再会の足音
——土曜日の午後七時。開店を一時間後に控えたJOE’s BAR——
夕凪は、貸し出されたばかりの黒いエプロンをきゅっと締め、スツールを一つずつ丁寧に拭いていた。
先日、岩下に呼び出されて訪れたとき、凛花に提案されたバイト。東海林と凛花の温かな人柄、それに、店を埋め尽くした客達の猛烈なアタックもあって、週末だけお試しで働くことを決めた。
カウンターの奥、スツールの脚元を掃き掃除しようとした時、夕凪の手が止まった。暗がりに、小さな影が落ちている。拾い上げてみると、それは使い込まれて黒ずんだ、手のひらサイズの小銭入れだった。そこに施された歪な刺繍。それが目に入った瞬間、夕凪の心臓が"ドクン"と音を立てた。手にした小銭入れを見つめたまま、夕凪は動けないでいた。 『Xmas’』
アポストロフィの位置が間違った、不器用な文字。
——遠い記憶、幼い日のクリスマス会——
まるで昨日のことのように、『あの日』の情景が夕凪を包み込もうとした、その時——。
「あら、それ……」
背後から凛花が声をかけた。
「ハルトくんのだわ」
——ハルト——
その名前が耳から流れ込むと同時に、夕凪の思考が一時的に止まった。次の瞬間、全身を目に見えない何かが熱を持って、包み込んだ。
「アイツ昨日、珍しく酔ってたからな」
東海林もカウンターから顔を覗かせた。
「……ハルト……さん」 夕凪の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「夕凪さん、知り合い?」
そのままの姿勢で動かない夕凪を、凛花は少し不思議そうにしながら聞いた。
「……いえ、そういうわけでは」
「そう。まあ、今日にでも取りに寄るんじゃないかしらね。会社の帰りにでも……と言っても、もうこんな時間か」
「あの、ハルトさんはどちらにお勤めでしょうか?」
「え? ……あぁ。ここから十数分のところにある、七階建ての古いビルよ。四階のIT会社だけど」
「私が、届けてもいいでしょうか?」 「えっ?」
凛花が声を上げ、東海林も目を丸くした。
「良ければ、ですけど」
凛花は少し考え、それから柔らかく微笑んだ。
「そうね。彼が今夜来なければ、明日は日曜でうちは定休日だし。ね!」
凛花は東海林に同意を求めた。
「おう。わざわざごめんね、夕凪ちゃん」
「いえ。私がそうしたいので」
——リーン、リーン——
BGMのジャズを割って入るように、カウンターの隅でベルが鳴った。
凛花が手際よく受話器を取る。
「はい、JOE’s BARです。……あら、ハルトくん」
凛花の視線が、夕凪の手元にある小銭入れに落ちた。
「ええ、あるわよ。……えっ、しばらく来られないから預かってて欲しい? 」
凛花は夕凪に笑いかけて続けた。
「昨日話した新しいバイトの子がね、月曜日にわざわざあなたの会社まで届けてくれるって言ってるわ」
受話器の向こうで、ハルトの慌てた声が漏れ聞こえてくる。
『えっ? イヤ、悪いですよ』
「本人がそう言ってるんだし、お任せすればいいんじゃない? 月曜日の昼休み、一階のロビーで待ち合わせって事で。それでいいわね」
凛花は一方的に電話を切ると、夕凪に微笑みかけた。 「って事だから、夕凪さん。宜しくお願いね」
「分かりました。ありがとうございます」
「昨日、超絶美人って話してあるからなぁ。アイツ、この忘れ物を口実に今にでもすっ飛んで来るんじゃねーか?」
東海林が煙草に火を点け、ニヤリと笑ってみせた。
夕凪はバックヤードに行き、畳んであった自分のブルゾンのポケットに、小銭入れをそっと仕舞った。
※ ※ ※
深夜二時。仕事を終えた夕凪は、静まり返ったアパートの自室にいた。
初めての『JOE’s BAR』での仕事は、心地よい疲れを彼女に残していた。 心を落ち着かせるジャズの旋律。それがいつしか、客達の賑わいの喧騒へと入れ替わった。
カウンター越しに交わした何気ない会話や、カクテルグラスが触れ合う澄んだ音。不慣れな手つきで差し出した一杯に、「ありがとう」と微笑んでくれた客の顔が浮かぶ。
ふっと視線を移したテーブルの上に、駿からもらった白い貝。その横に、あの古びた小銭入れが置かれている。夕凪は小銭入れを手に取り、指先で『Xmas’』の刺繍をなぞった。
「持っててくれたんだ」
まるで駿を見つめるような、温もりを宿した視線で、小銭入れを見つめた。
持ち主の名前を耳にした瞬間、真っ白になった頭。気づけば、届け出る事を申し出ていた。
「ハルト……くん」
いつぶりだろうか。唇もその記憶をとうに忘れた名前を、夕凪はそっと呟き、目を閉じた。
※ ※ ※
「イテテ……」
真夜中の静まり返った部屋のドアの向こう、郁人の絞り出すような小声と、廊下を擦るように進む足音に、布団の中のハルトは目を覚ました。
「腰、だいぶ悪そうだな」
ドア越しの郁人に声をかける。
「あぁ。トイレ、手伝ってくれるか?」
「えっ!?」
慌ててハルトは起き上がった。
「ハハ、冗談だ。そこまでじゃない」
「……なんだよ。気をつけろよ」
今朝、突然のギックリ腰に見舞われた郁人を気にかけ、ハルトは仕事を終え足早に帰宅した。今まで分担していた家事も、暫くは一人で担う心構えだ。
トイレのドアの開く音を聞き届けて、ハルトは再び横になった。
(忘れ物を受け取るくらい、寄れば良かったな)
あの小銭入れを思い浮かべながら、ハルトは目を閉じた。
——ハルトと夕凪、二人の意識は、白く煙る遠い冬へと、ゆっくりと沈んでいった——。
※ ※ ※
地区の公民館。ストーブの灯油の匂いと、子供たちの熱気が入り混じるクリスマス会。同じ地区の子供達、二十名程が集まった会。その中に小学六年生のハルトが居た。クリスマス会のメインイベントは、プレゼント交換だった。 ♬『ジングルベル』の陽気な旋律に合わせ、輪になった子供たちがプレゼントを隣へ、隣へと回していく。
「はい、そこまで!」
音楽が止まった。ハルトが手にしていたのは、地味な包装紙に包まれた、歪な形の包みだった。一斉に包みを開ける子供たち。キラキラした文房具や、中には最新のゲーム機のソフト等の、高価な物もある。歓声が上がる中、ハルトの包みから出てきたのは、まるで「おばあちゃんのお下がり」のような、布製の小銭入れだった。
「うわ、何これ。ダサっ!」
ハルトの隣りの子が声を上げる。
その声に釣られ、子供達の視線は一斉に、ハルトの手元に注がれた。 「誰の? おばあちゃんが間違えて入れたんじゃないの?」
「かわいそう」
周囲の子供たちが口々に冷やかし、嘲笑の声が上がる。ハルトは恥ずかしさと苛立ちで顔を真っ赤にし、押し黙った。この迷惑なプレゼントの送り主を見定めるように、子供達で作られた円を、ぐるっと見回した。ハルトの目に止まったのは、両膝をギュッと抱えて俯く少女。その小さな身体を更に縮こまらせ、顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。
ハルトは、プレゼントの送り主がその少女——夕凪——だと察した。戸建て住まいのハルトと、アパート住まいの夕凪。ちょうど二人の家の中間に位置する、砂場と滑り台と鉄棒だけの、小規模な公園。数年前、そこでハルトは夕凪をよく見かけていた。
当時、小学三年生だったハルトは友達と走り回り、一年生の夕凪は砂場の隅で、一人静かに山を作っていた。
珍しく大分市内でも雪が散らつき、凍りつくような寒空の下。そんな中でも他の子達と違い、マフラーや手袋もしておらず、季節の移り変わりを無視したような格好の夕凪。子供ながらにも、「変わった子だな」とハルトは思っていた。
ある日、寒くないのかと思わず夕凪に声をかけた事があった。夕凪は不思議そうにハルトを見ただけで、何も答えず砂の山を作り続けた。その雪のように白い手と頬は、冷たい空気に晒されて、りんごのように赤らんでいた。
そのうちに、ハルトがおもちゃのスコップを持ってきて、夕凪の砂山を手伝ったり、ハルトが誘い、男の子組に混じって、夕凪も鬼ごっこや隠れんぼの遊びに夢中になった。けれど、いつしかそんな無邪気な季節は通り過ぎ、ハルトは小学六年生、夕凪は四年生になった。二人は通学路ですれ違えば、さり気なく目を合わせるだけの関係になっていた。
この年のクリスマス会。夕凪はプレゼントの相談を、母親に出来なかった。夕凪が目にするのは、パートを終え、疲れ切った様子で家事をこなす母親の背中ばかりだ。最近では、父親とまともに会話する姿も見ない。それどころか、喧嘩も増えていった。時折聞こえてくる罵り合いに、堪らず布団に潜り込み、耳を塞ぐこともある。
大人の顔色を窺い、空気を読み、『自分のことは自分で』と、あまりに早く"聞き分けの良い子供"であることを、選んでしまった夕凪。
クリスマス会のプレゼントに、何か体の良いものをと、夕凪が家中を探して見つけ出したのが、以前、祖母からもらった小銭入れだった。
せめてクリスマスらしさをと、最近、学校の家庭科で刺繍を習った夕凪は、慣れない手つきで何度も指をチクリと針で刺しながら、時間をかけてその文字を縫い上げた。 『Xmas’』 スペルを間違っているそれを掌に包み、ハルトは夕凪を見つめた。
周囲の"騒音"は、いつしかその耳から遠のいていった。
「……これ」
ハルトが口を開いた。
ひどい言葉をぶつけられるんじゃないかと、恐れるように夕凪は身をすくめた。
「これ、欲しかったんだ! この文字かっこいいじゃん。俺、こっちの方が好きなの!」
意外な言葉に驚いて、夕凪はハルトの方を見た。小銭入れを高く掲げたハルトが、一瞬だけ、夕凪にニコリと笑いかける。その瞬間、夕凪の中に溜め込んでいた感情が溢れた。ハルトはその嘘で、夕凪と、夕凪が抱える寂しさを、そっと包み込んだ。
夕凪は、絆創膏を巻いた指先を軽く摘みながら、涙で揺れる視界の先のハルトを見つめた。
※ ※ ※
クリスマス会場の公民館の外では、いつの間にか、粉雪がちらつき始めていた。
「雪だー!」
子供達は、目を輝かせながら空を見上げたり、小躍りしている。
「どおりで冷えるはずだわ」
迎えに来た親たちは、コートの襟を立て直し、身を縮める。
それぞれの家路に向かう賑やかなざわめきの中、ハルトと夕凪を静寂が包んだ。
ハルトは手袋をはめようと、ジャンバーのポケットに手を突っ込んだ。
取り出した左手の手袋をはめたその時、ふと夕凪の裸の両手が目に入る。人差し指の先には絆創膏。
ハルトはもう片方のポケットから取り出した手袋を、夕凪にためらいなく差し出した。
「えっ?」
夕凪は思わずハルトを見つめた。
「はい」
ハルトは夕凪の手に、手袋を押し当てた。
「……ありがとう」
夕凪の手には少しばかり大きめのそれを、右手にはめた。ハルトは無言のまま、夕凪の裸の左手を見つめると、自分の裸の右手を夕凪に差し出した。
ハルトの目を見て、その気持ちを感じとった夕凪は、冷たくなった手をハルトにそっと預けた。包み込むように、夕凪の手を握るハルトの手の温もり。夕凪の小さな胸の奥に、ぽっと灯りがともった。
「コレ、大事にする……ありがとう」
ハルトは上着のポケットに入れた手で、夕凪からのプレゼントをそっと握った。
「……うん」
夕凪はハルトと繋いだ手を、キュッと握り返した。
家に向かってゆっくりと歩幅を合わせ、ハルトと夕凪は歩き出した。
二人の頭に肩に、心に——。ふわりふわりと粉雪が舞い降りては、溶けていった。
※ ※ ※
窓の外、澄んだ夜空の星を見上げる夕凪。 仰向けの姿勢で、常夜灯の淡いオレンジを見つめるハルト。
長い年月を超えた再会の足音が、枯葉を散らす風の音に紛れて聞こえてくるようだった——。




