運命のカウントダウン
——シュー。
エレベーターの扉が、最後まで開いた。
「今日はパスタどう?」
「えー、昨日も麺だったじゃん」
「アミュプラザの新しいカフェに行ってみない?」
笑い声を弾ませながら、三人の女性社員がロビーを横切り、自動ドアの向こうへ消えていく。その背中を、夕凪はぼんやりと見送っていた。視線を戻したエレベーターの奥。そこに、もう一つの影が現れた。
紙袋を両手で大事そうに抱えた女性——沙苗——が、笑みを浮かべ、ゆっくりとした足取りで歩み出した。
長椅子に腰を下ろし、紙袋を膝の上に置いた沙苗の視線が、ロビーの一角で止まった。
真っ直ぐ前を見つめている一人の女——夕凪——が凛とした佇まいで立っている。
自分と同じ、まるで誰かを待っている。沙苗はそんな気配を感じた。その時、夕凪が胸のポケットに手を差し入れた。ゆっくりと引き出されたのは手のひらサイズの、布製の——小銭入れ。何気に視線を送っていた沙苗だったが——。
「——ッ!」
"ドクンッ"という心臓音と共に、呼吸が止まったような感覚。
次の瞬間、椅子から立ち上がった沙苗の膝から、ガサっという音を立てて紙袋が滑り落ちた。その音に、夕凪が静かに顔を向けた。夕凪と沙苗、二人の視線が交差する。
立ち尽くしている沙苗の表情は、尋常ではなかった。驚き、困惑、そして——何か、切迫したもの。
——ゴオォォォン……。
正午を知らせる軽快な電子音が、沙苗の耳には、まるで天国から地獄へと引きずり落ろす、冷徹な檻の下降音のように響いた。
——朝比奈ハルトの物を、何故この女が?
沙苗の目は、夕凪の手に握られた小銭入れに、釘付けになったまま、一歩、また一歩と夕凪へ近づいていく。
——コツッ、コツッ——
夕凪。沙苗。二人だけの静まり返ったロビー。沙苗のヒールの足音が、冷えた空気を揺らすように、響き渡る。
夕凪は、小銭入れを握りしめたまま、近づいてくる沙苗を見つめた。
「……それ」
夕凪の前に立ちはだかる沙苗の声が、震えていた。突然現れた、会ったこともない"はず"の女の手の平に収まっている小銭入れ。そこに施された『Xmas’』の刺繍。自販機前で何度も目にしていたそれは——間違いない、ハルトの物だ。
「それ、どうして……あなたが」
震えながらも沙苗の声は、まるで鎖のように夕凪の両肩をがっしりと掴んで離さない。
「これは……落とし物を、お返しに」
まるで見えない何かに拘束されたかのように、夕凪の身体は硬直した。
「落とし物……? 誰に……誰に返すの?」
逃がさない。逃れる事など、決して許さない——沙苗の眼差しに宿る異様な熱量が、更に夕凪の呼吸を追い詰める。
「……ハルト……朝比奈さんに」
「——ダメよ!!」
沙苗の悲鳴にも似た拒絶の言葉が、鋭い刃と化して夕凪を貫いた。
「私に……返して」
「え……?」
「朝比奈……ハルトのもの、私に返して」
狂気と切望の入り混じった、沙苗の懇願に息を呑み、たじろいだ。
——この夕凪でさえも。
「分かり……ました」
手の中の小銭入れに、夕凪は最後にもう一度だけ視線を落とした。愛おしそうにそっと指先でその感触を確かめてから、差し出すように手を伸ばす。
「……お願いします」
夕凪のその言葉を遮るように、沙苗は小銭入れを剥ぎ取るように奪い取った。——その瞬間、夕凪の脳裏に鮮烈な光景がフラッシュバックした。
秋風の吹き荒れる大観峰。拾い上げたあの帽子を、同じように無遠慮に奪い去っていった一人の女。そこまで記憶の糸が繋がった瞬間、夕凪の全身を、言いようのない熱が支配した。
——一緒に居たあの男性——
視線が交差した刹那、時間の流れを狂わせるような、言い知れない感覚に襲われた。そして、彼の瞳にも同じ"揺らぎ"を感じたのは、間違いじゃない。今、夕凪にはそれがハッキリと理解できた。
遠い昔の幼い日、手を繋いで雪道を歩いたあの少年が、長い月日を超えて目の前に立っていた。
「もう行って結構よ」
沙苗の冷ややかな言葉に、夕凪はハッと我に返った。沙苗越しのエレベーターの階数表示の数字が、上昇していく。表示灯が『4』で停止すると同時に、『ピーン』という鋭い電子音が響き渡った。
誰かを連れたその数字が再び下降を始める。 『3』……『2』……。 一階一階、現実が近づいてくる速度に合わせるように、夕凪の鼓動は激しく加速していった。
「何をしてるの? 早く行きなさいよ」
沙苗のその言葉に押されたからではない。夕凪は自身の内側に溢れ出した激しい混乱に弾かれるようにして、沙苗とその奥のエレベーターホールに背を向けた。そして、足早にエントランスへと歩きだした。出口の前で一瞬立ち止まり、振り返ってエレベーターの扉を見つめた。
——きっと、また逢える。
夕凪はその想いを抱え、前を向き、自動ドアをくぐった。 エントランスを出て行く夕凪の後ろ姿を見送り、沙苗はハルトのジャンパーの入った紙袋を、床から拾い上げた。手には、まだ夕凪の温もりを残しているかのような、小銭入れが握られている。
——ピーン。
エレベーターが到着し、沙苗の背後で扉が開いた。その瞬間に、あの鏡の前で作り上げた笑顔。その面を、歪んだままの自分の顔に貼り付け、後ろを振り向いた。
ハルトが立っている。その横に居る林田には目もくれない様子で、沙苗が駆け寄る。
「ハルトくん」
沙苗の高揚した声に、ハルトはあからさまに戸惑いを浮かべた。名前など呼ばれた事はない。それに——。
「これ、助かったわ。本当にありがとう」
ジャンパーの紙袋を差し出すその穏やかな口調と、柔らかな笑顔。先日の大観峰での奔放で享楽的な沙苗とは、別人のようにすら見える。
「……あ、あぁ」
紙袋を受け取ったハルトの目に、沙苗の容姿にあまりにも不釣り合いな"異物"が、その手に握られている事に気がついた。古びて黒ずんだ——小銭入れ。
「それ!」
——何故、この子がこれを? ハルトは混乱した。
「えぇ、預かっておいたわ。いきなり押し付けられて驚いちゃったけど」
「そう……か。ありがとう」
ハルトは小銭入れを受け取ろうと、手を伸ばした。咄嗟に沙苗は、後ろ手に小銭入れを引っ込めた。訝しげに沙苗を見るハルトに、沙苗は悪戯っぽく笑う。
「ランチ行きましょ。イタリアンなんてどうかしら」
——まただ。この女は何かと引き換えに、何かを提示してくる。
ハルトはわざと大きなため息をついてみせた。
「悪いけど、苦手なんだ」
「そう。じゃ、"今日は"中華で——」
「こういうの、無理なんだよ」
「——こういう……って?」
「正直言って困る」
ハルトは強くハッキリとした口調で言った。
「そんな……困らせるつもりなんて……」
そう返すのが沙苗の精一杯だった。
「……あ、じゃあオレはこの辺で——」
呆気に取られた様子で傍観していた林田が、そそくさと立ち去ろうとし
た。
「オマエ、何が食いたい?」
引き止めるようにハルトは林田に声をかけた。
「えっ? でも、お客さんって……えっ?」
訳が分からないといった様子で、林田はハルトと沙苗を交互に見る。抜け殻のように立ち尽くす沙苗の手から、ハルトは小銭入れをさらった。
「これ、アリガト」
素っ気なくそう告げると、「行くぞ」と林田をせき立て、俯き黙り込んでいる沙苗を置き去りに、ロビーを後にした。
「いぃんスか、先輩?」
沙苗を気にしながら林田が訊ねる。
ハルトと林田がエントランスを一歩出た瞬間、冷たい秋風が横から吹きつけ落ち葉を舞い上げた。咄嗟に反対側に顔を向けたハルトの視界に、駐車場から出てきた一台のバイクが飛び込んできた。
鋭い加速音を立てながらみるみる近付き、向かい風を切り裂くように目の前を走り抜けたのは、見覚えのあるワインレッドのCBR。
——大観峰のあの女——
ハッとして、ハルトは反射的に、そのナンバーに目をやった。
『184』——間違いない。
何故、彼女がこのビルに? その答えはすぐさまハルトの脳裏に駆け巡った。まだ手の平の中に握ったままの小銭入れを見つめる。
——彼女がこれを返しに。
咄嗟に車道の脇に駆け寄った。立ち並ぶビル街に、吸い込まれるように消えていくバイクの後ろ姿。
ハルトはその赤い閃光をいつまでも見つめていた。




