5 自己否定
去り行くリリーを目で追いながら、三人は会話を続けた。
「リリー様は大人しい方ね。素朴で親しみやすいわ」
ふっとマーガレットが笑った。ワインの酔いが回っているのか、ノアの方に上半身が傾いて、今にも触れ合いそうだ。
「派手に遊んでいるよりずっといいさ。な、ノア」
「そうだな」
マーガレットはムッとした顔を隠した。
「でも、この状況で席を立つなんて…。ノア、あなた好かれていないんじゃない?」
ピクリとノアの手が動いた。飲もうとしていたワインを下ろす。
ステイシーと話し込むリリーを目に入れる。本人は気づいてないだろうが、いつもと雰囲気の違う彼女は、男性陣の目を引いていた。
アレクはワインを片手に、チーズを摘まむ。
「俺達三人が昔話なんてしたからだろ。まずは共通の話題から始めるべきだった」
「えー、もう少し社交性を身につけた方がいいんじゃないかしら? それに私なら好きな人の子どもの頃の話なんて、聞きたくて仕方ないけど?」
「気兼ねなく話せるよう、気を利かせてくれたのさ。できた婚約者じゃないか」
「ああ」
「分からないわよ? 戦争で会えない内に浮気する女性も多いと言うし」
「マーガレット。その発言はノアにもリリー様にも失礼だ。気にするなよ、ノア。彼女はそういうタイプではないさ」
「ああ。分かっている」
だが、今日の彼女はどこかおかしい。
弦楽器の音が鳴り響くと、途端に話を止め、移動を始めた。
「リリー。ダンスの時間だ」
ステイシーと話し込んでいると、ノアがわざわざ迎えにきてくれた。遠くでアレクが女性陣に囲まれているのが見える。
「じゃあ、リリー。私も踊ってくるわね」
「うん!またね、ステイシー」
ノアの後ろからひょっこりとマーガレットが顔を覗かせた。ノアの右腕にひっついている。
「ねえ、リリー様!私もノアと踊りたいの!ほら、私達久しぶりに会えたでしょう? 昔はよく一緒に踊っていたから懐かしくて」
「…ええ。どうぞ踊って来てください」
微笑むリリーに、ノアがため息を吐いた。
「リリー。マーガレットのことなんて気にすることない。さ、手を」
「…先程少し飲み過ぎてしまって…。今日は踊れそうにないんです。だからマーガレット様にお願いしてもよろしいですか?」
「ええ!勿論よ!」
「それなら付き添うよ」
リリーを支えるように横に移動しようとするのを、止める。
「いいえ!そこで座っていますから問題ありません。行ってきてください。折角一緒の夜会に参加できたんですから」
「ありがとう!リリー様。さ、行きましょう、ノア」
ノアは何か言いたげだったが、マーガレットに手を引かれるまま会場の中心へと向かった。
踊る二人を見ていられず、椅子に座り下を向く。
「どうぞ」という声とともに、コトッと目の前で音がした。
「え」
顔を上げると、テーブルに水が入ったグラスが置かれている。
「またお会いしましたね」
「あなたは…」
聞き覚えのある声だった。
心配そうに見つめるのは、ふんわりとしたオレンジの髪に、切れ長の瞳、引き締まった顔立ちの男性。二十代前半くらいだろうか。
「また眩暈ですか?」
「ああ、やっぱりあの時ぶつかった…」
リリーは立ち上がり、目を合わす。初めて顔を見た。
「あの時は失礼な態度をとって申し訳ございませんでした」
「いいえ。こちらこそ無理に引き留めてしまって。どうぞ無理せずお座りください」
「あ、いえ。眩暈では。考え事をしていただけです。お水、ありがとうございます」
丁寧に礼を言うリリーに、「いえ」と優しい顔になった。
「実は、あの後気になっていて。無事が確認できてよかったです」
相変わらず柔らかい話し方だ。
「碌なお礼も言えず…。あの時は気にかけてくださって、ありがとうございました」
「お気になさらず。それより、こちらに座っても宜しいですか?」
リリーの隣の椅子を手のひらで指し示した。
「ええ。勿論です。どうぞ」
男は優雅に腰かけた。目の前では大勢の男女がダンスを披露している。
「優雅で良いですね。あ、私は騎士団に所属しているハリス・ハワードと言います」
「ハリス様。リリー・ワトソンと申します」
「リリー様はどなたと来られたのですか?」
「…婚約者と。といっても形だけですが」
「政略結婚ですか。この国では珍しくないですからね。で、その彼はどちらに? ご挨拶もせずリリー様とお話していては気分を害されてしまうでしょう」
「…彼は今、ダンスを」
「は⁉」
「あ、いえ。私が飲み過ぎてしまって、その女性にお願いしたのです」
それならば踊らなければよい。ハリスは訳ありな様子を感じ取り、それ以上は口を噤んだ。
「それでは、私がリリー様とこうして話していても問題なさそうですね」
軽く言ったハリスに、くすっとリリーも笑う。
「ハリス様には助けられてばかりです」
今も、ハリスがいなければ胸の痛みに耐えられなかった。
「私は何も——」
「ハワード副隊長!」
前からノアが早足で近づいてくる。
「ノア? なんだ、お前も来ていたのか」
ノアはリリー越しに、ハリスを睨んだ。
「ええ。それより私の婚約者が何か?」
「え」
ハリスは驚いて、リリーとノアを見比べる。
「お前が彼女の婚約者なのか?」
「そうですが」
ハリスは複雑な表情になった。まさか真面目で優秀なノアが、婚約者を放置して他の女性と踊るなんて…。
ハリスは両手を広げ、触れていないことをアピールした。
「そう睨むなよ。彼女の具合が悪そうに見えたので声を掛けただけだ。それに、こんな場所で婚約者を一人にするお前が悪い」
ハリスはノアのすぐ後ろに立つマーガレットを横目で見た。
「それは…」
「リリー様にお許しをいただいて踊らせてもらったのです!私達は幼馴染なので。ね、リリー様」
言い淀むノアをフォローするようにマーガレットが一歩前に出た。ノアと横並びになる。
「…ええ」
「とっても楽しかった!ノアのダンス、昔と変わらなくて安心しちゃった。ねえ、また」
「マーガレット、そろそろいいかな? ハワード副隊長も、リリーを心配してくださり、ありがとうございました。後は私が引き受けますので」
マーガレットを引きはがし、リリーの肩を抱いた。
「あ、私は…」
「きっと人酔いしたんだろう。一度外に出よう」
「いえ、大丈…」
「いいから」
強引に腕を引いて連れ出そうとするノアに、リリーは諦めて二人に挨拶した後、外へと出た。
外は会場の中の熱気が嘘のように静かで、凛とした空気が流れている。
窓から漏れる灯りで足元が辛うじて見えた。
「あ、あのノア様」
庭園の噴水までたどり着いたところで、前を歩いていたノアは、リリーの手を離し、振り返った。
「リリー。僕が戦争に行っている間に何かあった?」
月光に照らされたノアはいつもより美しく、少し怖く感じた。
「…何もないです」
そう、何もない。
最初から何もなかったことに、今更気づいただけ。
ズクンと胸がまた痛む。
「ではなぜ私が贈ったドレスではないの?」
「これは…お母様から頂いたものを一度も着ていないことに気づいたので」
「僕の色ではないね。いつも黄色か緑色を着てくれていたのに」
「……たまにはいいかと」
「戦争が終わって、やっと会えたのに?」
「……私、ノア様に頼り過ぎていたと気づいたのです。だからこの色は、ノア様からの自立の一歩です」
明るい表情と声を心掛けた。手は震えているけど、バレてはいないだろう。
「まるで僕から離れたいような言い方だね」
「……そんなことは」
あるはずない。ずっと一緒にいたいと思っていた。でも今日、マーガレット様といるノア様を見てそれは無理だと悟った。
「他に思いを寄せる人でもできた?」
ノアは赤いドレスを視界に入れる。ちょうどハリスも赤いネクタイピンを付けていた。
「まさか!」
「ハワード副隊長とは今日が初めて?」
「えーと、…はい。…そうです」
嘘をついた。あの日、騎士棟へと向かったことは絶対に知られたくない。憐れみなんて掛けられたら、惨め過ぎて生きていけない。
私は何も見ていないし、聞いていない。馬鹿で鈍感な婚約者だと思われたまま。それでいい。その方がずっといい。
無意識に両手をきつく握りしめていた。
「それにしては、随分と仲が良さそうだったね」
初対面の人間とは少し壁を作るタイプのリリーが、あんなに安心した表情を見せるなんて…。
「お話のしやすい方だったので」
「そう。ねえ、お菓子作りを止めたって本当? あんなに楽しそうに作っていたのに」
ずくっと胸が抉られる。
「……本当です。令嬢にあるまじき趣味だったので」
「マーガレットの言う事を気にしている? あんなの気にする必要…」
「いいえ!私自身が嫌いになったのです。二度と作りません」
台所にも入りたくないし、もう道具すら見たくない。
強い否定の言葉にノアが目を見開く。
「リリー、やっぱり何か」
「すみません!気分が優れなくて…。会場に戻ってもいいですか?」
虚勢はあえなく失敗した。