君を待つロビー
週の始まり、月曜日の大分市街地。普段と変わらず、スーツ姿や作業着に身を包んだ人々が、颯爽とした足取りで忙しなく行き来している。通りには既に、排気ガスの臭いが立ち込めている。
その一角にある七階建てのテナントビル。四階フロアの自動ドアを抜けると、少し雑然としたオフィスが広がっている。整然と並んだデスクの間を、社員達がそれぞれの役割を抱えて行き交っている。
ハルトは自分のデスクに腰を下ろし、モニターに表示されたメールを確認していた。特段、問題は無いようだ。ハルトはホッとした表情を浮かべ、缶コーヒーをひと口飲んだ。その直後、一通のメールを知らせる着信音が鳴った。
差出人の名前を見て、ハルトは僅かに眉間にシワを寄せ、後ろを振り返った。数メートル先のデスクに座った林田が、寝癖で跳ねた後頭部の髪を寝かせつけながら、ハルトに視線を送っている。林田を一瞥した後、ハルトはメールを開いた。
『寝坊→朝メシ抜きで死にそうです。今日の昼はガッツリいきましょう!』
ハルトは呆れた表情を浮かべ、キーボードを叩いた。
『社用PCを使うな! ついでだから返信するけど、今日の昼は一人で行ってくれ』
コーヒーを飲み、パソコン横の資料に目を移した瞬間、再び着信メール。
『もしかして、まだ怒ってるんですか? あの事』
ハルトは鼻をフンッと鳴らし、デスクを立った。ツカツカと林田に向かって歩み寄っていくハルト。林田は「えっ? えっ?」と、座ったままの姿勢でけ反っている。自分の前に立ちはだかったハルトに、林田は作り笑いを浮かべた。
「もう許してくれたんじゃ——」
「ほら」
ハルトはシャツの胸ポケットから栄養食品バーを取り出し、林田の頭に置いた。
それを手に取り、「サンキューです」と言いつつ、早速封を開けている林田にハルトは言った。
「お客さんが来るんだよ」
「お客さん……。コレ、飲みもんないとな」
無関心な林田にハルトは頭を掻いて、自分のデスクに戻っていった。
椅子に深く腰掛けたハルトは壁の時計をちらりと見た。午前十時ちょっと前。"来客"との対面まで、あと二時間ほどだ。ハルトは冷めた缶コーヒーを、グイッと飲みあげた。
※ ※ ※
三階フロアのお手洗い。鏡前で、沙苗は念入りにメイクをチェックしていた。 前の晩に、アレコレ悩んだ挙げ句に選んだ、タイトなミニのワンピース。
今朝、普段より時間をかけて髪を整えた。周囲の男たちの視線が自分に刺さるのを、いつものように快感として受け流す——はずの沙苗だが、今日は違う。この服も髪も、かけた時間も、たった一人の男の為のものだった。
一通りチェックを終えた沙苗だが、鏡をじっと見つめ、両手で頬を軽くマッサージした。それから、できるだけの柔らかな表情を作り、ニコリと笑ってみせた。これで完璧と言わんばかりに、満足げな足取りでその場を後にした。
自動ドアを抜け、沙苗は派遣先オフィスの自分のデスクに腰を下ろした。その足元に紙袋が置かれている。中には丁寧に畳まれた、あのダサいジャンパーが入っている。 先日、ハルトと訪れた大観峰。そこで寒さに震えている沙苗を気遣って、ハルトが着せたジャンパー。帰り道、自宅近くで降ろしてもらった際、クリーニングして返すからと、沙苗はそれを半ば強引に預かっていた。
デスクの上にはミルクティー。いつもは決まってブラックコーヒーだった。あの日から、沙苗はミルクティーの甘さを求め始めた。まだ温かい缶を頬に当てると、短くも濃いハルトとの時間の記憶が、リプレイされる。
足を挫いて動けずにいた自分をおぶってくれた、あの広い背中の温もり。何故だか分からないけど、「ありがとう」と言いながら、見せてくれた屈託のない笑顔。寒さから守る為のジャンバー、挫いた足の為の湿布。
あの日のハルトの優しさが胸に去来する度に、チクリとした微かな痛みを覚える。それは、沙苗にとって初めて抱く感情なのかも知れない。
——朝比奈ハルト——
同僚女性達の井戸端会議の通りすがりに、何度も名前を聞いていたし、ビル内で幾度も見かけていた。確かに女性社員が放ってはおかない容姿ではある。
『あの朝比奈さんが童貞かぁ』
ハルトの同僚の誰かが呟いたあの一言。沙苗が本当にハルトに興味を引かれたのは、そこだった。
——割と裕福な家庭の次女として生まれた沙苗は、その愛らしい容姿で幼い頃からおだてられて育った。クラスの男子も女子も沙苗を放ってはおかず、いつも輪の中心に笑顔の沙苗がいた。何人もの男子生徒から告白され、交際もした。しかし、終止符を打つのはいつも相手だった。
思ったほど悲しくはなかった。『可愛い』と言われ、『綺麗だ』と褒められ——それでも、誰も沙苗の内側を見ようとはしなかった。いや、見せなかったのは彼女自身だった。別れの度に空虚な心を置き去りにし、蓋をしてきた。そうして、選ばれるのではなく、自分が選ぶ側だと思い込むことで、自尊心を保ってきた。
両親の寵愛は、いつも沙苗の七つ上の姉に向けられていた。幼心に感じていたその"違和感"は、薄情にもドア越しに聞こえた祖母のあからさまな一言で、白日のものとなった。
「産んでよかったんかねぇ。絵里奈だけやったらね」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。しかし、頭より先に心臓の鼓動がその意味を知らせた。沙苗は小さな身体をこわばらせ、息を殺してドアの向こうの母親の返事を待った。
——否定の言葉も、思い遣りの言葉も聞こえなかった。
ただ、苦しかった。哀しかった。あの日から沙苗は、"必要とされること"に飢えていた。自ら愛を与える余裕などない。沙苗は選ばざるを得なかった。ただ誰かに愛を与えられることで、自分の価値を証明する生き方を。
——与えられる愛——
自分が思っている以上に求めていたもの。ハルトによって、まざまざと思い知らされた。
——『あの朝比奈さんが童貞かぁ』——
何が彼をそうさせているのか。彼は何を抱え、どう生きてきたのか。ハルトを知ることが、沙苗自身の渇望を満たす、唯一の道標だと思えた。
——午前十一時過ぎ。昼休憩までは、一時間をきっている。足元の紙袋から覗くジャンパーが目に入る。とうに温もりの消えたミルクティー。沙苗はそれ以上、口をつけなかった。
※ ※ ※
大分市郊外の古いアパート。夕凪の自室のテーブル上には、駿がくれた白い貝、その隣にはあの小銭入れ。手に取り『Xmas'』の不器用な刺繍を見つめた。
持ち帰った日から何度も触れ、夜にはあの雪の日の光景を手繰り寄せながら、眠りに落ちていった。
遠い昔の、小さな手を包んでくれた温かい手のひら。大事にすると言って微笑んだ、優しい顔。会えるだろうか。覚えていてくれるだろうか。いや、覚えていなくてもいい。ただ、"二人を繋ぐ大切な忘れ物"を返して、あの日のお礼を言いたい。それだけだ。
夕凪は小銭入れをジャケットの胸ポケットに仕舞った。左胸の鼓動に、直接触れているような感覚。
「ハルトくん」
声に出して名前を呼んでみた。じんわりと胸に温もりが宿る。テーブルの上の貝が、カーテンの隙間から差し込んだ柔らかな光を反射している。夕凪は立ち上がり、ジャケットのジッパーを引き上げた。ヘルメットを抱え玄関扉を開けて、駐輪場のCBRへと向かった。
※ ※ ※
信号待ちのシールド越し、七階建てのテナントビルが視界に入った。夕凪は迷わず駐車場へとバイクを滑り込ませ、エンジンを切った。ヘルメットを脱ぎ、バイクを降りてビルのエントランスへとまわった。自動ドア数メートル手前で足を止め、ビルを見上げた。
ハルトが居るはずの四階の窓を眺め、夕凪は左胸ポケットの上から、小銭入れの感触を確かめた。その奥の胸の鼓動までもが、手の平に伝わってくるようだ。 一度、深く息を吐き出すと、彼女は再び歩き出した。ウィーンという音と共に、自動ドアが開く。ロビーに足を踏み入れた瞬間、壁に掛けられた時計が目に入った。
十一時五十八分。人気のない静まり返るロビーの中、時計の秒針の音と、鼓動音とが重なる。夕凪は自販機の傍らに立ち、壁に背を預けて静かにエレベーターホールの方を見つめた。
エレベーターの階数表示の『4』が、オレンジの光を放っている。やがて、その数字が消え、『3』へとバトンを繋いだ。
——ピーン。
三階で停止を知らせる電子音が、静かなロビーに響いた。再び、階数表示が動き出した。
『3』から『2』へ。
夕凪は表示灯から目を離せず、下降してゆくその数字を追う。
『2』から『1』へ。
——ピーン。
一階到着を告げる音。夕凪の身体が、わずかに緊張で強張った。シューという音と共に、エレベーターの扉がゆっくりと開き始めた——。




