3 愛のない婚約
「ごめんなさい。途中で体調が悪くなってしまって、これ渡せなかったの。あなた達で食べてくれる?」
焼菓子の入ったバスケットを侍女に手渡す。
「えっ。あんなに楽しみにしていらっしゃったのに、大丈夫ですか⁉」
「寝れば治るわ。今日はもう寝るから、起こさないでね」
それだけ言い残し、部屋へと直行する。
ドアを閉めた途端、ずるっと床に座り込んでしまった。
…マーガレット様。美しくて、溌溂として、身につけていた品も一流品だった。
「マーガレット様がいるのに」
あの言い方だと、割り込んだのは、きっと私の方だ。
「リリー、あなたに婚約者ができたわ。ノア様よ。騎士団に所属してらして、将来を有望視されているの。良かったわね」
母から紹介された彼は、サラサラの金髪に、深い緑色の瞳が印象的な人だった。こんなに素敵な人がこの世にいるんだって息を呑んだのを覚えている。口数が少なく、落ち着いた雰囲気も心地よくて、好きになるのに時間はかからなかった。
騎士団のホープで、伯爵家の次男。
我が家とは遠縁にあたる。
資金や領地の保持の為に親族間で結婚するのは珍しくない。いとこ同士の結婚もこの国では目立つ。
——最初から、愛なんてない。
…なのに一人で浮かれて、馬鹿だな、私。
ノア様には愛する方がいらっしゃったのに…。穏やかに笑いかけてくださるのを、暢気に真に受けるなんて…。
みっともない自分が情けなくて、膝に顔を埋めた。
…どうすればいいのかしら。
我が家は子爵家だ。伯爵家の彼に婚約破棄を言い出すことは失礼にあたる。それに結納金の事を考えると私の両親が納得しないだろう。
かといって、ご両親の意思を曲げてノア様が婚約破棄を言い出すとは思えない。
本当はノア様にご相談したいけれど…。
「私は全部知っています。お二人の望まれるようにしてください」
なんて、まるで脅迫のよう。それにノア様に婚約破棄をする気がないなら、気まずくなるだけだわ。
今まで通り、何も知らない振りで結婚して、お二人の仲を見て見ぬ振りをして過ごすのが一番いいのかもしれない。
…そうよ、何を落ち込むことがあるっていうの。私は幸せよ。ノア様は頻繁に手紙をくれるし、ドレスや宝石だって贈って下さる。家だってお金持ちだし、騎士団でも活躍されている。こんなに良い婚約者はいないわ。
ただ、愛がないだけ。そんなの、よくあることよ。
鈍い胸の痛みは無視することにした。
仮病だったのに、翌日、なんと本当に熱が出て寝込む羽目になった。
驚いた。知恵熱なんて初めてだわ。
「リリー様。ノア様がいらしております」
「何ですって⁉」
侍女の言葉に驚いて、ガバァとベッドから上半身を起こした。
「いかが致しましょう?」
「…体調が優れないの。移しては大変だわ。丁重にお帰りいただいて」
「かしこまりました」
まさかノア様から来てくださるなんて。私が昨日、顔を出さなかったからだわ。お忙しいノア様にお手間を取らせてしまった。
ズーンと布団に顔を沈める。
まだ笑顔を作れそうにない…。
夕方には体調が回復し、階下に向かう。
「リリー様。もう大丈夫なのですか? こちらノア様からです」
黄色の薔薇の花束が花瓶に飾られている。黄色は私の好きな色だ。ノア様の髪の色を想起させるから。
「とても綺麗ね。お礼のお手紙を書くわ」
直接渡しに来てくださるなんて、責任感が強くて、律儀なところは変わっていらっしゃらないわ。
ふっと寂しくなったのを、首を振って誤魔化した。
「ねえ、今度の夜会なのだけれど、メイクや服装にとびきり気合を入れたいの。いつもより時間を掛けて欲しいのだけど良いかしら?」
「勿論です!久しぶりにノア様にお会いできるんですもの!流行りのメイクなども調べておきますね」
「ありがとう。あと以前にお母様から貰った赤いドレスを着て行こうと思っているの」
「ドレスはノア様が贈ってくださるのでは?」
「いいえ。どうしても赤いドレスが着たいのよ」
「そうですか。ではご用意しておきます」
侍女の言う通り、夜会の前日にはドレスが届いた。淡い緑色のドレスは箱から出されることはなかった。