9 氷解
「リリー‼」
勢いよく開いたドアからノアが入って来た。リリーは驚き過ぎて、涙が止まってしまった。
「…え」
「リリー!泣いて…⁉ アレク、何があった⁉」
「遅いよ、ノア。リリー様を慰めていいのは俺じゃないんだからさ」
立ち上がり、右手でノアの肩を軽く叩いた。そのまま何も言わず出ていく。
ノアはリリーに駆け寄った。
「リリー!マーガレットに何かされた⁉」
「大丈夫、です。アレク様のおかげで落ち着きました」
その言葉に複雑な気持ちになる。リリーの横に座って、慰めるように肩を抱いた。
「ごめん、僕がもっときつく彼女に言うべきだった。二度と君に近づけさせないから」
彼女の話をするノアにズキッと胸が痛み、また涙が出なくなった。
「いえ。大丈夫ですので…」
「大丈夫な訳ないだろう⁉ こんなに泣いているのに」
滅多に聞かないノアの大声に、目を見開く。
「…リリー、もしかしてだけど、面会の日に会いに来てくれた?」
一瞬、時間が止まった。
表情を悟られないよう、震えそうになる手で必死にドレスを掴む。
自然に。
笑って。
「……あの日は、体調が優れなくて。行けずに、申し訳ありませんでした」
両肩に力が入ったまま、誤魔化すよう口角を上げた。
そんな様子のリリーを、思わず横から抱きしめる。
「…ごめん!」
ドクンと一際、大きく胸が鳴った。
駄目だ。嫌だ!知られたくない!
ギュッと目を瞑り、恐怖に縮こまる。
あの日の言葉がまた脳裏で再生され、何度も胸を刺してくる。
ノアは歯を食いしばり、腕に力を込めた。
「本当にごめん!君を傷つけるつもりはなかったんだ」
やめて!
リリーはついに耳を塞いだ。
「…何も、聞きたくない…。もう、やめてください」
耳も目も閉じ、ノアから離れようと体を反対側へ向ける。
「…………ごめんなさい。私なんかで…ごめんなさい…」
「リリー⁉ 何を…」
ノアはハッと気づく。
リリーの頭の中で、何度も何度も繰り返される言葉。
『そうだよなぁ。婚約が決まった時、お前も相当嫌がっていたもんなぁ』
いつの間にか流れ出た涙にも気づかない程、リリーは取り乱し、何度も謝罪を呟いた。
「リリー‼違う!そうじゃないんだ!」
ノアは混乱状態のリリーの肩を掴むが、リリーはノアを見ようとはしなかった。
「ごめんなさい…。ごめんなさい…」
「リリー…」
目の前が真っ暗になった。ここまでリリーの心を壊したのは紛れもなく自分だ。
リリーの肩に置いた手を力なく下ろす。
『そもそもお前は彼女に価値があることを伝えているのか?』不意にハリスの言葉が浮かんできた。
伝えているどころか、まさかこんなに苦しめていたなんて…。
「リリー」
彼女の前に座り込み、優しく手を取った。静かなその仕草に、リリーもやっとノアを見る。
「リリー。僕は君が好きだ」
「…嘘」
リリーはふわっと笑った。まだ涙は頬を流れている。
「嘘じゃない!結婚したいと心から思えるのは君だけだ」
「…親戚だものね、私達」
「そうじゃない!家の為じゃなく、僕は君が好きなんだ」
「…もういいの。…あの日、私、あなたに会いに行ったの。全部…聞いたの。だから、もう、そんな嘘つかないで」
リリーはまたノアから目を逸らし、やりきれない表情になった。すぐに手で顔を隠す。
「リリー。違うんだ。本当に」
ノアは拳を握りしめた。信用を失った自分の言葉がどれだけ無力か思い知る。
僕があの日すぐに訂正していれば、リリーはこんなに傷つかずに済んだんだ。
「親に勝手に婚約者を決められて嫌だったのは事実だ…」
リリーは視線を床に落としたまま、弱弱しくノアの方を向く。
「兄に構いっきりで僕のことには無関心だった両親が、将来に干渉してきたことが許せなかったんだ。誓って、君が嫌だったなんてことはない!」
強く言い切ったノアに、やっと視線を上げることができた。
「戦争に行っている間、ずっとリリーのことを考えていた。君と一緒にいられた日常がどれだけ幸せだったか思い知った。疲れた時に君のお菓子を食べると元気が出たし、いつも隣で笑ってくれる君に何度も癒された。結婚相手はリリー以外考えられない。僕に穏やかな時間を与えてくれるのは、いつも君なんだよ、リリー」
ノアの顔があまりも柔らかくて、ウッと言葉に詰まる。涙がまた頬を濡らした。ヒックヒックと声が漏れる。
泣き止まないリリーを、ノアはそっと抱きしめた。
「傷つけてごめん。彼らの言葉なんて、どうでもいいと思っていたんだ。だけど、君の良さは僕だけが知っていればいいなんて考えは、間違っていた。今度からはちゃんと伝えるよ。もう二度とこんな風に君を傷つけたりしない。約束する。ごめんね、リリー」
言葉が出ない代わりに、何度も首を横に振った。
「…私が、勝手にっ…。ノア様に相談すれば良かったのに……恐くて…」
卑屈になって、自分で自分を否定した。
ノアは自分の胸にリリーを抱き寄せた。
「ねえ、リリー。今度また僕にお菓子を作ってくれる? ずっと食べたかったんだ」
ひとしきり泣いて、やっと顔を上げる。
「……はい。とびきり美味しいのを!」
部屋を出るとアレクは一人優雅にお茶を飲んでいた。
「やあ、お二人さん。どうだった、俺の淹れた紅茶は? 素直になれるスパイス入りだ」
アレクがカップを片手にウインクを寄こした。
「ああ。お前のおかげで助かったよ。リリーのこと知らせてくれてありがとう」
「いや。たまたま通りかかっただけさ。でももしお礼をしてくれるなら、リリー様のお菓子がいいな」
「私で良ければ、いつでも喜んで」
さっきとは一変して笑みがこぼれたリリーに、アレクも安堵する。
「マーガレットの件はごめんね。俺らも昔から手を焼いているんだ。なあ、ノア」
「ああ。昔から好かないと思っていたが今回のことで完全に嫌いになった」
「え…昔から?」
「そうだよ。ノアは昔から彼女を嫌っていた。俺も苦手だしね。でも貴族の家に生まれた以上、どんな相手でもそれなりに対応しないとね」
「だからあんなに付け上がったんだ」
「嫌われているとも知らないでね。でも安心して。俺とノアが二度とリリー様に近づけさせないからさ」
「そう。お茶会なんて二度と出なくていい」
頼もしい二人に力が抜ける。
なんだ、そうだったんだ。私ったら、勝手に傷ついて…。
「俺はね、ノアの相手が君で良かったと思っているんだ。誰に対しても丁寧に対応するし、ちゃんと自分の好きなものも持っていて手間を掛けられる人だ。きっとノアのことも大切にしてくれる。
今度また二人で遊びにおいでよ。特製の美味しいお茶を用意して待っているからさ」
「…はい!その時は手作りのお菓子を持ってきますね!」
「いいね!楽しみだ!」