8 流れる涙
帰り道を歩いていた馬車がゆっくりと止まった。
「リリー様、アレク様と仰る方が少しお話をしたいと」
「…アレク様?」
夜会であったお洒落な彼を思い出す。
正直、会いたくない…。だけどちゃんと対応しないと、私のせいでまたノア様に恥をかかせてしまうわ…。
馬車から降りようとすると、人懐っこい笑顔を浮かべたアレクが、軽く右手を上げてそれを止めた。相変わらず洗練されている。
人目を気にしてか、御者に話しているような素振りで、リリーに話しかける。
「やあ、呼び止めてしまってごめんね。マーガレットの家から出てくる君が見えたものだから」
「…お茶会にお誘いいただいたのです」
思い出したくなくて、目を泳がす。
「実は俺の家もすぐそこなんだ。良ければ少し顔を出していかない? ちょうど兄が友人を呼んでいて変な噂は立たないし、裏口から入れば彼らには会わないからさ」
「…それは」
「俺と二人きりになるのが心配?」
「心配というか…」
「でも俺は君が心配」
「え?」
「マーガレットに何か言われたでしょう? 彼女の家から出てきた時から顔にそう書いてあった」
図星をさされ、足元に目をやることで顔を隠す。
アレクはそんなリリーを気遣うように、横を向いた。
「…とっておきの紅茶があるんだ。きっとホッとできると思う」
不意打ちの言葉に、泣きそうになった。
「大丈夫。気に入ってもらえるはずだよ。一人で飲みたいなら、持ち帰れるように準備させるよ。ちょっとだけでいいから、時間をくれない?」
黒く沈んだ心に、優しさが沁みわたってくる。
目に溜まった涙が落ちないよう上を向いて、唇を噛み締める。そうして、ゆっくりと頷いた。
アレクの屋敷はマーガレットの屋敷よりまだ大きかった。色んな馬車が止まっている。集まりは本当のようだ。
「ここで待っていて」と応接間に通され、ソファで待つ。心地よい部屋だ。ちょうどいい狭さと日当たりのせいかもしれない。
「お待たせ」
アレクがトレーを持って現れた。
てっきり使用人が現れると思っていたリリーは、瞬きしながら机にトレーを置くアレクの行動を目で追う。アレクはL字型になるよう置かれた、もう一つのソファに腰を下ろした。
「あの…?」
「ああ、俺、紅茶を淹れるのに、はまっていて」
「アレク様が?」
「そう。安心して。何度か試しているから」
言葉通り、慣れた手つきでカップに注ぐ。
「好きなんだ。こういうの。料理とかね。集中できるから」
「…お料理もなさるんですか?」
「そう。結構、頭使うんだよ、料理って。でもそれが良い。リリー様はお菓子作りがとてもお上手だとか。俺は、お菓子作りは苦手なんだ。だから今度教えてよ」
「…私はもう」
「ノアがね、君のマドレーヌが一番美味しいって言うんだよ」
「…え?」
「パティシエの作るものより優しい味がするんだって。それを聞いてから食べてみたくてさ。今度ノアには内緒で俺の分も作ってくれない?」
唇に人差し指を当てて茶目っ気たっぷりにお願いしてくるアレクに、自然と言葉が口をついて出る。
「……お菓子作りなんて、恥ずかしいと言われてしまって……中流階級のようだと…ノア様にもご迷惑を…」
声が震えてそれ以上は言えなくなった。
「…何それ? マーガレットに?」
アレクが顔を顰め、少し怒気が含んだような声を出した。
「そんなの気にしちゃ駄目だ。少なくとも俺はリリー様を尊敬しているよ。お菓子作りがどれだけ大変か。正確さ、素早さ、根気強さ、あと何気に体力がいるでしょ? だからそれを一人でこなせるリリー様は誇っていいんだよ。すごい事なんだからさ。それにお菓子を作るリリー様が中流階級なら、料理をする俺もそうだ」
目に溜まった涙が、一筋落ちた。あの日から、一度も涙なんて出なかったのに、今は堰を切ったように溢れ出す。
勝手に、全員に否定された気になっていた。
そっと手渡されたハンカチをきつく握りしめる。
「…ありがとう、ございます」
「今日、呼び止めていいのか迷ったけど、良かった。リリー様が一人で泣くことにならなくて」
リリーはハンカチで顔を隠し、首を横に振った。
「…ずっと、泣けなくて…。きっと…一人では泣けなかった……」
お礼を言いたいのに、嗚咽に変わった。