小さくて大きな背中
「どうぞ」
「サンキュー」
十時のお茶出しをそつなくこなしていく沙苗。だったが……。
「芦刈さん、僕のはほうじ茶だよ。これ、玄、米、茶」
デスクの湯呑みを指差し、先輩風を吹かした同僚が嫌味っぽく言う。
「あ、ごめんなさい! すぐ淹れかえます」
「だいじょうぶ〜?」
湯呑みを回収し、沙苗は給湯室へと急いだ。その距離さえ遠く感じる。
パタンと後ろ手に閉めた扉にもたれ掛かかり、大きく息を吐き出す。誰も居ない狭い給湯室では、ポットが湯を沸かす音だけが聞こえる。
その白い湯気を見ながら沙苗の頭の中は、片時も離れないハルトの事でいっぱいになっていく。
『こういうの、無理なんだよ』
『正直言って困る』
ロビーで示された拒絶。そのショック。
あの日大観峰で、寒さに震える体を気遣ってくれた優しさと、屈託のない笑い声、ありがとうの言葉と微笑み。歩けない体をおぶってくれた背中の安心感。
様々な感情が交互に沙苗の胸に去来する。今まで感じたことのない、この苦しさが何なのかは解らない。ただ、一つだけ確かなこと、それはハルトが見せた優しさが、決して自分だけの"特権"ではない事。
その現実が、今視界に映るポットの白い湯気のように、沙苗の心に真っ白なもやを掛ける。
——特権。自分以外の誰かがそれを得るなら、それを阻止しなければならない。沙苗の心の声が、沙苗自身に訴えかける。
「私以外……」
その言葉を口にすると同時に沙苗の脳裏を過ったのは、ロビーでハルトを待っていた女——容姿端麗な自分でさえ嫉妬する程のオーラを放っていた、あの女。
「何処かで会った気が……」
落とし物だという小銭入れを持っていた。そして、それを奪い取った自分。そこまで思い出して、沙苗はハッとした。記憶は一気に、秋風の吹き荒れる大観峰へと遡る。
風にさらわれた帽子。それを拾い上げた見知らぬ女。その女の手から、やはり同じようにして帽子を奪い取った、あの日の自分。
——間違いない! 同じ女だ。
「あの時から……いや、その前からずっとハルトを狙ってたっていうの!?」
沙苗は大きく波打つ鼓動をなだめるように、震える手で胸を撫でつけた。
淡い記憶の中、夕凪のライダースーツの黒だけが鮮明に浮かぶ。
「ゴキブリ……あのゴキブリ女」
空を睨むように、沙苗は呟いた。
正午を告げる鐘がビル全体に鳴り響く。
昼食を取りにエレベーターホールへと向かう人々に紛れ、沙苗も扉前まで歩いた。ワイヤーのかすかな振動音と共に、箱が上階から下りて来る。
階数表示の明かりが『4』から『3』に変わる瞬間、一歩踏み出す人の群れから弾かれるように、沙苗は咄嗟に踵を返した。逃げるように立ち去る背中越しに、『チーン』というエレベーターの到着音が聞こえる。
「先輩、今日は奢るっスよ」
何処かで聞いたような声。沙苗は振り向かずに共用階段へと向かった。
ざわつく胸をなだめるようにしながら、階段を駆け下りる。
一階ロビーに辿り着いた時、ちょうどエントランスを出ていくハルトの背中が見えた。その手から高く放り上げられた小銭入れが、秋空の柔らかな光を反射する。それを掌でキャッチするハルトの横顔。
秋の陽光の中へと踏み出していくその笑顔が、この薄暗い場所に留まっている沙苗には痛いほど眩しい。
遠くなっていく背中を、沙苗はただ立ち尽くしたまま見送っていた。
※ ※ ※
テーブルの上に置かれた数冊の求人情報誌。夕凪は自室でそのページを捲っていた。しかし、程なくして指が止まる。目に映る情報の網羅は、夕凪の思考の外にすり抜けていく。
代わりに深く入り込んで来るのは、ハルトの部屋で過ごした束の間の時間の出来事。
懐かしく温かな時間ではあったが、よろけたハルトの重さと体温を背中に受けた瞬間の疼き。その時の大きく揺らいだ感情の波が、未だ凪ぐことなく、夕凪は戸惑いを抱えたままでいた。
夕凪は無意識に背中へ手を回した。薄い衣服の下、指先が十一年前のあの歪な凹凸をなぞる。
ふぅっと小さく息を吐き出し、膝を抱えて頬を埋めた。顔を上げると、求人誌の束の横、駿がくれた白い貝に目が止まる。
夕凪は貝を手に取り、耳にそっと当てる——サァーッという波の音。ラックの上に飾られている写真立ての中、笑顔の駿が夕凪の胸を柔らかく包み込んでゆく。
立ち上がった夕凪は薄手のシャツを脱ぎ、チェストの引き出しからインナーを取り出した。タンクトップの上から吸い付くような袖口へと、白く細い腕を滑り込ませ、壁掛けハンガーの黒いライダースーツに素早く身を包んだ。
※ ※ ※
下校時間を過ぎた佐伯市立小町台小学校のグラウンドでは、サッカー部の子供達が活気のある声をあげながら、ボールを追いかけている。
その片隅、一人サッカーボールでリフティングを繰り返している駿。夕凪は遠巻きのフェンス越しから、その姿を見つめていた。
空中に蹴り上げたボールをキャッチする際、つま先で弾いてしまい、夕凪の方に向かってボールが飛んできた。
夕凪は咄嗟に身をひるがえし、停車してある車の陰に身を潜めた。
ボールを追いかけ、近づいてくる駿
。拾い上げたボールを小脇に抱え、グラウンド中央の活気に満ちた部活生達をただじっと見つめていた。夕凪は息を殺すように、その小さな背中をそっと見守っている。
暫くして、コーチらしき男性の合図と共に、子供達が一斉にその人物の前に集まり、整列した。
「ありがとうございました!」の号令と共に、子供達は散り散りになり、内の一人が駿の方へ駆け寄って来た。
「駿! 帰ろ」
笑顔のその子が駿に声をかけた。
「うん」
夕凪からはその表情が見えない背中越しの駿の声が、心なしか消え入るように小さく聞こえた。
「……どした? 駿」
「ううん」
「あ、これ? いいって言ったんだけど、親がサイズもすぐに合わなくなるからって。でもこのシューズ、最新モデルだからやっぱカッコいーや」
「うん。カッコいい」
「前のヤツ、駿にあげる。あんまり使ってないし。駿にはちょっと大きいかもしんないけど」
「ううん。ありがと」
サッカーが好きな駿は、友達からも誘われたが部活には入部しなかった。
部活にかかる費用、弁当作りや車出し。駿が『孝子おばちゃん』に遠慮してのことだと、夕凪は知っている。
幼く無邪気に見える駿の内面の強さ——いや、そうしなければならないという状況を与えている辛さが、夕凪の胸を締め付ける。
二人の声が夕凪から遠ざかっていく。駿の小さいはずの背中が大きく見える。それが夕凪にはただただ苦しい。
「ごめんね……駿」
駿の後ろ姿と夕凪の呟きが、夕闇に吸い込まれていき、活気を失ったグラウンドには、静寂だけが佇んでいた。




