手招きする記憶
流行りの音楽に乗せ、ハミングから調子っぱずれの歌唱にまで昇華していった沙苗の上機嫌が、いつの間にか鳴りをひそめていた。
ハルトが沙苗の異変に気づいたのは、"大観峰"と表記された青色の道路標識を目にした時だった。
これまで無意識に近い感覚でハンドルを握っていたことに、ハルトは今気づいた。
"ミルクロード"の金一色に波打つススキ野原。悠然と横たわる阿蘇のカルデラ。放牧された牛や馬が草をはむ、のどかな光景。
それら全てがハルトの目には、色褪せた古い記録映像のようにしか映っていなかった。
目的地の大観峰は目前だ。ここを右折し数百メートルほど走れば、ハルトにとって久方ぶりの景色に出会う。
"懐かしい"や"懐古"などという言葉を、この場所にだけは持ち込みたくない。それは、ハルトの意識の奥底にへばりついて、剥がせない感情だった。
※ ※ ※
日曜日の昼過ぎ、空は快晴とあって、所狭しと停められてある他県ナンバーの自動二輪、ファミリーカーなどの数々。
前方両脇の車列を縫うように見やりながら、ハルトは首を伸ばし気味に
空いた駐車スペースを探していた。
「何処でもいいから早く!」
いつからか押し黙っていた沙苗の絞り出すような断末魔の声に、ハルトは彼女の存在を再認識した。
車を降りるや否や、沙苗はお手洗いの方向へと一目散に駆け出して行った。そのぎこちなく小走りする後ろ姿に、ハルトは口を歪めて鼻をフッと鳴らし、笑いを抑えた。
ゆったりとした足取りで、沙苗の後を追う。談笑する革ジャン姿のライダーたち。スマホを掲げ、自撮りに夢中なカップル。老夫婦の連れている小型犬に駆け寄り、"お手"を促す幼い兄妹。
ハルトの目に映る全ての光景が、肌寒さを和らげてくれる温もりを持っていた。だが何故か、胸に微かなざわつきを覚えた。いや、"何故だか"でも"覚えた"でもない。それはハルト自身が創り上げた、フィルター越しの自己防衛の感情だ。ハルトはキツく目を閉じた。
軽やかな笑い声や、時折聞こえる感嘆。漂ってくる焼きとうもろこしの匂い。それらが遠い記憶の断片と混ざり合い、一つの黒い塊となって背後から手招きしてくる。
(やめてくれ……)
声に出さずとも、ハッキリとした意思表示を突きつけた。その瞬間「お待たせ〜」と、沙苗の声がハルトの背後をクリアにし、"現在"(いま)に連れ戻した。
キツく閉じていた瞼を開けて振り返ると、ぎこちないキャットウォークでこちらへ向かってくる沙苗がいた。ハルトはその姿に、ついさっきの小走りでお手洗いへ向かう沙苗を重ねた。そのギャップにたまらず吹き出した。
「……ははっ、あはははは!」
ハルトは躊躇いなく声をあげて笑った。まるで、さっきまで背後に居た黒い塊に見せつけるように。
「え……なに?」
いきなり高笑いを始めたハルトを見て、沙苗は怪訝そうな表情を浮かべた。ひとしきり笑い終えたハルトは、一呼吸置き、穏やかな声で言った。
「ありがとう」
目元を緩ませ微笑む。すると、沙苗は弾かれたように目を丸くし、そのままハルトを凝視した。沙苗は何かを言いかけたが、すぐに視線を泳がせた。
「……ありがとうって、なによ。意味わかんない」
沙苗は急に顔を赤らめ、誤魔化すようにそっぽを向いた。
ハルトはこの大観峰を、新たな場所にしたかった。
——何でもない女と来た、特に何でもない場所——
童貞をネタに、名前も知らない女から突然ドライブに誘われた時には、肝を冷やした。だが、降って湧いた好機だと捉えなおし、今日のドライブを決行した。謂わば、互いにとっての"利用"だった。
何でもない場所。
——『その瞬間』までは、確かにそうだった——。




