悲鳴が上がった。
赤いインクの飛沫が、蓮華の白いセーラー服の襟を汚す。
蓮華は震える指で、ピアノの鍵盤を叩いた。
奏でるは、ドビュッシーの『沈める寺』。
水底から立ち上がる大聖堂の鐘の音のごとき重厚な旋律が、店内の濁った空気を浄化していく。象牙の鍵盤は蓮華の指から生気を吸い取り、代わりに異界を圧するほどの聖なる響きを放ち始めた。
ピアノの音律と、銀の剃刀の閃光。
二つの才能と狂気が交錯する中で、顔のない女は次第に形を崩し、無数の黒いカチューシャへと霧散していく。
しかし、怪異が消えたあとの静寂の中に残ったのは、血を流すように紅く染まった栞の指先と、魂を削り取られたように蒼白になった蓮華の姿だった。
栞は剃刀を床に落とすと、よろめく蓮華をその細い腕の中に抱きしめた。
二人の心臓の鼓動が、薄い布地越しに激しくぶつかり合う。
「……蓮華様、聞こえますか。外ではもう、カチューシャの唄さえ聞こえません」
栞の唇が、蓮華の額に触れる。それは接吻というよりも、主を喰らう獣の接吻に似ていた。
窓の外、帝都の空には、薄汚れた月が冷たく冷ややかに浮かんでいる。
二人は、救済という名の一蓮托生の深淵へと、一歩、また一歩と堕ちていく。
ピアノの残響だけが、主を失った店内に、いつまでも、いつまでも、呪文のように漂い続けていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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