守りたい
ファサ——裸足の夕凪の足元に、髪の束が落ちる。ファサ——また一束。
鏡の中、心を覗き込むような眼差しで、夕凪は自身の目を見つめていた。
ハルトとの十一年越しの再会。いや、もっと昔。雪の降る夜、手袋を分け合って帰り道を歩いた幼い日。あの日から、たまに見かけるハルトはだんだんと大人びていき、その存在を遠くに感じるようになっていった。
季節を重ねる中、数は少ないながらも夕凪は恋愛を経験し、ハルトへの想いは胸の奥に静かに沈む思い出へと形を変えた。
——そう思っていた。それなのに……。
『シャリ』というハサミの乾いた音が耳元で響く度、髪の束と共に迷いが削ぎ落とされていく。
最後の一束を切り落とし、夕凪は短くなった髪を一度だけ指先で払い、鏡の中の自分を真っ向から見据え、強い眼差しと対峙した。 あの日、駿の身代わりになって負った背中の大火傷。それは単なる傷跡ではなく、彼女が一生をかけて守り抜くと、小さな命に誓った証しに他ならなかった。
——駿には私しか居ない。私には……駿が居ればいい。
ハサミを置き、夕凪は鏡の前を離れリビングへと向かった。
テーブルの上には、いくつもの赤丸で囲われた求人情報誌が重ねられている。その横、一枚の履歴書にペンを走らせていく。
最後の一文字を書き上げると、夕凪はそっとペンを置いた。
貼り付けた証明写真の中には、短くなった髪と、迷いのない瞳があった。
※ ※ ※
シャッターが降りたテナントの影、連なるエスカレーターの停止したステップ。閉店時刻を告げるアナウンスの余韻も消え、広大な吹き抜けに静寂が降りる。
家族連れやカップルで溢れかえっていた大分パークプレイスは、月光を浴びてまどろむ巨大な箱庭となった。
夕凪は、自身の細い身体を包む作業服の袖を捲り、ポリッシャーのハンドルを握り直す。
手元のスイッチを入れると、「グォーン」という低い唸りと振動が身体を伝わる。暴れ馬のような機械を制御しようと、夕凪は唇を噛み、必死に細い足で踏ん張った。
円形のブラシが濡れたタイルの上を滑らかに走り出した。昼間の喧騒を象徴する無数の足跡や汚れを、真っ白な泡が包み込んでいく。
深夜の冷気に震えていた身体も、すぐに火照りを伴いはじめた。
「……ふぅ」
襟足の髪が汗で首筋に張り付く。額に滲んだ汗を拭う余裕すら惜しんで、夕凪はただひたむきに、深い集中の中へ沈んでいった。
※ ※ ※
「親父、もういいのか?」
「あぁ。いつまでも休んでたら老兵は直ぐにポイだ」
まだ明けやらぬ群青の空が、カーテンの隙間から覗く窓際。数日ぶりに見るシャツとスラックス姿の郁人は、先日まで痛めていた腰に手を当て、ゆっくりと上体を反らせた。
「老兵って歳でもないだろ」
ハルトはそう言いながらも、年々白髪も増え、心なしか視線を落とさなければ、目が合わなくなった父の頭頂部を見つめた。
「おいおい……まさかだろ?」
慌てた様子でハルトの視線の先、自身の頭髪を弄る郁人。
「イヤイヤ、そうじゃない。そっちはまだ大丈夫」
「お前、そんな憐れむような目で見るなよ。驚くだろ」
郁人の言う『憐れむ』とはまた違う『哀れむ』が、ハルトの目に滲んでいた。
「紛らわしいやつだ」
苦笑いしながら台所へと向かった郁人は、棚から使い込まれたマグカップを二つ取り出した。
「お前も飲むだろ?」
ハルトの返事を待つまでもなく、慣れた手つきでコーヒーを注ぐ。
「顔洗ってくる」
リビングを離れ、ハルトは洗面所へと向かった。
敢えて冷たい水でバシャバシャと顔を洗い、目を覚ます。
リビングに戻ると同時に、レンジの『チーン』という音がハルトを迎えた。
郁人の「ナイスタイミング」という声と共に、温め直されたコーヒーのマグカップがハルトに手渡された。
両手で包み込むと、冷水にさらされ冷え切った指先がじんわりと熱を帯びていく。
「サンキュー」と告げ、コーヒーを啜りながらハルトはふと、子供の頃母親が同じ気遣いをしてくれた事を思い出していた。
「快気祝いにスペシャルモーニングをご馳走してやる」
そう言って郁人が冷蔵庫から取り出したのは、卵四つとハムとサニーレタスと——。
「スペシャルね」
笑いながらハルトはテーブルに着いた。
程なくしてジューッという小気味よい音が静かなリビングに響き、香ばしい油の匂いが漂い始める。
トーストされた食パンを郁人がテーブルに置き、ハルトがバターを塗っていく。
熱々のキツネ色をした表面にバターの塊を落とすと、じゅわっと濃厚で甘い香りがふわりと膨らむ。
おかわりの淹れたてコーヒーから立ち上がる、深くほろ苦い豆の香りも相まって、朝の空気はどこまでも贅沢に書き換えられていった。
「お待ちどうさんだ」
差し出されたのは、少し端が焦げた厚切りのハムトーストと、半熟の目玉焼き。そしてトマト、きゅうり、サニーレタスのサラダ。
二人はテーブルを挟んで向かい合う。
「いただきます」
サクッと音を立てながら、ハルトはまだ熱いトーストを口に運んだ。
「お前、そろそろ食う順番も気にかけろよ」
サラダのトマトをフォークで刺しながら郁人が言う。
「ん?」
何のことか分からないといった様子で、ハルトは咀嚼したトーストを飲みこみ、コーヒーを啜った。
「ベジファーストだよ。三十路は二十歳と違うんだから、谷山みたいな腹にはなりたくないだろ?」
「食事中にやめてくれ」
「お前、俺よりヒドイな」
郁人が笑い、ハルトもつられて笑ったその時、ふと留守電に残された谷山の声を思い出した。同時に脳裏を過ぎったのは、夕凪の残像——意図せずその背中に覆い被さり、弾かれたように身をかわした彼女の強張った表情。
この数日間、幾度となく思い出され、ハルトの心をざわめかせていた。
十一年前——大火傷を負ったあの日から、彼女はどう生きてきたのか。心の奥深くに抱えているのだろう傷に、容易くは触れられないと知りながら、それでも寄り添いたいと思うのは、ただの思い上がりなのか。
遥か遠い日のクリスマス会。嘲笑の中で両膝を抱えていた夕凪の姿と、ナイト(騎士)気取りの自分。ハルトはそんな幼い二人を思い出す。
「なぁ親父、隣地区にいた——」
「ん? 何だ?」
「……いや、何でもない」
「そうか。ほら、さっさと食って用意するぞ」
「あぁ。親父、今日は何処まで行くんだ?」
「今日は桃園小だけだ。会社が気を利かせてくれてな、重い書き初めセットや図工の粘土は他の奴に回してくれたよ。俺は資料封筒と、計算ドリルの補充だけだ」
「そうか。まぁ、気をつけてな」
口に運びかけたトーストを皿に戻し、ハルトはサニーレタスをまとめて頬張った。
窓の外、十一月の朝の光が静かに一日を連れてくるように、東の空がいつの間にか淡く白み始めていた。




