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また、逢えたね—小さなウソの恋物語—  作者: ゆまみ


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16/18

『十一年』

 砂場の中心に、彼女が立っている。

 風に踊る長い髪、月光に透ける白い肌。ハルトはたまらず手を伸ばす。その指先が、彼女の肩に触れる、その寸前——。

 手応えはなく、ハルトの手は虚しく空を切った。彼女の身体は陽炎のようにゆらぎ、霧となって指の間をすり抜けていく。

 「夕、凪……!」

 叫んだ声は音にならず、ハルトは膝から崩れ落ちた。

 「——っ!」

 目覚めると同時に、呼吸の乱れを感じた。背中にあるのは、使い慣れたリビングのソファーの感触。

 ハルトは見慣れた天井を呆然と見つめた後、重い上体を起こした。その瞬間、軽い目眩が襲い、思わず額を掌で押さえる。自分でも分かるほど、とにかく酒臭い。が、ふと鼻腔をくすぐる別の匂いにハッとして、ハルトはキッチンに目をやった。そこには、髪を後ろで一つに纏めた女性の後ろ姿。

 「……母さん?」

 十一年間、一度も呼ぶことのなかった言葉がこぼれた。 その声に、女性の動きが止まる。そして、振り向いたのは——母ではなかった。

 「ゆう……」

 ハルトは言いかけて淀んだ。

 ——オレはまだ夢を見てるのか?

 夢かうつつか分からない夕凪が、お玉を片手に少し困ったような、けれど柔らかな笑みを浮かべてそこに居る。

 「——お水、持ってくね」

 "その"夕凪は手際よく浄水器からコップに水を注ぐと、ハルトの元に歩み寄り、それを手渡した。茫然と夕凪の顔を見つめながら、コップを受け取ったハルトの手に、確かに感じるざらつき。

 ——現実だ。ハルトはようやく確信した。コップの水を一気に喉に流し込むと、体内の毒素を洗い流していくようだった。

 「……ありがとう」

 ハルトが返した空のコップを手に、夕凪は再びキッチンへ戻った。

 「ごめんなさい、勝手に使わせてもらって。冷蔵庫にあった有り合わせで、二日酔いに良さそうなお味噌汁を」

 夕凪の声が聞こえる。現実と分かっていながら、実感が湧かない。ハルトはソファーに座ったまま、その背中を食い入るように見つめていた。 


※ ※ ※

 

 「ご馳走様」

 最後の一滴を飲み干し、ハルトは汁茶碗をテーブルに置いた。

 豆腐とワカメのシンプルな味噌汁だったが、五臓六腑に染み渡るような、優しい味がした。

 夕凪は飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置き、ソファーの脇の床に腰を下ろした。

 長い年月を隔てた再会は、二人の間の僅かな距離でさえ、その空気の層を厚くしているようだ。

 それでも両膝を抱えた夕凪の姿に、クリスマス会での出来事が昨日の事のように、思い出される。

 嘲笑の中で独りぼっちで縮こまっていた、小さな少女。その面影が、目の前の美しく成長した彼女の輪郭にふわりと重なる。

 ——ピーポーピーポー——ふと、遠くサイレンの音がハルトの耳に届いた。その音はだんだんと近付き、カーテン越しに透ける赤色灯と共に過ぎ去った。

 その瞬間、あの時の主婦たちの言葉がハルトの脳裏に蘇る。

 ——あの子、大火傷を負ったみたいで——

 夕凪を見つめていたハルトの口から、思わず安堵の声が漏れる。

 「……良かった、無事で」

 「えっ?」

 夕凪はその言葉の真意が分からず、不思議そうにハルトを見上げる。

 「——あ、いや。何でもない」

 ハルトは慌てて視線を泳がせた。

 「……それ、こっちのセリフだよ」

 「……そっか、そうだよな……ここまでどうやって?」

 「タクシーって距離じゃないし、もし表札が変わってたら、玄関前に置き去りにしてた……かもね」

 「本当にごめん。ありがとう」

 強いアルコールにやられ、再会の感動も得られぬまま倒れてしまった無様さ。さほど遠くない距離とはいえ、力も入らず鉛のように重くなった自分を彼女の細い身体に預け、ここまで運んでもらった不甲斐なさ。

 ハルトは苦笑いするしかなかった。

 「それにしても……」 手に取ったカップの縁を見つめたまま、夕凪が口を開く。 「ハルトくんだったなんて、あの時は全然気が付かなかった」 

 ——大観峰。視線を交わしたあの瞬間が、再びハルトの脳裏に鮮明に甦る。

 ——何故、あの日大観峰にいたのか。

 ——大火傷を負ったというその日から、彼女はどう生きてきたのか。 

 聞きたいことや、話したいことは山ほどある。けれど、何からどう切り出したら良いのか。

 ハルトはただ頭を掻き、呟いた。 

 「あぁ……。十一年も経てば変わるよな」

 その何気ない言葉、いや、"十一年"という年数に、夕凪がハッとした様子でハルトの顔を覗き込む。

 「十一年……、細かく覚えてるんだね」

 夕凪のその言葉に、ハルトは無意識にも年月を数えていた事を実感した。

 キッチンのシチューの、甘い匂いをまとった湯気が消え、代わりにむせ返るような煙草の臭いが鼻をついた、あの日——母親が失踪したあの日からの年月。

 ふと、夕凪に視線を戻す。彼女もまた、どこか遠い場所を見つめるような瞳をして、コーヒーカップを両手で包み込んでいる。

 夕凪にとっても、その数字は特別な意味を持っていた。赤ん坊の駿と入れ替わりに父親が消え、母親までもが狂気に犯され跡形もなく姿を消した。 残されたのは守るべき小さな命と、背中の消えない火傷の痕。

 二人の間に、十一年という重く苦しい年月が淀み、時計の針を止めるような沈黙が佇む。

 『これ!』二人の声が重なる。その視線の先には『Xmas'』の小銭入れ。

 「——忘れ物、わざわざ届けてくれて……ありがとう」

 ハルトの言葉に、夕凪は膝を抱える腕に少しだけ力を込め、真っ直ぐに彼を見つめた。

 「こっちこそ。あの時の……クリスマス会の時のお礼、ちゃんと言ってなかった。助けてくれて、ありがとう」

 目の前の彼女が見せたのは、大観峰でのどこか寂しげで儚さを纏った女性ではなく、制服の頃、あどけない少女の面影をのぞかせる微笑み。

 『ドクン』とハルトの心臓が大きく跳ねる。

 「……オ、オレは朝比奈ナイト(騎士)だからな」

 咄嗟に口を突いて出たハルトの冗談に、一瞬、呆気に取られた夕凪。次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。

 「プッ! あはは! 現れていきなり倒れるナイトなんて居ないよ。こんな再会ってある?」

 「イヤ、それは……ダサすぎるよな、ハハ」

 笑い合う二人の間に、ようやく十一年の重苦しさを溶かすような、柔らかな空気が流れた。

 その余韻も去り、ふたたび訪れた沈黙を際立たせるように、時計の針が刻む音が大きく響く。

 「……鍵は、上着のポケットに戻しておいたから」

 夕凪は纏めた髪を手早くほどくと、まだ残っているコーヒーの入ったカップを手に取った。

 「あ、あぁ……」

 「バイク、公園に置いたまんまだし。じゃあ、私……行くね」

 せき立てられる様に立ち上がり、ハルトに背を向けた。

 「送るよ」

 慌ててソファーから立ち上がったハルト。その途端、血の気が引き頭が激しくふらつく。バランスを崩した身体は夕凪の背後に覆い被さった。

 背中にのし掛かるハルトの重みと体温。

 「——っ!」

 夕凪は弾かれたように、激しく身を交わした。

 「ごめん……」

 ふらつく額を押さえながら詫びるハルトの目に、強張った表情の夕凪が映り込んだ。心臓が『ドクン』と音を立てる。

 「——ごめん」

 その表情にどんな理由があるかは分からないが、再びハルトは詫びた。

 ——プルルル……。

 ハンガーに掛けられたハルトの上着ポケットから、スマホの着信音が鳴り響いた。その音が、早鐘のように打ち付けるハルトの鼓動と重なる。

 「……病人は、病人らしく寝てなきゃ、じゃあね」

 夕凪は一度も振り返らず、逃げるように玄関へと向かった。バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まる。

 力の抜けたハルトの身体は、その場に崩れ落ちた。鳴り続けているスマホの着信音が耳にうるさい。

 程なくして、ピーッという電子音の後、スピーカーから聞き覚えのあるしゃがれ声が流れてきた。

 『おーいハルト〜、ヒック! 親父、潰れてしもうたんで、こんまま座敷で寝かしとくぞ。明日の朝、送ってくわ、ヒック! ……じゃあな』

 谷山の酔いどれ声が、冷えた部屋に虚しく響いた——。


 

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