声無き声の花
太陽が西に傾き、一日の終わりを告げるように、柔らかな光が空と海を黄金色に染め始めた。
駿は海辺を散歩していたゴールデンレトリバーとひとしきり遊び、別れの手を振った。その様子を見守る夕凪に呼応するように、駿も笑顔で歩み寄った。夕凪の前で立ち止まり、不意に足元に視線を落としてしゃがみ込んだ。砂に埋もれかけていた白い貝を、まるで宝物を扱うように拾い上げた。
「これ、海の音がするんだよ!」
夕凪を見上げ、自慢げに言う駿。
「そうなんだ——」
言いかけて、夕凪はハッとした。胸を鋭い衝撃が突き抜けた。
あの男性——大観峰での一瞬の視線の交わり——と、駿とが重なった。 駿の真っ直ぐな眼差しが、あの時感じた既視感を、鮮烈に呼び起こした。
「ほら!」
耳に当てて、『海の音』を聞いていた駿が、夕凪に貝を手渡した。
「……うん」
夕凪も貝を耳に当ててみた。サァ〜ッという波のような。遠くで、何かが静かに引いていく、そしてまた、寄せてくるような。その音を聴きながら、夕凪は目を閉じてみた。
風に運ばれてきたハットを、足元から拾い上げたあの顔、あの目が鮮明に思い出される。
あの瞬間。ほんの刹那だったが、何故男から目が離せなかったのか。駿を思い出したから?夕凪は、その事に間違いはないと理解している。でも、それだけではない気がする。
遠ざかって行く男と女。その後ろ姿を見ながら、胸を撫でた名前のない感情は——。
「夕凪姉ちゃん?」
駿の呼びかけにハッと我に返った。
「——ほんとだ。海の音がする」
「……あげる!」
「え? いいよ。駿が持って帰りな」
「いいから、いいから」
「……うん。ありがと」
波打ち際へと、二つの影が長く伸びている。振り返ると、夕陽が山の端に沈みかけようとしていた。
ふいに、駿が夕凪の手を取った。夕凪もその小さな手を優しく握り返した。
眩しいオレンジの夕陽に向かって、二人は駐車場へと歩き出した。
※ ※ ※
浴室の立ち籠る湯気の中、夕凪はシャワーの、背中を叩く水音に耳を澄ませていた。その背中には、まるで熱風に煽られて、一瞬で生命を奪われた花のような痕。
指で触れる度、『十一年前の記憶』が鮮烈に浮かび上がる。
夕凪は目を閉じた——。
※ ※ ※
駿のミルクを作るために沸かしていたやかんが、シュンシュンと鋭い音を立てていた。
母はミルクの分量を何度も間違え、同じところをぐるぐると回っていた。
何かを探しているようで、何も見つけられないまま、立ち尽くす。
一瞬、母の肩が大きく上下した。喉の奥で、言葉にならない息が絡まるような音がして、夕凪と駿の居る方を振り返った。目をかっと見開き、やかんの取っ手を強く掴んだ。
母親は狂気じみた叫び声をあげ、途端に駿が泣き声をあげた。次の瞬間、やかんが宙を舞った。夕凪は考えるより先に、咄嗟に駿に覆い被さった。背中を熱が、叩きつけた。皮膚の奥まで焼き抜かれるような痛みに息が止まり、声が出なかった。
(——駿は!? ……よかった)
小さな命の無事を見届けた夕凪、その意識が遠のき、世界が白く染まっていく中で、腕の中で必死に泣き叫ぶ駿の声だけが聞こえていた。
※ ※ ※
再び目を開けると、浴室内はシャワーの湯気で真っ白に覆われていた。
一瞬のフラッシュバックと同時に、背中に疼くような感覚が走った。背中に伸ばした指を伝うおうとつが、「忘れるな」と囁くようにそこに存在し続けている。
背中の萎んだ花は、夕凪の体の一部として静かに、そして確かに息づいていた。それは消えることのない過去の刻印であり、夕凪を形作る、誰にも触れさせない秘密の紋章だった。
※ ※ ※
飾り気はなく、整然としたリビングに、浴室の水音が微かに忍びこんでいる。テーブルには白い貝がスマホと並んで置かれてある。
暗転していたスマホのディスプレイが点灯し、一通のメッセージを映し出した。
——会って話がしたいの。
JOE’s BARに居るわ——




