カンパイの夜
——午後八時過ぎ。開店したばかりのJOE’s BAR——
カウンター越し、微かな二つの芳香が程よいシンフォニーを奏で、しっとりと流れるジャズの演奏を色めかせている。岩下の前に置かれたグラスの縁を、琥珀色の灯りが細く反射している。
「やっと会えるんですね」
凛花が少しだけ身を乗り出して、言った。
「社長が前々から熱心に話してた、その——"絵画"に」
「まとうだけで物語が生まれる……か」
東海林が磨いていたワイングラスをかざし、曇りひとつないガラス越しに、静かに目を細めた。
岩下のスマートフォンの画面いっぱいに映し出されているのは、先日撮影された一枚の写真だった。真紅のドレスをまとった夕凪。ガラス細工のような透明感と繊細さの奥に、ドレスの紅にも劣らない熱情を、確かに秘めた佇まい。岩下は画面を覗き込んでいる二人を見ながら、ふっと微笑んだ。
「本当に苦労したんだから、あの子を口説き落とすの」
グラスを軽く揺らしながら、楽しそうに続ける。
「私ね、勝手に“がんこちゃん”って呼んでたの。岩みたいに頑なに断り続けたから。“岩子ちゃん"」
「その岩子ちゃん……夕凪さんを落とした最後の一手は、何だったんですか?」
「それがね、あの子から突然頭を下げてきたの。『お願いします』って」
「"岩子ちゃん"だったのに、ですか?」
「ええ」
岩下は頷き、グラスを手にした。
「多分ね、弟くんだと思う」
「え?」
「一度、現場に夕凪が連れてきたの。歳の離れた弟くんを。しゅんくん……だったかしら」
リキュールを一口飲み、岩下は続けた。
「夕凪、その子の前ではまるで別人でね。冬の寒空の下でも、春の陽気を思わせるような。現場の空気までガラッと変えちゃうんだから」
岩下の声が、少し温度を帯びる。
「今となれば合点がいくわ。あの子がなぜ、喉から手が出るような大手のスカウトをすべて突っぱねてきたのか。東京へ行けば、もっと大きなお金も名声も手に入る。でも、そうなれば弟くんとの生活は壊れてしまう。あの子にとっては、世界を魅了するトップモデルの座よりも、その小さな手と過ごす日常の方が、何百倍も大切だったのね」
岩下は自嘲気味に、ふっと目を伏せた。 「あの子のあの眼差しを見てしまったら……。敏腕社長なんて言われているけれど、私は心の中で白旗を振ったのよ。こっちが降りるしかない……ってね」
「夕凪さん、弟くんのこと、本当に大事に想ってるんでしょうね」
凛花から受け取ったスマホの画面を見ながら、岩下が頬杖をつく。
「影の立役者がいたってことか」
東海林が拭き上げたボトルを陳列棚に戻しながら、呟いた。
——カラン——
ドアベルの音が短く響いた。
「いらっしゃ……いませ」
東海林のどもる声と惚けた表情を見て、岩下は背中に"彼女"を察した。
「お待ちしてました。どうぞ」
凛花が岩下の隣へ迷いなく手を差し出し、席へと促す。
夕凪は軽い会釈を済ませ、岩下の隣りへと歩み寄った。
「来てくれてありがとう、夕凪。とりあえずは、グラスを合わせましょうよ」
夕凪は立ったままの姿勢で、すかさず口を開いた。
「岩下さん——」
その呼びかけに一瞬、違和感を覚え、岩下は夕凪を見つめた。
電話口でモデルの仕事を辞めると告げられた時。その最後の時までは"社長"と呼んでいた夕凪だった。
「一方的にこんな形でお仕事を放棄したこと、お詫びします。申し訳ありません」
夕凪は深く頭を下げた。しかし、その瞳には、譲らぬ意志をハッキリと湛えていた。岩下はその視線を受け止め、直ぐには言葉が出なかった。背筋を正して立つ夕凪の輪郭は、あまりに鋭く、そして潔い。その決心は、どんな説得も、好条件も撥ね返してしまうほどに強固なものだと、岩下は直感で悟った。
「……いやね、そんな改まっちゃって」
岩下は、先手を取られ面食らった面持ちで、上擦った声を発した。そして、ふぅっと、大きく息を吐き出した。
「参ったわ」
表情を緩めた岩下は、知らず強張っていた身体が、ふっと緩むのを覚えた。ここで落ち合う為のメッセージを夕凪に送った時には、既に諦めはついていた。
「そうよね、あなたは"岩子ちゃん"だものね」
岩下は独りごちた。かつてトップモデルとして名を馳せ、今も業界を牽引し続ける女社長の凛とした顔は、ふっと綻び、穏やかな微笑みを湛えた。
「乾杯しましょう、夕凪」
岩下の言葉で場の空気が和らいだ事を感じ、静かに二人を見守っていた東海林と凛花が顔を見合わせ、安堵の表情を共有した。
「マスター! 一番いいシャンパンを出しなさい。今日は業界の女王の完全なる敗北、『完敗記念日』よ。あなた達も祝ってちょうだい」
「喜んで!」
東海林は弾かれたように頷くと、セラーから一本のヴィンテージ・シャンパンを取り出した。
「さぁ」
岩下は夕凪の腰に手を当て、席へと促した。夕凪はようやく、スツールへと静かに腰を下ろした。抜栓の低く弾ける音が響き、クリスタルのグラスにゴールドの液体が次々に注がれた。
「乾杯!」
四つのグラスが合わさり、軽やかな音を立てた。
「ごめんなさいね。謝らなければいけないのは、私の方だわ」
シャンパンを一口飲み、岩下が切り出した。
「あなたの痛みに気づけなかったこと……本当に、申し訳なかったわ」
岩下の言葉に、夕凪は微動だにせず、ただ静かにクリスタルのグラスを見つめていた。
最後の撮影の日、夕凪から「モデルを辞める」と切り出された時、動揺と困惑から、電話口の向こうの温度のない声と、表情の見えない夕凪に叱責を浴びせてしまった。だが、夕凪は一言の言い訳もせず、理由を尋ねても、口を閉ざしたままだった。
岩下は夕凪の横顔を見て、そして続けた。
「スタッフに聞き取りをしたわ。機材撤収が終わってみんなが引き上げた後、佐伯とあなただけがスタジオに残っていたそうね。実は以前から、他のモデルからも彼の不適切な距離感については相談を受けていたのよ。だから私、本人に聞く前に、監視カメラの映像を確認したわ」
夕凪がグラスを持つ手に、わずかに力がこもる。
「……映っていたわ。仕事を盾にした、彼の卑劣な行為のすべてが。プロのカメラマンとして以前に、人として到底許されることじゃない。即刻、佐伯との契約は解除したわ。業界内でも今回の件は周知させる。二度と彼が、カメラを武器に誰かを支配することはないように」
夕凪はただ黙って岩下の言葉を聞いていた。
「……もう一度、なんて軽々しくは言えないけれど。もしあなたがまた表現することを選びたいと思うなら、次は私が、あなたの壁になるわ」
夕凪の、ずっと張り詰めていた肩の力が、目に見えないほどわずかに抜けた。
「美味しいです」
夕凪は岩下に微笑みかけ、黄金色の液体を飲み干した。
※ ※ ※
二杯目のグラスを空ける頃、岩下の頬はほんのりと赤らんでいた。隣に座る夕凪の横顔を熱っぽく見つめている。
「ねぇ、夕凪。……あなた、自分がどれだけ『罪な女』か自覚してる?」
唐突な問いに、夕凪はグラスを止めて岩下を見た。
「私ね、最初はビジネスだと思ってた。あなたのその圧倒的なビジュアルを、どうやって高く売るか。そればかり考えてたわ」
岩下はくすっと笑い、自分のグラスの縁を指でなぞった。
「でもね、いつの間にかモデルとしての夕凪じゃなくて、あなた自身に……『夕凪』っていう一人の人間が、どんな景色を見て、どんな風に生きてきたか、知りたくてたまらなくなっちゃったのよ」
カウンターの脇でグラスを磨く東海林と、隣で聞き耳を立てていた凛花が、思わず動作を止める。
「こんな野暮なこと、プロ失格だから口が裂けても言わないつもりだったけど」
夕凪は、何も言わずに岩下の言葉を飲み込んでいる。
「もしかしたらね……」
岩下は少し声を落とし、琥珀色の照明を見上げた。
「佐伯も、そうだったのかも知れないわ。あなたという底知れない存在に触れたくて、暴きたくて、それがどうしようもなく歪んだ形で溢れ出しちゃったのよ」
岩下の言葉は、決して佐伯への同情や擁護などではなかった。
むしろそれは、避けることのできない夕凪という存在そのものへの警報だった。岩下は用意されたチェイサーを、クイっと飲んだ。
「あなたは、良くも悪くも人を惹きつけすぎてしまう。モデルを辞めても、その『何か』は消えないわ」
岩下は、カウンターに置かれた夕凪の手に、自分の手をそっと重ねた。
「その事を、決して忘れないでね……気をつけなさい」
夕凪は、重ねられた岩下の手の温もりをじっと感じていた。
「……はい、社長」
「あら、今は岩下さんでしょう?」
岩下が悪戯っぽく微笑むと、ようやく場の空気がふわりとほどけた。
黙って成り行きを見守っていた凛花が、おずおずと口を開いた。
「あの、夕凪さん、もしよかったらなんですけど……うちで、バイトしてみないかなって」
夕凪の目が、わずかに見開かれた。
「ちょうどクリスマスシーズンに向けて人手が欲しくて。それに……」
凛花はチラリと東海林の方に視線をやった。東海林は慌てて顔を逸らし、シャンパンの空きボトルを磨き始めた。
「夕凪さんがカウンターに立ってくれたら……席を埋め尽くす賑やかな光景が、もう目に浮かびます。既に、浮かれてるヤロウがここに一人いますし」
くすくすと笑いながら言う凛花に、東海林が「おいおい」と苦笑する。
「お客集めまで計算済みとは、あなたもなかなかやり手ね」
岩下が感心したように呟いた。
「……少し、考えさせて下さい」
凛花を真っ直ぐに見つめ、夕凪は答えた。
「ええ、もちろん。急な話ですもの。またゆっくり、あなたの答えを聞かせて」 「それでいいわ、夕凪。自分の居場所は、自分で吟味して決めなさい」
岩下も満足そうに頷いた。
程なくして、珍しく早い時間から常連客や一見客で席が埋まり始め、あっという間にJOE’s BARは満席となった。賑やかになった店内を背に、凛花がドア越しの客に申し訳なさそうに、謝っている。
「ごめんなさい。見ての通り、珍しく満席になってしまって。また待ってるわね」
ドアが閉まり、凛花がカウンターの中の東海林に歩み寄った。
「林田くん。ハルト君も一緒だったわ」
「そうか。あいつらも運がねえな」
東海林が肩をすくめ、手際よく次のオーダーのグラスを準備する。
熱気を帯びていく店内。酔って突っ伏した岩下の背を優しくさすっていた夕凪の耳には、その会話は届かなかった。
JOE’s BARのドアの外にまで漏れ聞こえる賑やかな声。その喧騒を背に、やむなく入店を拒まれた二つの足音が、行く宛を彷徨い遠ざかっていった——。




